木曜の朝、母から一行だけメッセージが届いた。
『土曜、十時。駅前の総合病院。花咲病外来』
それだけだった。
経緯の説明も、確認も、同意を求める文言すら一切ない。連絡票を鞄に入れたのは火曜の放課後で、母がそれを受け取ったのが水曜。
予約を入れたのが当日の夜だとすれば、処理速度としては標準的だ。
感情的な反応ではなく、案件処理としての迅速さ。それが母という人間の輪郭を、過不足なく説明していた。
俺は既読をつけて、スマートフォンを伏せた。
※
土曜の十時。
病院の入口に、母は先に来ていた。
俺の姿を認めると、母は一度だけ頷いた。俺も頷き返す。それだけだった。
花咲病外来の待合室は、一般外来と区画が分かれていた。
壁は白く、窓は大きく、観葉植物が一切置かれていない。最後の一点だけが、この場所の性質を静かに主張していた。
受付で名前を告げ、問診票を渡される。
自覚症状の欄には「視覚異常」という選択肢が、既製品のように存在していた。
俺はその欄に丸をつけながら、この症状がすでに分類され、名前を持ち、制度の中に組み込まれているという事実を処理する。
名前がある。それでも俺はまだ、その名前を自分自身に適応する気にはなれなかった。
母は隣の椅子に座り、スマートフォンを見ている。俺たちの間に会話はない。
待合室には、他に五人の先客がいた。
背筋を伸ばし、床の一点を見つめて動かない中年の男性。その隣で、片耳だけイヤホンをつけ、駐車場の空虚な景色を眺める制服姿の女子生徒。
奥のソファには、母親にずっと手を握られている小柄な少年。
ここにいる全員が、何かを見ている。誰かにだけ、何かが。
その事実が、待合室の空気を一定の密度で満たしていた。静かで、重く、しかし誰も声を上げない。それぞれが「異常」を内側だけで処理しようと足掻いている。
母は画面を見続けていた。俺の隣で、ずっと。
※
検査は三段階の手順で行われた。
まず問診。医師は四十代の女性で、白衣の襟が清潔に折れていた。
開始時期、頻度、対象の特定性。事務的な速度で質問が続く。俺は正確に答えた。感情を排した語りが、ここでは最もプロトコルだった。
「対象は特定の人物に限定されていますか」
「はい」
「その人物との関係性は」
「クラスメイトです」
医師はペンを走らせた。追加の質問はなかった。
次に眼科的検査。視力、眼底、網膜の状態。どれも「異常なし」と告げられ、次の検査室へ案内される。
最後にCT検査だった。
狭い筒の中に仰向けになり、指示通りに息を止める。機械音が一定のリズムで鳴り響き、冷たい空気が首筋を撫でた。
天井の白が、遠かった。
均質な白だと思った。
病院の天井を埋める白は、どこを見ても同じ密度で存在し、光を反射し、奥行きを持たない。
あの白とは違う。
柚木の鎖骨の直上に見える白は――決して均質ではない。
呼吸と無関係に揺れず、角度を変えても消えず、その奥に薄い層を持ち始めている。
質が違う。
性質が違う。
比較できるほどに、俺はあの白を克明に記憶していた。
比較している自分に、不意に気づいた。
止めようとした。CT検査中に柚木のことを思い出す必要などない。思考の優先順位として、明らかに不適切だ。
だが、止まらなかった。
機械音が続く。天井の白が続く。あの白の奥行きの記憶が、止めようとする意志を追い越し、鮮明に展開していく。
「息を吸っていいですよ」
スピーカーから届く声が、思考の連鎖を断ち切った。
※
結果は三十分後に出た。
医師はCT画像をモニターに映し、脳の各部位を順に指し示した。
腫瘍なし、炎症なし、血流の異常なし。網膜への器質的影響も確認されない。
「現時点での診断は、花咲病の初期兆候に該当する可能性がありますが、確定には至りません。経過観察を推奨します」
さらに、医師は付け加えた。
「花咲病の確定診断には、現在のところ客観的な指標が存在しません。見えているという事実は、検査では証明も否定もできないのです」
俺は頷いた。
異常なし。
医学的に、俺の脳は正常だと定義された。
安堵は、生じなかった。その欠落に、もう驚きはなかった。驚かなくなっている自分を自覚するまでに、一拍の時間を要した。
※
帰り道、母と並んで駅に向かう。五月の風が吹いていたが、体温のせいか酷く冷たく感じられた。
病院を出て二分後、母がようやく口を開いた。
「異常がなくてよかった」
「そうですね」
前を向いたまま、短く答えた。
母はスマートフォンを取り出し、画面を見ながら歩き始める。アスファルトには、俺たちの靴音だけが規則正しく響いていた。
異常がなくてよかった。
その言葉を、歩きながら幾度も反芻した。母にとって、それは唯一の正解だ。異常はない方がいい。当然だ。
だが「よかった」という感情のベクトルが、俺の内側で何かと致命的に噛み合わなかった。医学は俺を正常と呼び、それでも花は消えない。
正常な脳が、消えないはずのものを見ている。この矛盾を埋める言葉を、俺はまだ持っていなかった。
駅の改札を抜ける際、母が言った。
「完璧でいなさい。それだけでいい」
いつもの言葉だった。俺もまた、いつも通りに頷いた。
ただ今日だけは、その言葉が俺の内側の、少し違う場所に落ちた。
完璧でいれば、選ばなくていい。失わなくていい。痛みも生じない。その論理は正しいはずだ。
なのに今の俺には、その言葉が自身を守る防具ではなく、どこか遠い場所から届いた冷徹な指令のように聞こえていた。
改札の向こうで、母は別のホームへと向かった。同じ方向には帰らない。それがいつもの風景であることを、俺は誰にも言わない。
ホームで電車を待ちながら、左手の薬指に貼られた湿布の感触を確かめた。
固定されている。逸脱は許されない。
それでも、見える。


