鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた

 体育の授業が終わったのは、昼休みを十分後に控えた時刻だった。

 気づいた時には、左手の薬指が鋭い熱を帯びていた。バスケットボールが指先に衝突した衝撃は、記憶の隅に辛うじて残っていた。

 だが、その直前に何を見ていたのか。それを今の自分は論理的に説明できない。コートの向こう、フェンス際に立っていた人影。飴色に透けていた栗色の髪。
 その映像だけが網膜の裏に焼き付いたまま、消えない。

 因果関係は、ない。あるはずがない。俺はそう断じ、思考を打ち切った。


 ※


 保健室は、昼休みの喧騒から切り離された廊下の外れにある。

 人通りが少ないこと。足を向けた理由は、ただけれだけで十分だった。
 引き戸を開けると、アルコールと日向の混じった匂いがした。
 養護教諭は手元の書類から目を離さず、入室した俺を一瞥した。その視線には、過剰な同情も好奇心もない。ただ、機械的な観察があるだけだ。
 彼女は椅子を引き、処置台を指し示した。

「突き指、ね」

 確認でも質問でもない言い方だ。俺は左手を差し出した。
 養護教諭の指先が薬指を軽く動かし、可動域を確認する。湿布を広げる微かな音だけが、静謐な室内に響いた。

 ふと、視線が棚へ向かう。

 白い箱が、定規で測ったように整然と並んでいる。
 『花咲病簡易検査キット』、という印字された文字を俺は読み取る。先週、視野の端を掠めた時には足を止めなかった。なのに、今日はこうして正面に立っている。

 箱の数を、無意識に数えていた。全部で十二個。去年より増えている――。
 そう思った直後、自分の中に矛盾が生じる。俺は去年の在庫数など知らない。比較対象が存在しない以上、「増えている」という判断は統計的に不可能だ。
 根拠のない直感。それを俺は「知覚のエラー」として、脳内の棚に記録した。

 棚の高さは、目線よりわずかに高い。
 背伸びをしなければ届かないという事実は、その箱を本来の用途から切り離し、抽象的な概念へと変質させていた。
 選択肢ではなく、ただの可能性。道具ではなく、ただそこに存在しているだけの「白」。

 花咲病。

 名称を、声に出さずに口内で転がした。
 医学的定義は未だ流動的で、症例報告だけが不気味に積み上がっている。無自覚な欲求、過剰な抑圧、滞留した感情。皮膚に花弁状の変質が現れ、やがて内臓を侵食する。
 世間に流布する情報は、あまりに物語的で非科学的だ。

 SNSに溢れる写真や体験談は、この病を「美しい」とさえ形容する。
 評価軸に美醜が混入している時点で、それはもはや医学の領域ではない。

 俺には関係がない。

 そう判断する材料は揃っている。
 感情の管理、睡眠時間の確保、学業成績の維持。どれをとっても正常値から逸脱していない。論理的に見て、発症の余地など存在しないはずだった。

 それでも視線は、箱の角の白に引き留められている。
 その白は、柚木の鎖骨に見えるそれと同じ色調だった。

 印刷されたインクの白と、網膜に残った残像。両者が一致する物理的根拠などない。だが、脳が関連付けを行う速度だけが、不気味なほどに速すぎた。

「痛む?」

 養護教諭の声が、思考の糸を断ち切る、

「いいえ」
「そう」

 それだけだった。
 簡潔なやり取りの後、テーピングが完成した。 
 養護教諭は道具を片付け始める。俺は固定された左手を見つめる。指を動かせないという不自由さが、今は妙に心地よかった。
 固定。限定。逸脱の禁止。
 枠の中に留まっていることは、何よりも安心をもたらす。

「最近、よく眠れてる?」

 唐突な問いだった。突き指との因果関係がない。
 俺は一秒間の猶予を置いてから、模範的な回答を返した。

「問題ありません」

 「そう」と、もう一度言った。それから彼女は再び書き物に戻った。それ以上の言葉は、ついぞ発せられなかった。

 俺は保健室を出て、廊下を歩きながら問いの糸を解析する。
 睡眠不足が運動時の反応速度を低下させ、突き指を招く。統計学的には合理的な問診だ。
 そう結論づけても、耳の奥には問いの温度が残っている。あの声は、事務的な問診のそれとはわずかに位相がずれていた気がした。
 あるいは、そう感じること自体が、睡眠不足による知覚の歪みなのか。

 左手の湿布が、じわりと冷たさを主張する。
 
 体育の授業で、コートの向こうに立っていた人影を俺はまだ覚えていた。覚えていることを、今この瞬間まで処理していなかった。処理し忘れていたのか、処理を回避していたのか、その区別が自分でもつかなかった。
 区別がつかないという事実が、今日一番の異常だった。

 左手を軽く振ってみる。固定されている指は反応しない。動かないという状態は、思考を単純化させる。動かせないものは、動かさなくていい。判断を保留にできる。

 では、視線はどうか。

 体育のコートで、俺は確かに逸れた。意識の焦点がずれた瞬間に、指に衝撃が走った。原因と結果の順序は明確だ。だが原因を構成する要素のうち、ひとつだけが未処理のまま残っている。

 栗色。
 春光。
 透過。

 それらを単語に分解しても、あの映像は一向に消えない。
 網膜ではなく、もっと奥、身体の芯がその景色を記憶しているような感覚。

 花は、まだ咲いていない。

 だが、俺は今日、何度「咲いていない」と確認しただろうか。
 確認回数の増加は、それ自体が異常の指標になり得る。
 異常を否定するための行為が、異常を証明する皮肉。

 理論上は、あり得る話だ。
 あくまで、理論上の。



 チャイムが鳴った。思考を切り上げる理由としては十分だった。

 六時間目が終わって帰り支度をしていると、担任に呼ばれた。
 予測外だった。廊下の端で手渡されたのは、一枚の用紙。
 保護者への連絡票、と印字されている。

「養護教諭から報告があった。規定上、視覚異常の申告は保護者通知が必要でね」

 担任はそれだけ言って、特に表情を作らなかった。追加の言葉も、心配の素振りも、何もない。俺は用紙を受け取って、鞄に入れた。

 規定なら従うしかない。それだけのことだ。