九月に入り、日は急速に短くなった。
放課後の廊下に差し込む光は夏よりも低い角度で滑り込み、影を長く引き延ばす。
その斜光の中で、柚木はいつも通りだった。
声は快活で、笑みのレスポンスは速い。頼まれごとを断る姿も見ない。
だからこそ分かる。
彼は致命的に変わってしまった。
俺はこの二週間、彼の完璧な表面を凝視し続けてきたのだから。
※
最初の異変は、昼休みの教室で観測された。
柚木が後輩に声をかけられていた。天文部の備品発注に関する、些細な必要事項らしかった。
柚木はいつものように深く頷き、いつものように「任せて」と請け負う。
後輩が満足そうに去っていくのを見送った後、彼は自分の席へと戻った。
机に置かれた教科書を開く。
だが、彼は一ページも、めくらなかった。
教科書の端を、彼の親指が微かに圧迫している。めくろうとする意志の形は保たれているのに、肝心の指に力が宿っていない。ページの角がわずかに折れ曲がったまま、元に戻らなくなっている。
視線は表紙の一点に落ちたままだった。文字を追っている目ではなかった。
周囲では、日常という名のノイズが平然と流れている。
パンの袋を裂く音。椅子を引く振動。窓際で弾ける笑い声。
柚木は、それらの刺激のどれにも反応を示さなかった。
いつもの彼なら、笑い声が聞こえれば反射的に顔を上げただろう。だが今の柚木は、教室の喧騒から完全に遮断された真空地帯に、ただ独りで座り続けていた。
次の授業を告げる予鈴が鳴り、彼は瞬時に「いつもの顔」を再構築した。
その出力が完了するまでに、およそ十分の時間を要した。
※
三日後の放課後。俺はあえて帰宅ルートを変更した。
図書室への最短経路を逸脱し、人通りの少ない東棟の廊下を通過する。合理的な根拠はない。強いて言語化するなら、新規経路の安全確認、といったところか。
別に、他意があるわけではない。俺はそう自分に言い聞かせ、意識の底へ処理した。
東棟の角を曲がろうとした時、聞き慣れた声が鼓膜を打った。
また、後輩だ。今度は文化祭の準備委員が、展示についての相談を持ちかけているようだった。柚木は丁寧に、そして澱みなく答えていた。
代替案を提示し、相手のスケジュールを優先して調整を進める。彼は笑顔を崩さず、一切の不満を漏らさなかった。
五分後、役目を終えた後輩が立ち去る。
静まり返った廊下に、柚木だけが取り残された。
俺は曲がり角の手前で、彫像のように足を止めていた。
存在を悟られてはいない。即座に立ち去るべきだった。ここに来た理由も、立ち止まっている動機も説明できないまま、俺は息を殺してそこにいた。
柚木が、冷たい壁に背中を預ける。
次の瞬間、彼の表情が、音もなく崩落した。
鞄のベルトを握っていた右手が、中空で停止する。力が抜けるのでも、握り直すのでもない。ただ、指の形だけが虚しくそこに残されていた。
一度、長く、重い溜息が吐き出される。
肺に次の酸素が供給されるまでに、数秒の空白があった。首が緩慢に傾き、肩が数ミリだけ沈み込む。
それは、誰に向けるための顔でもなかった。
表情が、音もなく崩れた。
あまりに無防備な顔だった。
あのとき見た「床への視線」とは、本質的に異なる。あれは一瞬の隙間に過ぎなかった。
しかし今は、その空白はすぐには戻らなかった。
――花が、激しく揺れていた。
その青は、さらに一段と深く、昏い色へと沈んでいた。
夕陽の色を受けず、青のままそこに在った。重なり合う花弁は物理的な質量を持ち始め、彼の細い鎖骨を圧迫しているようにも見えた。
柚木の絶え絶えな呼吸に同期し、青い影が廊下の空気にじわじわと滲み出していく。
柚木が、力なく天井を見上げた。
独り言のような、掠れた声がこぼれる。
「今夜、ペルセウス座流星群の、極大なんだよな」
それだけだった。
彼は今夜、独りで空を見るつもりなのだ。
それが彼にとっての救いなのか、あるいは地獄の延長なのか。俺には判断がつかない。
その短い一言の中に、今日一日の摩耗が圧縮されていた。
柚木が正面を向き、俺の存在を検知した。
一秒の沈黙。
彼は即座に「いつもの仮面」を貼り付けた。だが、その動作には明らかなラグがあった。
「閃亜くん、いたんですか」
「……通りかかっただけだ」
「そうですか」
柚木は鞄を肩にかけ直し、歩き出す。すれ違う瞬間、視線が一度だけ交差した。彼は笑っていた。しかしその口角の奥に、先ほどまでの「表情の残骸」がへばりついていた。
隠しきれていない。
それを、世界で俺だけが観測していた。
※
その夜。俺は自室の窓から、暗い外の世界を見上げた。
ペルセウス座は北東の空に昇る。
星の配置は普遍的だ。計算通りに巡り、同じ場所に現れる。
流星という現象は、視界の端で唐突に現れる。
注視しようとすれば、逆に見逃す。
だから、ただ空を眺めているしかない。
俺は窓を閉め、机に向かった。
参考書を開く。
二十分後、俺はもう一度だけ窓の外を見ていた。
北東の空に雲はなかった。
今この瞬間も、どこかで星の欠片が燃えているはずだ。
だが、俺の瞳には何も映らない。
柚木は今夜、あの空を見ているのだろうか。
その考えに気づいた瞬間、俺は参考書へ視線を戻した。
印刷された活字は、しばらく意味を結ばなかった。
放課後の廊下に差し込む光は夏よりも低い角度で滑り込み、影を長く引き延ばす。
その斜光の中で、柚木はいつも通りだった。
声は快活で、笑みのレスポンスは速い。頼まれごとを断る姿も見ない。
だからこそ分かる。
彼は致命的に変わってしまった。
俺はこの二週間、彼の完璧な表面を凝視し続けてきたのだから。
※
最初の異変は、昼休みの教室で観測された。
柚木が後輩に声をかけられていた。天文部の備品発注に関する、些細な必要事項らしかった。
柚木はいつものように深く頷き、いつものように「任せて」と請け負う。
後輩が満足そうに去っていくのを見送った後、彼は自分の席へと戻った。
机に置かれた教科書を開く。
だが、彼は一ページも、めくらなかった。
教科書の端を、彼の親指が微かに圧迫している。めくろうとする意志の形は保たれているのに、肝心の指に力が宿っていない。ページの角がわずかに折れ曲がったまま、元に戻らなくなっている。
視線は表紙の一点に落ちたままだった。文字を追っている目ではなかった。
周囲では、日常という名のノイズが平然と流れている。
パンの袋を裂く音。椅子を引く振動。窓際で弾ける笑い声。
柚木は、それらの刺激のどれにも反応を示さなかった。
いつもの彼なら、笑い声が聞こえれば反射的に顔を上げただろう。だが今の柚木は、教室の喧騒から完全に遮断された真空地帯に、ただ独りで座り続けていた。
次の授業を告げる予鈴が鳴り、彼は瞬時に「いつもの顔」を再構築した。
その出力が完了するまでに、およそ十分の時間を要した。
※
三日後の放課後。俺はあえて帰宅ルートを変更した。
図書室への最短経路を逸脱し、人通りの少ない東棟の廊下を通過する。合理的な根拠はない。強いて言語化するなら、新規経路の安全確認、といったところか。
別に、他意があるわけではない。俺はそう自分に言い聞かせ、意識の底へ処理した。
東棟の角を曲がろうとした時、聞き慣れた声が鼓膜を打った。
また、後輩だ。今度は文化祭の準備委員が、展示についての相談を持ちかけているようだった。柚木は丁寧に、そして澱みなく答えていた。
代替案を提示し、相手のスケジュールを優先して調整を進める。彼は笑顔を崩さず、一切の不満を漏らさなかった。
五分後、役目を終えた後輩が立ち去る。
静まり返った廊下に、柚木だけが取り残された。
俺は曲がり角の手前で、彫像のように足を止めていた。
存在を悟られてはいない。即座に立ち去るべきだった。ここに来た理由も、立ち止まっている動機も説明できないまま、俺は息を殺してそこにいた。
柚木が、冷たい壁に背中を預ける。
次の瞬間、彼の表情が、音もなく崩落した。
鞄のベルトを握っていた右手が、中空で停止する。力が抜けるのでも、握り直すのでもない。ただ、指の形だけが虚しくそこに残されていた。
一度、長く、重い溜息が吐き出される。
肺に次の酸素が供給されるまでに、数秒の空白があった。首が緩慢に傾き、肩が数ミリだけ沈み込む。
それは、誰に向けるための顔でもなかった。
表情が、音もなく崩れた。
あまりに無防備な顔だった。
あのとき見た「床への視線」とは、本質的に異なる。あれは一瞬の隙間に過ぎなかった。
しかし今は、その空白はすぐには戻らなかった。
――花が、激しく揺れていた。
その青は、さらに一段と深く、昏い色へと沈んでいた。
夕陽の色を受けず、青のままそこに在った。重なり合う花弁は物理的な質量を持ち始め、彼の細い鎖骨を圧迫しているようにも見えた。
柚木の絶え絶えな呼吸に同期し、青い影が廊下の空気にじわじわと滲み出していく。
柚木が、力なく天井を見上げた。
独り言のような、掠れた声がこぼれる。
「今夜、ペルセウス座流星群の、極大なんだよな」
それだけだった。
彼は今夜、独りで空を見るつもりなのだ。
それが彼にとっての救いなのか、あるいは地獄の延長なのか。俺には判断がつかない。
その短い一言の中に、今日一日の摩耗が圧縮されていた。
柚木が正面を向き、俺の存在を検知した。
一秒の沈黙。
彼は即座に「いつもの仮面」を貼り付けた。だが、その動作には明らかなラグがあった。
「閃亜くん、いたんですか」
「……通りかかっただけだ」
「そうですか」
柚木は鞄を肩にかけ直し、歩き出す。すれ違う瞬間、視線が一度だけ交差した。彼は笑っていた。しかしその口角の奥に、先ほどまでの「表情の残骸」がへばりついていた。
隠しきれていない。
それを、世界で俺だけが観測していた。
※
その夜。俺は自室の窓から、暗い外の世界を見上げた。
ペルセウス座は北東の空に昇る。
星の配置は普遍的だ。計算通りに巡り、同じ場所に現れる。
流星という現象は、視界の端で唐突に現れる。
注視しようとすれば、逆に見逃す。
だから、ただ空を眺めているしかない。
俺は窓を閉め、机に向かった。
参考書を開く。
二十分後、俺はもう一度だけ窓の外を見ていた。
北東の空に雲はなかった。
今この瞬間も、どこかで星の欠片が燃えているはずだ。
だが、俺の瞳には何も映らない。
柚木は今夜、あの空を見ているのだろうか。
その考えに気づいた瞬間、俺は参考書へ視線を戻した。
印刷された活字は、しばらく意味を結ばなかった。


