鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた

 三時限目の現代文の授業で、柚木の異変は観測された。

 教師が指名した名前は、柚木。教室にわずかな、しかし明確な「一拍」が落ちた。それから彼は立ち上がり、いつも通り正確な回答を口にした。声のトーンも、内容も、欠点はない。
 ただ、発声までの遅延(レイテンシ)が、平常時よりコンマ数秒長かった。それだけだ。

 そんな差異を脳が勝手に記録していたことに、俺は授業が終わってから気づいた。


 ※


 翌日の昼休み。

 廊下の前方に、柚木のグループを視認した。
 いつものメンバーで、いつもの場所。彼はいつものように笑っている。俺は群衆のノイズに紛れ、気配を消してその横を通り過ぎた。

 刹那、柚木の横顔が網膜をかすめる。

 笑っていた。確かに、彼は笑っていたはずだ。
 だが、口角が上がる直前に、表情が完全に消失する瞬間があった。感情が死滅したような、完全な空白。誰も気づかないほどの一瞬だ。
 しかし、俺だけはそれを拾い上げてしまった。拾いたくなどなかったのに。

 その空白に、何が潜んでいるのか。

 答えを持たぬまま、俺は逃げるように図書室へと歩を進めた。


 ※


 二日目も、柚木は完璧に「いつも通りの柚木」を演じていた。

 放課後、廊下で後輩に頼見事をされている彼を見かけた。彼は快く頷き、屈託のない笑みを返す。
 断ることを知らない、模範的な「優しい先輩」だ。

 ただ、後輩が去った直後。
 柚木の視線が、ふらりと床へ落ちた。ほんの一瞬だ。周囲へ配っていた笑顔の残滓が消え、次の仮面を貼り付けるまでの、わずかな隙間。

 誰も気づかない。誰も見ようとしない。

 俺だけが、それを見てしまった。関係のないことだ。関係のないことのはずなのに、足の震えが止まらない。


 ※


 三日目の放課後。

 帰り支度を終え、無人の廊下の角を曲がったところで、柚木と鉢合わせた。
 一人だった。
 天文部の鍵を握り締め、部室とは逆の方向へ、頼りなく歩いている。俺は反射的に歩行速度を緩めた。

 柚木は廊下の窓の前で立ち止まった。
 外の景色を見ているのではない。ただ、夕焼けに焼かれる校庭を、焦点の合わない瞳で眺めていた。
 鍵を持ったまま、どこへ行くべきかも忘れたかのように。

 そこには、俺の知る「柚木」の姿はなかった。

 廊下では常に誰かに囲まれ、笑顔の在庫を切らしたことのない少年。
 今の柚木は、観客を失った舞台に取り残された役者のようだった。表情の行き場を失い、ただ光の中に溶けようとしている。

 ――花が、見えた。

 淡い青が、橙色の夕闇の中で不自然なほど鮮明な輪郭を主張していた。先週より花弁の層は厚みを増し、重なり合う青はより深い影を落としている。

 そして、それは初めて「揺れた」。

 風など吹いていない。窓は固く閉ざされている。物理的に花が動く条件は存在しないはずだ。
 俺は瞬きをする。錯視か、光の屈折による誤差か。
 だが、柚木が深く、重い息を吐き出した瞬間。
 花弁はそれと完璧に同期し、大きく、苦しげに波打った。

 偶然ではない。

 これまで静止した概念でしかなかった花が、今、柚木の生命活動と回路を繋げている。
 俺は自分の心拍を確認した。標準値を遥かに凌駕している。廊下の室温は正常だ。だというのに、呼吸が浅くなるのを止められない。

 柚木がもう一度、息を吐く。
 花弁が、青い悲鳴を上げるように揺れた。

 彼は鍵を握り直し、ゆっくりと踵を返した。そのまま、俺に気づくことなく部室の方向へと消えていく。
 その背中を見送りながら、俺は冷たい廊下の真ん中で、長い間立ち尽くしていた。


 ※


 帰り道、俺は柚木の異変を強引に論理の枠に押し込めようと試みた。

 反応速度の低下。笑顔の前の空白。異常な行動。どれもが花咲病による認知機能の変容として処理できるはずだ。資料にも、進行に伴う「情動の鈍化」という記述はあった。

 だが、俺の観測した事実は、その定義とは明らかに矛盾していた。
 
 柚木のそれは鈍化ではない。
 むしろ逆だ。
 彼は、壊れないように「普通」を演算し続けている。
 周囲の期待に応え、異常を隠し、完璧な笑顔を再生産し続ける。
 その過酷な演算負荷が限界に達し、笑顔の繋ぎ目が剥離して、あの「空白」が露出しているのだ。

 そして、その「剥離」を観測できる人間は、この世界で俺しかいない。
 
 花咲病という異常を共有し、彼の仮面の裏側を知っている唯一の観測者。それが俺だ。
 その俺が「回避」という名で彼を拒絶し、対話の回路を遮断した。

 それは彼にとって「唯一の理解者を失う」という情緒的な問題以上に、「異常な状態のまま、正常なフリを完遂し続けなければならない」という絶望的なフィードバックループを強いる行為だったのではないか。

 俺が距離を置くことで、彼はより一層、「普通」という名の檻に閉じ込められた。
 
 その推論を否定する材料を、今の俺は持っていなかった。

 自分の「合理的判断」が、柚木のシステムを内側から崩壊させるトリガーになっていた可能性。その事実をどの棚に分類すべきか、脳は答えを出せなかった。


 ※


 夜、無機質なスマートフォンの画面が、暗闇の中で明滅した。
 柚木からのメッセージ。

『今日、木星が見えそうです。よかったら』

 それだけだった。誘いとも独り言とも取れる、いつもの軽い口調。
 俺は画面を凝視した。
 返信はしない。指が動かなかった。

 やがてバックライトが消え、暗転した画面に自分の顔が映り込む。

 自分がどんな顔をしているのか。

 確認する気には、なれなかった。