初めて自発的に、一人でそこへ足を運んだのは水曜日だった。
クラスのお見舞いから三日が経過している。
俺は自分自身を納得させるための合理的な理由を、あらかじめ三つ用意しておいた。
一つ、花の進行を定点観測する必要がある。
二つ、柚木の経過を症例として記録できる。
三つ、病院は通学路から大きく外れていない。
結論から言えば、そのどれもが真実ではなかった。
だが、そのどれもが完全な虚偽とも言い切れないのが、今の俺のバグを象徴している。
※
柚木は起きていた。
ベッドに半身を起こし、スマートフォンの画面を無表情に追っている。俺が室内へ足を踏み入れると、彼は弾かれたように顔を上げた。
一瞬、驚愕の色が瞳を掠めたが、それはすぐにいつもの柔らかな笑みへと置換される。
「また来てくれたんですか」
「……たまたま、通りかかっただけだ」
「病院、閃亜くんの通り道じゃないですよね」
俺は回答を拒否し、慣れた動作で椅子を引いて座る。
柚木はスマートフォンを伏せ、窓の外へと視線を逃した。結局、初回の単独訪問はほとんど会話を交わすこともないまま、三十分で終了した。
帰り道、俺は自分が一体何を目的としてあの場所にいたのかを自問する。
脳内の計算機は、答えを算出できなかった。
※
金曜日、二度目の訪問。
今度は、最新の授業内容を写したノートを持参した。
これには揺るぎない正論がある。
柚木の学習機会の損失を補填すること。クラスメイトとして、極めて自然な互助行為だ。
手渡されたノートに、柚木は「ありがとうございます」と短く謝辞を述べた。
そして再び沈黙が訪れる。
俺は窓外を見つめ、柚木もまた同様に空を眺めていた。点滴の滴下が、一定のリズムで世界を刻み続けている。
俺はこの状況を言語化しようと試みた。
この静謐な沈黙の中に、何かが確実に介在している。その不定形な「何か」に、適切なラベルを貼り付けようと三十分格闘したが、ついに語彙の選定には至らなかった。
帰り際、柚木が問いかけてくる。
「また、来ますか」
一秒間の演算を経て、俺は「分からない」とだけ告げた。
それが、現時点における唯一の正確な回答であったからだ。
病室を出た直後、廊下で足が止まった。
目的は既に完遂している。ノートの受け渡しも、最低限の接触も終えた。この場に停滞し続ける合理的な動機など存在しない。
それでも、俺の脚部は即座に歩行を開始することを拒んだ。
ドアのガラス越しに、室内の光景を盗み見る。柚木はベッドの背板に身を預け、虚空を、あるいは窓の外を凝視していた。スマートフォンにもテレビにも触れず、ただ、静止している。
その横顔を見て、俺は一つの事実に到達した。
柚木は他者が存在する場合と、そうでない場合で明らかに表情の出力が違う。
俺と接している時の笑顔は、緻密に計算され構築された「意図的なアウトプット」だ。
対して今の彼の表情は、あまりにも静かで無防備。
空は厚い雲に覆われ、星の輝きすらも遮断されている。だというのに、彼の視線は微動だにしなかった。
俺はその光景を数秒間だけ網膜に記録し、ようやく重い足取りで廊下を歩き出す。
不意に一つの疑問が意識を支配した。
柚木は常に集団の中に身を置き、人の輪の中心に座標を定める人間だ。そんな彼が、なぜこれほどまで寂寞とした眼差しで一人、空を見つめているのか。
その深層にある動機を、俺はまだ知らない。
※
月曜の夜、俺は机の前で静止していた。
参考書は閉じたままで、スマートフォンの通知も無視し続けている。ただ無機質な机の木目を見つめながら、輪郭のない何かを思考の俎上に載せようとしていた。
俺が柚木の元へ通う理由。
合理的な説明が一切成立しない不規則な行動を、俺が反復する理由。
柚木が「閃亜くんに」と告げたあの瞬間、俺の中のシステムが一時停止した理由。
それらを一つの単語で定義しようとすれば、いくつかの候補が浮かび上がってくる。
『興味』。……違う。これは観察の動機としてはあまりに脆弱だ。二ヶ月もの間、俺は彼を観測し続けている。もはやその領域には収まらない。
『共感』。……それも不適当だ。俺は彼の置かれた立場を完璧にトレースできているわけではない。彼自身の内側に潜む真実を、俺は把握していないのだから。
『義務』。……論外である。誰一人として、俺にそれを課してはいない。
候補を一つずつ論理的に除外していった結果、最後にたった一つ、残された言葉があった。
その文字列を認識した瞬間、俺は呼吸の仕方を忘れたように動けなくなった。
処理しようとした。だができなかった。
その言葉は、俺の既存のシステムで扱うにはあまりに巨大で、質量を持ちすぎていた。
数値化不能。論理展開不能。観測しても解が出ない。
俺はその言葉を、棚の奥へと隠蔽することはしなかった。
ただ、名前のないまま、そこに置いておくことに決めた。
※
火曜日の午後。通算四度目の訪問。
俺が一人で現れる事象に対し、柚木はもはや驚きの反応を示さなくなった。椅子を引きずる音を合図に、彼がスマートフォンを伏せる。それが、二人だけの暗黙の習慣として定着していた。
今日もまた沈黙の波が押し寄せようとした、その時だ。
俺は自分でも予期せぬままに、音声出力を開始していた。
「……柚木は、なぜ天文部を選択したんだ」
柚木が俺を見る。予想外の問いだったのか、彼は一瞬だけまばたきを繰り返した。
「急ですね」
「答えたくなければ、拒否して構わない」
「いや」
柚木は窓の外を見つめ、思考を整理するように間を置いてから言葉を紡いだ。
「小学生の頃、一人で夜空を眺めてたら、流れ星が見えたんです。その時、すごく……一人で見てるのがもったいないって、そう思っちゃって」
俺は沈黙を保ち、その告白を受け止める。
「誰かと一緒に見たかった。でも、隣には誰もいなかった。だから、当たり前に誰かと一緒に見られる場所を、作りたかったんです」
柚木は言い終えると、少し照れくさそうに俺を見た。
「こんな理由で入部したなんて、初めて人に話したかも」
俺は窓の外を視線でなぞった。空は相変わらず不透明な雲に閉ざされ、星の気配はない。
一人で見ているのが、もったいない。
その平易な言葉が、俺の内部の最も深い場所へと、静かに着弾した。
帰り道、俺は反芻する。
柚木が孤独に夜空を見上げていた時間のことを。流星が網膜を横切った瞬間の衝撃を。誰かと共有したかったという、切実な願いを。
ペルセウス座流星群の夜。俺は窓枠に肘を預け、空を見上げていた。
柚木も同じ空を観測しているかもしれないという仮説を、大切に抱えていたあの夜。
あの時、俺たちは同じ空を見ていた可能性がある。
あくまで可能性だ。確証を得るためのデータはない。
だが今夜、その可能性は以前よりもずっと確信に近い場所へと移行していた。
俺はその不可解な感覚を、あえて処理しなかった。
処理しないという選択を、俺は初めて自分の意志で行った。
それは多分、論理ではなく感情に近い行為だった。
クラスのお見舞いから三日が経過している。
俺は自分自身を納得させるための合理的な理由を、あらかじめ三つ用意しておいた。
一つ、花の進行を定点観測する必要がある。
二つ、柚木の経過を症例として記録できる。
三つ、病院は通学路から大きく外れていない。
結論から言えば、そのどれもが真実ではなかった。
だが、そのどれもが完全な虚偽とも言い切れないのが、今の俺のバグを象徴している。
※
柚木は起きていた。
ベッドに半身を起こし、スマートフォンの画面を無表情に追っている。俺が室内へ足を踏み入れると、彼は弾かれたように顔を上げた。
一瞬、驚愕の色が瞳を掠めたが、それはすぐにいつもの柔らかな笑みへと置換される。
「また来てくれたんですか」
「……たまたま、通りかかっただけだ」
「病院、閃亜くんの通り道じゃないですよね」
俺は回答を拒否し、慣れた動作で椅子を引いて座る。
柚木はスマートフォンを伏せ、窓の外へと視線を逃した。結局、初回の単独訪問はほとんど会話を交わすこともないまま、三十分で終了した。
帰り道、俺は自分が一体何を目的としてあの場所にいたのかを自問する。
脳内の計算機は、答えを算出できなかった。
※
金曜日、二度目の訪問。
今度は、最新の授業内容を写したノートを持参した。
これには揺るぎない正論がある。
柚木の学習機会の損失を補填すること。クラスメイトとして、極めて自然な互助行為だ。
手渡されたノートに、柚木は「ありがとうございます」と短く謝辞を述べた。
そして再び沈黙が訪れる。
俺は窓外を見つめ、柚木もまた同様に空を眺めていた。点滴の滴下が、一定のリズムで世界を刻み続けている。
俺はこの状況を言語化しようと試みた。
この静謐な沈黙の中に、何かが確実に介在している。その不定形な「何か」に、適切なラベルを貼り付けようと三十分格闘したが、ついに語彙の選定には至らなかった。
帰り際、柚木が問いかけてくる。
「また、来ますか」
一秒間の演算を経て、俺は「分からない」とだけ告げた。
それが、現時点における唯一の正確な回答であったからだ。
病室を出た直後、廊下で足が止まった。
目的は既に完遂している。ノートの受け渡しも、最低限の接触も終えた。この場に停滞し続ける合理的な動機など存在しない。
それでも、俺の脚部は即座に歩行を開始することを拒んだ。
ドアのガラス越しに、室内の光景を盗み見る。柚木はベッドの背板に身を預け、虚空を、あるいは窓の外を凝視していた。スマートフォンにもテレビにも触れず、ただ、静止している。
その横顔を見て、俺は一つの事実に到達した。
柚木は他者が存在する場合と、そうでない場合で明らかに表情の出力が違う。
俺と接している時の笑顔は、緻密に計算され構築された「意図的なアウトプット」だ。
対して今の彼の表情は、あまりにも静かで無防備。
空は厚い雲に覆われ、星の輝きすらも遮断されている。だというのに、彼の視線は微動だにしなかった。
俺はその光景を数秒間だけ網膜に記録し、ようやく重い足取りで廊下を歩き出す。
不意に一つの疑問が意識を支配した。
柚木は常に集団の中に身を置き、人の輪の中心に座標を定める人間だ。そんな彼が、なぜこれほどまで寂寞とした眼差しで一人、空を見つめているのか。
その深層にある動機を、俺はまだ知らない。
※
月曜の夜、俺は机の前で静止していた。
参考書は閉じたままで、スマートフォンの通知も無視し続けている。ただ無機質な机の木目を見つめながら、輪郭のない何かを思考の俎上に載せようとしていた。
俺が柚木の元へ通う理由。
合理的な説明が一切成立しない不規則な行動を、俺が反復する理由。
柚木が「閃亜くんに」と告げたあの瞬間、俺の中のシステムが一時停止した理由。
それらを一つの単語で定義しようとすれば、いくつかの候補が浮かび上がってくる。
『興味』。……違う。これは観察の動機としてはあまりに脆弱だ。二ヶ月もの間、俺は彼を観測し続けている。もはやその領域には収まらない。
『共感』。……それも不適当だ。俺は彼の置かれた立場を完璧にトレースできているわけではない。彼自身の内側に潜む真実を、俺は把握していないのだから。
『義務』。……論外である。誰一人として、俺にそれを課してはいない。
候補を一つずつ論理的に除外していった結果、最後にたった一つ、残された言葉があった。
その文字列を認識した瞬間、俺は呼吸の仕方を忘れたように動けなくなった。
処理しようとした。だができなかった。
その言葉は、俺の既存のシステムで扱うにはあまりに巨大で、質量を持ちすぎていた。
数値化不能。論理展開不能。観測しても解が出ない。
俺はその言葉を、棚の奥へと隠蔽することはしなかった。
ただ、名前のないまま、そこに置いておくことに決めた。
※
火曜日の午後。通算四度目の訪問。
俺が一人で現れる事象に対し、柚木はもはや驚きの反応を示さなくなった。椅子を引きずる音を合図に、彼がスマートフォンを伏せる。それが、二人だけの暗黙の習慣として定着していた。
今日もまた沈黙の波が押し寄せようとした、その時だ。
俺は自分でも予期せぬままに、音声出力を開始していた。
「……柚木は、なぜ天文部を選択したんだ」
柚木が俺を見る。予想外の問いだったのか、彼は一瞬だけまばたきを繰り返した。
「急ですね」
「答えたくなければ、拒否して構わない」
「いや」
柚木は窓の外を見つめ、思考を整理するように間を置いてから言葉を紡いだ。
「小学生の頃、一人で夜空を眺めてたら、流れ星が見えたんです。その時、すごく……一人で見てるのがもったいないって、そう思っちゃって」
俺は沈黙を保ち、その告白を受け止める。
「誰かと一緒に見たかった。でも、隣には誰もいなかった。だから、当たり前に誰かと一緒に見られる場所を、作りたかったんです」
柚木は言い終えると、少し照れくさそうに俺を見た。
「こんな理由で入部したなんて、初めて人に話したかも」
俺は窓の外を視線でなぞった。空は相変わらず不透明な雲に閉ざされ、星の気配はない。
一人で見ているのが、もったいない。
その平易な言葉が、俺の内部の最も深い場所へと、静かに着弾した。
帰り道、俺は反芻する。
柚木が孤独に夜空を見上げていた時間のことを。流星が網膜を横切った瞬間の衝撃を。誰かと共有したかったという、切実な願いを。
ペルセウス座流星群の夜。俺は窓枠に肘を預け、空を見上げていた。
柚木も同じ空を観測しているかもしれないという仮説を、大切に抱えていたあの夜。
あの時、俺たちは同じ空を見ていた可能性がある。
あくまで可能性だ。確証を得るためのデータはない。
だが今夜、その可能性は以前よりもずっと確信に近い場所へと移行していた。
俺はその不可解な感覚を、あえて処理しなかった。
処理しないという選択を、俺は初めて自分の意志で行った。
それは多分、論理ではなく感情に近い行為だった。


