母が帰宅したのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
俺は自室で問題集を開き、数式を追っていた。机の上は、機能的な必要性のみが許された物たちが整然と並んでいる。
シャープペンシル、消しゴム、タイマー。余計な物は置かない。
かつて母が定めたその配置を、いつからか俺自身も聖域のように守り続けていた。
本棚の参考書は、背表紙の高さがミリ単位で揃えられている。
並び順は、模試の得点順。数学、物理、英語。最も成績の良い科目が左端に鎮座する。この残酷なほど機能的な序列が、いつから存在していたのかは覚えていない。ただ、気づいた時には世界はこの形をしていた。
色彩を欠いたこの部屋で、唯一色鮮やかなのは参考書の背表紙だけだった。それらもまた、俺の価値を証明するための計器として、外科手術のような正確さで管理されている。
母が直接、俺の勉強を覗き込むことはない。
だが、この部屋の構造そのものが、音のない過干渉だった。
机の端に貼られた月間スケジュール表、成績順に並んだ背表紙。
夕食は一人で済ませ、皿を洗い、再び数式と向き合う。
それがこの家の「標準」だ。母の不在に関わらず、俺という時計の針は正しく刻まれ続ける。
真空パックされたような静寂の中で、ペンが紙を削る音だけが、俺の生存を細く繋いでいた。
玄関の鍵が回る音がして、廊下に靴音が続いた。リビングの電灯が点き、冷蔵庫が開く。それだけで母の帰宅という事象は完結する。
俺の部屋のドアはノックされることはない。
十分後、廊下にわずかな気配がした。
「閃亜」
ドア越しに、母の声だけが届く。
「先月の模試の結果、見たわ。悪くなかった」
俺は問題集から視線を離さずに答えた。
「ありがとうございます」
「次も同じように」
靴音が遠ざかっていく。会話は、それで終わりだった。
※
母が寝室に入ったことを確認してから、俺はシャープペンシルを置いた。
悪くなかった。
それは肯定ではない。
ただ、現状において「修正の必要がない」という無機質な通知に過ぎなかった。
俺には、その通知を安堵として受け取る修正が染み付いている。母の語彙の中に「よかった」という感嘆は存在しない。
あるのは基準値を下回らなかったという確認だけだ。
俺はその評価構造を、物心ついた頃から内面に忠実に複製してきた。
感情を排し、正解だけをなぞる。選ばなければ失わない。失わなければ痛みも生じない。
それは母から授かった生存戦略だったのか、あるいは俺自身が防衛のために組み上げた理論なのか。
今となっては、その境界線すら判然としない。
どちらでも構わないはずだった。――今週までは。
机の引き出しを、静かに引く。
中には一冊のノートが眠っている。三行で時が止まった、異常の記録。
一行目には、日付。
二行目には、位置。
三行目には、大きさの推定値。
四行目を書くことが、恐ろしかった。
花は、客観的な記録が可能な「対象」なのだろうか。
それとも記録しようと試みるたびに、別の何かに変質してしまう性質のものなのか。
科学的な観察であれば、データを集積すべきだ。
測定回数を増やし、条件を整理し、再現性を確認する。それが合理的な手順だと頭では理解している。
だが、その手順を実行するには、柚木の鎖骨を繰り返し執拗に凝視し続けなければならない。
彼の肌をなぞり、あの白の深淵を覗き込み、そこに「実体」があると認めてしまうこと。その一線を超えることが、どうしても俺の論理回路でエラーを引き起こしていた。
ノートを開くことはなかった。開けば、あの白の層を嫌でも思い出してしまう。
それを避けたのか、あるいはさらなる変容を恐れたのか。自分でも判断がつかなかった。
母は今日も、左手の湿布に触れなかった。病院のことも、連絡票のことも。案件は処理した。それで完結している。母にとってはそういう出来事だったのだろう。異常がなくてよかった、という一言で閉じた話だ。
では俺にとっては、何だったのか。
閉じていない。それだけは確かだった。
※
消灯して、布団に横たわる。
暗い天井を見つめながら、母の言葉を並べてみた。
『完璧であれば選ぶ必要がない』
『悪くなかった』
『異常がなくてよかった』
『次も同じように』
どれもが正しく、一点の曇りもない。俺はこれらの言葉を血肉として、十八年間の歳月を積み上げてきた。
その冷酷な列の隣に、柚木の言葉を置いてみる。
『閃亜くんって、ほんと揺れないですよね』
母の言葉は、常に「評価」として上から降り注ぐ。
数値、順位、基準。すべては結果を測るための物差しだ。
対して柚木の言葉は違った。
あれは評価ですらなかった。ただの、剥き出しの「観察」だ。
褒め言葉でもなければ、批判でもない。
ただ「そう見える」と報告されただけの、体温のある言葉。
だがその報告は、恐ろしいほどに正確だった。
母は俺の「出した結果」を見る。
柚木は俺の「今の状態」を見ている。
母の言葉は俺を固定し、柚木の言葉は俺を射抜く。
どちらも俺に向けられたはずの言葉なのに、肌に触れる温度が絶望的に違う。その差を定義する作業を、今夜の俺は放棄した。
ただ、並んでしまった事実だけが残った。
※
翌朝、目覚めた時には母はもう出かけていた。
無機質なテーブルの上に、一枚の紙が置かれている。
『今週の帰宅予定』
水曜と金曜は遅い、それ以外は未定。そして最後の行に、小さな字で一文だけが添えられていた。
『体調管理も、完璧の一部です』
俺はその紙を丁寧に折り畳み、引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
あの三行で止まったノートの、すぐ隣に。
学校に行けばまた、あの「不完全な白」が俺を待っている。その予感だけが、静かに、確実に、俺の完璧な朝を汚していた。
俺は自室で問題集を開き、数式を追っていた。机の上は、機能的な必要性のみが許された物たちが整然と並んでいる。
シャープペンシル、消しゴム、タイマー。余計な物は置かない。
かつて母が定めたその配置を、いつからか俺自身も聖域のように守り続けていた。
本棚の参考書は、背表紙の高さがミリ単位で揃えられている。
並び順は、模試の得点順。数学、物理、英語。最も成績の良い科目が左端に鎮座する。この残酷なほど機能的な序列が、いつから存在していたのかは覚えていない。ただ、気づいた時には世界はこの形をしていた。
色彩を欠いたこの部屋で、唯一色鮮やかなのは参考書の背表紙だけだった。それらもまた、俺の価値を証明するための計器として、外科手術のような正確さで管理されている。
母が直接、俺の勉強を覗き込むことはない。
だが、この部屋の構造そのものが、音のない過干渉だった。
机の端に貼られた月間スケジュール表、成績順に並んだ背表紙。
夕食は一人で済ませ、皿を洗い、再び数式と向き合う。
それがこの家の「標準」だ。母の不在に関わらず、俺という時計の針は正しく刻まれ続ける。
真空パックされたような静寂の中で、ペンが紙を削る音だけが、俺の生存を細く繋いでいた。
玄関の鍵が回る音がして、廊下に靴音が続いた。リビングの電灯が点き、冷蔵庫が開く。それだけで母の帰宅という事象は完結する。
俺の部屋のドアはノックされることはない。
十分後、廊下にわずかな気配がした。
「閃亜」
ドア越しに、母の声だけが届く。
「先月の模試の結果、見たわ。悪くなかった」
俺は問題集から視線を離さずに答えた。
「ありがとうございます」
「次も同じように」
靴音が遠ざかっていく。会話は、それで終わりだった。
※
母が寝室に入ったことを確認してから、俺はシャープペンシルを置いた。
悪くなかった。
それは肯定ではない。
ただ、現状において「修正の必要がない」という無機質な通知に過ぎなかった。
俺には、その通知を安堵として受け取る修正が染み付いている。母の語彙の中に「よかった」という感嘆は存在しない。
あるのは基準値を下回らなかったという確認だけだ。
俺はその評価構造を、物心ついた頃から内面に忠実に複製してきた。
感情を排し、正解だけをなぞる。選ばなければ失わない。失わなければ痛みも生じない。
それは母から授かった生存戦略だったのか、あるいは俺自身が防衛のために組み上げた理論なのか。
今となっては、その境界線すら判然としない。
どちらでも構わないはずだった。――今週までは。
机の引き出しを、静かに引く。
中には一冊のノートが眠っている。三行で時が止まった、異常の記録。
一行目には、日付。
二行目には、位置。
三行目には、大きさの推定値。
四行目を書くことが、恐ろしかった。
花は、客観的な記録が可能な「対象」なのだろうか。
それとも記録しようと試みるたびに、別の何かに変質してしまう性質のものなのか。
科学的な観察であれば、データを集積すべきだ。
測定回数を増やし、条件を整理し、再現性を確認する。それが合理的な手順だと頭では理解している。
だが、その手順を実行するには、柚木の鎖骨を繰り返し執拗に凝視し続けなければならない。
彼の肌をなぞり、あの白の深淵を覗き込み、そこに「実体」があると認めてしまうこと。その一線を超えることが、どうしても俺の論理回路でエラーを引き起こしていた。
ノートを開くことはなかった。開けば、あの白の層を嫌でも思い出してしまう。
それを避けたのか、あるいはさらなる変容を恐れたのか。自分でも判断がつかなかった。
母は今日も、左手の湿布に触れなかった。病院のことも、連絡票のことも。案件は処理した。それで完結している。母にとってはそういう出来事だったのだろう。異常がなくてよかった、という一言で閉じた話だ。
では俺にとっては、何だったのか。
閉じていない。それだけは確かだった。
※
消灯して、布団に横たわる。
暗い天井を見つめながら、母の言葉を並べてみた。
『完璧であれば選ぶ必要がない』
『悪くなかった』
『異常がなくてよかった』
『次も同じように』
どれもが正しく、一点の曇りもない。俺はこれらの言葉を血肉として、十八年間の歳月を積み上げてきた。
その冷酷な列の隣に、柚木の言葉を置いてみる。
『閃亜くんって、ほんと揺れないですよね』
母の言葉は、常に「評価」として上から降り注ぐ。
数値、順位、基準。すべては結果を測るための物差しだ。
対して柚木の言葉は違った。
あれは評価ですらなかった。ただの、剥き出しの「観察」だ。
褒め言葉でもなければ、批判でもない。
ただ「そう見える」と報告されただけの、体温のある言葉。
だがその報告は、恐ろしいほどに正確だった。
母は俺の「出した結果」を見る。
柚木は俺の「今の状態」を見ている。
母の言葉は俺を固定し、柚木の言葉は俺を射抜く。
どちらも俺に向けられたはずの言葉なのに、肌に触れる温度が絶望的に違う。その差を定義する作業を、今夜の俺は放棄した。
ただ、並んでしまった事実だけが残った。
※
翌朝、目覚めた時には母はもう出かけていた。
無機質なテーブルの上に、一枚の紙が置かれている。
『今週の帰宅予定』
水曜と金曜は遅い、それ以外は未定。そして最後の行に、小さな字で一文だけが添えられていた。
『体調管理も、完璧の一部です』
俺はその紙を丁寧に折り畳み、引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
あの三行で止まったノートの、すぐ隣に。
学校に行けばまた、あの「不完全な白」が俺を待っている。その予感だけが、静かに、確実に、俺の完璧な朝を汚していた。


