鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた

 月曜の朝から、否定の言葉が喉の奥で死に絶えていた。

 視覚野の誤作動。
 光量と疲労の相関。
 心理的暗示による投影。

 積み上げてきた論理の在庫は、今週に入って急速に底をついた。
 言葉を探そうとするたびに、脳内の棚が空虚に響く。棚が空なのではない。言葉というシステムそのものが、あの「白」の前で機能を停止させているのだ。
 俺はただ、機能不全という事実だけを、事務的に処理し続けた。


 ※


 二時間目の化学。柚木が実験手続を確認するため、不意に振り返った。
 その一瞬、俺たちの視線が鋭く交差する。柚木はすぐに前を向いた。それだけだ。それだけのはずだった。

 ――目の錯覚だ。

 俺は即座に結論を叩き出す。ガラス器具の乱反射、窓から差し込む光量の揺らぎ、焦点距離の微細な誤差。
 実験台の上には、知覚を狂わせる要因がいくらでも転がっている。

 それでも、その「揺れ方」だけは、どの説明に適合しなかった。
 光が反射なら、角度に依存して消えるはずだ。

 しかしそれは、消えなかった。

 柚木が前を向いている間も、彼の鎖骨の直上で、必要なまでに静かに留まり続けている。

 俺はシャープペンシルを壊さんばかりに握りしめた。
 指先に伝わる物理的な痛みが、辛うじて俺を現実の緑に繋ぎ止める。
 数式を書け。手が動いていれば、視線の行き先を管理できる。

 授業が終わるまで、俺は二度と柚木の方を見なかった。
 見なかったという強烈な自覚こそが、敗北の証明であることには気づかない振りをした。


 ※


 昼休み、廊下で柚木に呼び止められた。

「閃亜くん、最近顔色悪いですよ」

 真正面から射抜くような言葉。心配でも揶揄でもない、剥き出しの観察結果。

「問題ない」
「そうですか」

 柚木は少しだけ間を置き、静かに続けた。

「天文部、今日は月が綺麗に見えると思うんですよね。よかったら、来ませんか」
「いい。断る」

 即答だった。

 柚木は小さく頷き、軽やかに踵を返した。
 廊下を遠ざかっていく背中。俺はその姿を見送りながら、無意識にあの輪郭を「検分」していた。

 ――色があった。

 純白の中に、ごくわずかな「青」が混じっている。
 それは晴天の青ではなく、夜明け前の凍てつく空気に似た、薄く冷酷な青だった。花弁を模した輪郭の内側に、水が静かに染み込むように広がっていく。

 俺は一度、強く目を閉じた。そして開けた。

 青は、消えていなかった。むしろ網膜に馴染むように、その密度を増していた。


 ※


 放課後、俺は図書室の隅で参考書を開いた。
 人が少なく、沈黙が支配する場所。柚木が足を踏み入れない領域を、俺は本能的に選んでいた。
 窓の外では、落日が校庭を毒々しい橙色に染め上げている。

 柚木は今頃、部室で望遠鏡を調整しているだろう。誰かと他愛ないことで笑って、頼まれごとを断らずに引き受けているはずだ。
 俺という観測者がいなくても、彼の時間は残酷なほど正常に流れていく。

 それは、正しいことだ。

 俺の脳内にある「観測記録」が、冷徹にアラートを鳴らしている。
 柚木が俺に向ける視線の頻度。歩幅を合わせようとする微細な速度調整。そして、何よりあの「天文部への勧誘」だ。
 彼は、他の誰かをこれほど執拗に誘ってはいない。
 一度断られれば、通常、人間は自己防衛のために距離を置く。それが社会的な生存本能だ。しかし柚木は、俺の「拒絶」をまるでノイズのように透過させ、何度でも同じ熱量で俺の境界線に触れてくる。

 ――彼が俺に抱いている「関心」の正体。

 その定義を、俺はあえて行わない。友情、憧憬、あるいはもっと名付けがたい執着。名前をつけてしまえば、それは実体を持って俺を絡め取るだろう。
 確かなのは、その過剰な関心が、彼の内側で「花」を育てる栄養源になっているという仮説だ。

 資料によれば、対象者が「無関心」を維持し続ければ、花は栄養を失って枯れるという。
 それがこの病の、唯一の終息条件だ。
 
 ならば、俺が取るべき行動は一つしかない。
 柚木にとっての俺を、「特別な存在」から「取るに足らない背景」へと格下げさせることだ。
 彼が俺を諦め、俺への関心を完全に断ち切るまで、俺は絶対的な拒絶の壁であり続けなければならない。

 それが、彼を健康な日常へと送り返すための、最も合理的で、最も残酷な治療法だ。
 
 俺一人の内側で、この毒を処理すればいい。
 ……そう結論づけたはずだった。

 俺が彼を想わなければ、花は枯れる。枯れれば、すべては終わる。感情を御しきれない不完全な少年が、誰かの歪な欲求に巻き込まれずに済む。
 論理的だ。完璧な解決策だ。
 俺は参考書のページを乱暴に繰った。印字された活字は、意味を結ぶ前に視界の彼方へと流れ去っていった。


 ※


 帰り際、下駄箱で最悪のタイミングを引いた。
 俺が靴を履き替えてい横で、部活を終えた柚木が戻ってきたのだ。望遠鏡を触っていた彼の手から、レンズクリーナー特有の揮発性洗剤の匂いが微かに漂う。

「あ、閃亜くん」

 柚木の声に、俺を責める響きは一切なかった。ただの、淡々とした事実の確認。
 俺もまた、機械的に頷くだけに留めた。

 数秒の、真空のような沈黙。

 柚木が靴を履き替えながら、ふと窓の外を眺めた。その横顔を、俺は盗むように見ていた。視線を外さなければならないと理解しながら、筋肉が拒絶する。

 夕陽が柚木の横顔を橙色に縁取っていた。
 その光檻の中で、鎖骨の直上に「それ」があった。
 もはや白ではない。淡い青が、重なり合う花弁の一枚一枚にまで浸透していた。

 輪郭ではない。明確な「形」だ。
 薄い層を成した花弁が、それぞれの質量を持って、そこに実在していた。

 呼吸が、肺の奥で凍りつく。
 柚木が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

「また明日」

 それだけを残して、彼は黄昏の中へと消えていった。自動ドアが開閉し、外の熱気が一瞬だけ入り込む。
 俺は下駄箱の前で、石像のように固まっていた。
 否定の言葉を、必死に探した。
 だが、棚は空だった。

 ――あれは、花だ。

 その認識が、取り消しようのない速度で心根に定着していく。反論は届かず、論理は瓦解した。

 ただ、ひとつの事実だけが純粋に残った。
 柚木の鎖骨に、淡い青の花が咲いている。
 それを、世界で俺だけが観測している。

 自動ドアの向こうに、彼の背中はもう見えない。
 ただ燃えるような夕陽だけが、校庭に虚しく取り残されていた。