鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた


夕食の卓を囲む時間は、いつも通りの静寂に支配されていた。

 母は向かいの席で、片時もスマートフォンを離さない。視線を画面に固定したまま、抑揚のない声で事実を告げた。

「病院に行っているそうね」

 俺は箸を止めた。

「……誰から、その情報を」
「学校から連絡があったわ。入院しているクラスメイトを、あなたが度々単独で訪問していると」
 
 否定する余地は皆無だった。俺は肺の空気を入れ替え、冷静な回答を生成する。

「クラスメイトとして、適切な行動だと判断しました」
「そう」

 母が初めて、画面から目を上げた。射抜くような視線が俺を貫く。

「その**()()**という判断は、一体誰が下したのかしら」

 俺は答えなかった。

「あなたの成績は前回よりさらに落ちているわ。原因を究明するまでもない。判断を誤っているのよ、閃亜」
 名前を呼ばれた瞬間、背筋が反射的に硬直した。十六年間かけて叩き込まれた、服従の条件反射だ。

「病院には行かなくていい。その時間をすべて学習に割り振りなさい」
 
 母はそれ以上、言葉を重ねなかった。
 注意でも叱責でもなく、ただ確定した仕様として判断を伝達する。それがこの家の、唯一の対話形式だった。

 母の言葉に、誤りは存在しない。
 少なくとも俺の観測範囲において、彼女の判断が失敗を招いたケースは一度もなかった。
 成績、進路、生活習慣。すべてを母に委ね、その設計図通りに動くことが、生存戦略として最も効率的だったのだ。
 従うことは難しくない。
 母の論理は透明で、再現性がある。
 俺の判断より、常に精度が高かった。
 
 食卓の向こう側で、母が静かに味噌汁を啜る。
 スマートフォンの通知が冷たく発光し、彼女は再び情報の海へと戻っていった。
 俺もまた、機械的に箸を動かす。

 口に含んだものの味は、一切認識できなかった。

 自室に戻り、いつものように机に向かう。

 ――行かなくていい。

 脳内で、その命令系統を反芻した。本来、母の言葉はそのまま俺の判断へと変換される。彼女が「正」と定義すれば、それは「正」なのだ。
 十六年間、その回路は一度のショートも起こさずに機能し続けてきた。
 
 だが今夜、その回路が決定的なエラーを起こした。
 
 母の宣告が、俺の内側にある「何か」に引っかかって離れない。
 滑らかだった論理の歯車に、異物が混入したような感覚だ。その違和感に名前をつけようと試みる。

 候補を並べ、除外する。

 しかし今夜に限っては、どの候補も振り落とすことができなかった。
 思考の底に、たった一つだけ残った言葉。
 
『行きたい』
 
 その三文字が、今夜初めて暴力的なまでの輪郭を伴って現れた。皮肉なことに、母に禁じられたことで、その欲求は影を濃くしたのだ。禁止という外的圧力が、形のない想いに器を与えてしまった。
 
 俺は処理を行わなかった。
 処理「できなかった」のではない。「しなかった」のだ。その微細かつ致命的な差異を、今の俺は正確に識別している。

 椅子から立ち上がり、部屋の光景をパノラマ状に俯瞰(ふかん)する。
 変化はない。整理整頓された参考書。直角に整えられたノート。ペン立ての中の文房具さえ、あるべき座標から一ミリも逸脱していない。
 この部屋は常に「正しい」状態を維持している。母が設計した動線の上を、俺が忠実にトレースしてきた結果だ。
 
 整っていることこそが正解だと、信じて疑わなかった。
 
 ノートを開けば日常へ回帰できる。英単語を記憶領域へ書き込み、数式を解き、明日の小テストというタスクを完遂する。それが最適解であることは、今も十分に理解している。
 だというのに、その「正しさ」は、今夜の俺からはあまりにも遠い場所へ漂着していた。
 
 机の上のペンへ手を伸ばしかけ、その動きを凍結させる。
 これまでの俺なら、この衝動を即座に分解していただろう。原因を分析し、要素を分類し、合理性の中で消去する。
 それがいつもの処理だった。
 
 だが今夜、俺はその作業を選ばなかった。
 机の前から離れなかった。
 
 椅子に深く腰掛け、ノートの白い余白をじっと見つめる。
 今ここでペンを握ればノイズは消える。集中という名の麻酔を打てば、余計な思索は停止する。これまで何度も、そうやって自分をメンテナンスしてきたはずだ。
 それでも、違和感は消滅を拒んでいる。
 
 静かに。
 だが確実に。
 
 俺は椅子の背もたれに体を預け、天井の白い模様を網膜に映した。
 
 行きたい、という欲求の隣に、もう一つの言葉があった。
 昨日の夜に候補から除外できなかった、あの言葉。

 興味ではない。
 共感でもない。
 義務でもない。

 俺はその言葉を、今夜初めて正面から見た。逃げなかった。
 

柚木が「閃亜くんに」と言った夜のことを思い出す。

 点滴の音が静かに響く病室。
 夕空が橙から紺へと変わっていく窓。
 椅子から、立ち上がれなかった時間。

 あの時間の中に、答えはあった。
 俺はずっとそれを知っていたのだ。知っていて、知らないふりという高度な隠蔽工作を続けてきた。
 今夜、知らないふりをやめた。

 窓の外を見た。

 空は晴れていて、星がいくつか見えた。カシオペヤ座の「W」を探し、見つける。その下に位置するペルセウス座の座標を特定する。
 流星群の季節はもう終わっているから、今夜は何も流れない。
 それでも、俺は空を見ていた。
 
 柚木も今夜、同じ空を見ているかもしれない。
 その可能性を、俺はもう不確かな仮説とは呼ばなかった。
 
 母の判断は、今も正しいのかもしれない。成績は下降線を辿り、俺のリソース配分は極めて非効率的だ。
 それでも。
 
 耳の奥に残る「行かなくていい」という母の命令を、俺の内側にある言葉が塗りつぶす。
 
『行く』

 俺は机の上のスマートフォンを掴んだ。

 理由を三つ並べる必要はない。合理的な根拠を作る手間もいらない。ただ、行くという意志だけが、今の俺を突き動かす唯一のエネルギーだった。
 
 その言葉だけで、今夜の俺には十分だった。