鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた


 朝のホームルームが始まる前、俺は窓際の自席で数学の問題集を開いていた。

 解法は既に頭の中に構築されている。手を動かすのは単なる出力作業に過ぎず、ペン先が紙を滑る乾いた音だけが、俺の周囲の境界線を形作っている。
 それで十分だった。余計なノイズは、俺の人生には必要ない。

 柚木が教室に入ってきたのは、予鈴の二分前だった。
 誰かに親しげに声をかけ、笑い、鞄を椅子の背にかける。その一連の動作は全て予想の範囲内に収まり、平穏を乱すものではない。
 俺はそれを周囲視界だけ処理し、再び問題集の城へと視線を戻した。

 その時、白い何かが視界の端に滲んだ。

 ペンを止め、一秒だけ呼吸を止める。
 朝の斜光が窓ガラスに反射して、網膜に一時的な残像を焼き付けているだけだ。原因は明確であり、疑う余地もない。昨日も、そして一昨日もそうだった。

 見なければいい。ただ、それだけのことだ。


 ※


 三時間目の現代文。教師が黒板に「自己と他者の境界」と書き記した。
 チョークの白が視界に飛び込み、俺はその無機質な軌跡を目で追った。活字が一瞬、意味を失って崩壊する。

 ――違う。

 柚木の鎖骨の直上に、あの「白」があった。

 板書よりも鮮明に、ノートの紙面よりも確かに、それはそこに存在していた。認識の優先順位が一瞬にして狂い、教師の声は水底へと遠ざかる。
 教室の輪郭がぼやけ、俺の視界の中心にあるべきでないものが、主権を握るように居座った。

 三秒だけ、世界がその白に支配された。

 ノートに視線を落とし、無理やりペンを走らせる。綴られた文字に乱れはない。
 乱れていないことを確認する必要がったという事実を、俺はすぐに記憶の深淵へと放り込んだ。



 昼休み、購買のパンを持って廊下に出た俺を柚木が呼び止めた。

「閃亜くん、一緒に食べません? 今日購買でシュークリーム売ってて、一個多く買っちゃったんですよね」

 差し出された袋を、受け取らなかった。ただ袋の縁が指先をかすめ、粉砂糖のわずかな粒子感が一拍遅れて神経を逆撫でする。

「廃棄しろ」
「えー、賞味期限今日なのに」

 「冷たーい」と言いながら、柚木は屈託なく笑った。甘い匂いが廊下の空気に澱む。理由はない。だが、その匂いはいつまでも俺の鼻腔に残り続けた。

 俺は購買のパンを鞄に戻した。空腹感はいつの間にか霧散していた。
 その理由は、自分でも定義できなかった。


 ※


 帰り道、俺は無意識のうちに、すれ違う生徒たちの鎖骨を視線で走査していた。

 制服の襟元、喉仏が作る影、シャツの合わせ目。どこを探しても、あの白い輪郭は見当たらない。
 当然だ。
 そんなものが至る所に見えるなら、それは集団幻覚か、あるいはもっと別の凄惨な問題になる。

 柚木の鎖骨にだけ見える。

 その不都合な事実を、俺は初めて正面から認識の棚に並べ、すぐさま最奥へと押し込んだ。特定の対象にのみ錯視が生じる症例は、過去の文献にも報告されているはずだ。
 肉体的な疲労と、強固な心理的暗示。それらが重なった時、最も身近な対象に幻覚が投影されやすくなる。

 身近。

 その単語が、思考の中で一瞬引っかかった。俺は柚木に親しみなど抱いていない。抱いているはずがないのだ。
 その違和感を処理し切る前に、俺は歩幅を速めた。



 保健室の前を通ったのは、単なる偶然だった。

 扉の磨りガラス越しに、白い箱が棚に整列しているのが透けて見えた。
 花咲病の検査キット。
 学校に常備されているのは知っていたが、これほど数が多いとは想像していなかった。
 あれを、自分自身が手に取る可能性がないと言い切れる根拠は――。

 思考を、断ち切って廊下を歩く。

 思考を物理的に断ち切るように、廊下を闊歩する。

 花咲病の罹患条件は、無自覚な「選ばれたい」という欲求だとされている。俺には、そのような卑俗な望みはない。
 感情の過剰負荷が誘因ならば、俺の感情は常に完璧な管理下に置かれている。
 発症の余地は、構造的に存在しないのだ。

 根拠は、十分だった。
 十分なはずだった。


 ※


 帰宅して鞄を下ろした後、俺は吸い寄せられるように洗面所の鏡の前に立った。

 特に、明確な理由があったわけではない。
 制服のままシャツの第一ボタンを外し、自分の鎖骨の直上を確認した。皮膚は平滑で、隆起も、変色も、不自然な翳りもない。何もない。当然の結果だ。

 安堵は、生じなかった。

 その欠落に、遅れて気づいた。
 俺はしばらくの間、鏡の中の自分を見つめ続けていた。正常であるという事実に、心が何の反応も示さない。
 安堵すべき場面でそれが発生しないということは、最初から異常を疑っていなかったか、あるいは――。

 蛇口を乱暴に捻り、冷水で顔を洗った。余計な思考をすべて、水とともに排水溝へ押し流すように。



 夕食の後、俺はノートを開いた。
 日付を記す。五月、火曜日、午後。視認した位置――柚木の鎖骨直上、推定三センチ径。光源条件――西日、室内蛍光灯、および曇天時。初認から三日が経過。

 そこでペンが止まった。
 客観化して記録すれば、異常は単なる「事象」へと成り下がる。そう信じて書き始めたはずだった。だが正確に記述しようと試みるたび、俺はあの花の輪郭を精緻に思い出す必要に駆られた。
 形、大きさ、そして白の純度。それらを反芻するたびに、像はより鮮明に焼き付いていく。客観化のための作業が、皮肉にも対象の存在を強化していた。

 記録は、わずか三行で途絶えた。俺はノートを閉じ、机の引き出しの奥に隠した。

 スマートフォンを手に取る。

 写真に収まるかどうかを確認すれば、より客観的なデータが得られるだろう。それが合理的な次の一手だ。

 だが、撮影するためには、柚木を意図的にレンズ越しに見つめる必要がある。
 その時点で、俺が彼を特別に観察していることを認めることになるのだ。証拠を得るための行為そのものが、俺の敗北の証拠となる。
 俺は画面を伏せた。これ以上の検証は無益だと断じる。合理的だ。そうでなければ困る。

 目を閉じ、意識を集中させる。

意図的にあの輪郭を想起する。位置。大きさ。白の質感。
 これは、単なる確認のための再生作業だ。

 想起は、驚くほど鮮明だった。

 想像を遥かに超える密度で、視認した際の記憶との差異が見つからない。花弁の縁の鋭さ、呼吸とは無関係な絶対的な静止。白の内側で生まれかけている、繊細な層の重なり。
 脳内で再生された映像は、もはや現実の観測記録と区別がつかなくなっていた。

 想像と視認の境界線が、定義できない。

 目を開ける。天井の白さが目に刺さる。

 引き出しから再びノートを取り出し、新しいページを捲った。日付を書き込む。

 ――明日から三日間、視認回数を計測する。
 一日の回数が十回を超えた時点で、医療機関への相談を検討する。

 閾値を設定すれば、すべての判断は数値へと委ねられる。そこに感情の介入する余地はない。

 合理的だ。

 だが、数え始める前から、今日の視認回数を正確に記憶している自分がいた。

 布団に潜り込み、暗闇の中で天井を見つめていた。

 思考は整理されていくはずだった。
 しかし俺の意志とは無関係に、柚木の鎖骨の輪郭が網膜の裏側にこびりついて離れない。白の質感と花弁の形が、暗闇の中で明滅している。
 無意識のうちに、俺の指先が自分自身の鎖骨に触れていた。

 何もない。

 皮膚は平滑で、冷たく、不快なほどに何もない。当然だ。俺には、微塵も関係のない話なのだから。
 何もないことを確認したはずなのに、俺の手はそこを離れなかった。
 天井に視線を固定したまま、俺は再び目を閉じた。


 ※


 翌朝、俺はまた柚木を見た。

 白い輪郭は、昨日と同じ場所に居座っていた。ただ一点だけ、昨日とは決定的に違う。輪郭の内側に、わずかな「奥行き」が生じていたのだ。

 昨日までは、ただの平面的な白だった。

 だが今日は、その白が幾重もの層を形成し、実体を持って迫ってくるように見えた。

 まだ、花ではない。
 だが、四日目を迎えても消えない幻覚を、果たして幻覚と呼び続けていいのか。

 ――消えなければ、困る。

 その震えるような考えを、俺はもう、否定できなかった。