鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた

 月曜の朝、担任から事務的な連絡があった。

 柚木が入院したという。
 過労による体調不良。しばらく欠席。

 詳細は本人の希望で非公開。
 通達は、それだけだった。

 ……処理した、はずだった。

 

 昼休み、クラスメイト数名がお見舞いの相談をしていた。

 放課後、有志で病院へ行く。希望者は誰でも同行して構わない。そんな会話が耳を掠めた。
 俺は聞き流していた。参加する意志など、微塵もなかったはずだ。
 だというのに。
 
 放課後、俺は病院の最寄り駅のホームに、所在なく立ち尽くしていた。
 どこで参加を決めたのか、記憶が曖昧だ。
 気づけば切符を買い、ここに立っていた。

 ただ、足だけが勝手に動いていた。

 電車は夕刻のラッシュ前で、車内にはまだゆとりがある。
 ドアの傍らに立ち、俺は流れていく窓外の風景を凝視した。
 
 均一な速度で後退する、住宅の屋根。
 色褪せたコンビニの看板。
 駐車場の幾何学的な白線。


 思考の歯車が、本来の回転を拒絶していた。

 まぶたを閉じれば、柚木が崩れ落ちたあの瞬間の映像が、執拗なリピート再生を繰り返す。
 膝が折れる軌跡。舞い上がる土埃。
 そして――あの、毒々しいまでに鮮烈な青。
 あの花は、俺の神経系が作り出した幻覚に過ぎないはずだった。
 
 俺は、後付けの合理的理由を必死に組み立てる。
 花の進行を直接観測する機会であること。医療的知見を得るための有益な情報収集。集団行動への参画による、不必要な社会的摩擦の回避。
 三つの論理を並べてみたが、そのどれもが、今の俺の心臓の鼓動とは合致しなかった。
 思ったことを、処理することを、俺はあえて放棄した。


 ※

 
 病室は個室だった。
 静かすぎるほどに。
 
 柚木は窓際のベッドに横たわっていた。点滴のチューブを繋がれてはいるものの、顔色は想像していたより悪くない。体育の授業で倒れた際と比較すれば、その表情は遥かに穏やかであった。
 クラスメイトが持参した菓子折りを受け取り、彼は「いつも通り」の笑みを浮かべて見せる。笑顔の作り方は、入院しても、その命が削られていても、何一つ変わっていなかった。
 
 俺は部屋の入り口付近に佇み、その光景を傍観し続けた。

 病室の空気は、学校のそれとは決定的に異なっていた。
 漂う消毒液の薄い残香。点滴の機械が刻む、微かな電子音。
 
 友人の一人が、あの日、校庭で起きたパニックを笑い話に変えていく。
 
「先生、マジで焦ってたよな」
「救急車呼ぶかどうかで、職員同士で揉めてたし」
 
 柚木は楽しそうに、相槌を打つ。
 
「そんな大げさなことじゃないですよ、本当に」
 
 本人は軽快に答えていたが、その笑い声は、どこか空虚で長くは持続しなかった。
 そして、誰一人として「花」の話題を口にする者はいなかった。
 
 倒れた瞬間を間近で目撃したはずの人間が、この部屋には何人も存在している。だというのに、その核心だけは巧妙に回避され続けていた。
 俺は、その不自然な欠落を黙って記憶に刻み込む。

 俺は終始、沈黙を守り通した。発言する必要性を感じなかった。ここに足を運んだ。その事実だけで、本日のミッションは完遂されたはずだった。
 帰ろうと、踵を返す。
 
「閃亜も、もうちょっといてやれよ」
 
 クラスメイトの一人がそう言った。ニヤつきながら、他のメンバーを促す。
 「そうそう、お前ら仲良しだろ」
 「俺ら先に帰るわ、また来るな柚木」

  と声を掛け、彼らは嵐のように去っていった。
 
  閉ざされたドアの音が、小さな孤独を部屋に残す。
 病室に、俺と柚木の二人だけが取り残された。
 
 さっきまでの喧騒の余熱が、時間をかけてゆっくりと冷めていく。
 誰かがいる空間と、二人だけの空間。同じ部屋であっても、その空気の粘度は全く異なっていた。あらゆる物音が、鋭利に鼓膜へ刺さる。
 点滴装置の駆動音。廊下を遠ざかるナースシューズの摩擦。風に吹かれてカーテンが窓枠を打つ、微かな擦れ。
 
 柚木は、何も言わなかった。
 俺も、言葉を見つけられなかった。
 
 会話を再起動させるためのきっかけは、いくらでも用意されていたはずだ。体調、入院の理由、学校の話。だが、そのどれもが今の二人の間には相応しくない気がして、選ばれることはなかった。

 ただ、形のない時間だけが静かに堆積していく。

 俺は椅子を引き、ベッドの傍らに腰を下ろした。
 座るべき理由を計算した末の行動か、座ってから理由を探したのか、もはやその区別さえつかなかった。
 
「来てくれたんですね」
 
 柚木が、ようやく唇を割る。責めるニュアンスは含まれていない。
 
「……クラスの流れだ」
「そうですか」
 
 柚木が窓の外へ視線を投げ、俺もそれに倣う。同じ蒼色の夕闇を、俺たちは並んで見つめていた。
 
 至近距離で、それが見えた。
 
 病室の白い光の下で、花の青はかつてない鮮明さを持って浮き彫りになる。
 それはブローチのように置かれているのではない。柚木の浮き出た鎖骨、その鋭い骨のラインを割り、青い茎が皮膚を内側から突き破って芽吹いていた。
 
 花の根元の皮膚は、侵食されたように変色していた。

 そこから溢れた青い花弁が、細い血管に絡みつくように広がっている。
 まるで体温を吸い上げているみたいだった。
 彼が浅い呼吸を繰り返すたびに、鎖骨の動きに連動して、花が肉の内側からせり上がる。その生々しさは、美しさよりも先に、逃れられない「死の寄生」を俺に突きつけてきた。
 
 俺は、現実を直視できずに花から目を逸らした。
 
「体調は」
「まあ、こんなもんです。大げさに入院なんてことになっちゃって」
「大げさではない。千メートル手前での昏倒だ。入院は妥当な判断であり、決して過剰ではない」
 
 沈黙が訪れる。
 
 柚木が、喉の奥で小さく笑った。その響きは、学校で見せていた完璧な笑顔とは明らかに性質が異なるものだった。何かを偽ることを諦めたような、ひどく無防備な笑い。
 
「閃亜くんって、たまに、変なところで正確ですよね」
 
 俺は、答える術を持たなかった。

 しばらくの間、どちらも声を発しなかった。
 点滴の雫が落ちる音が、規則的なリズムを刻み続ける。廊下の喧騒は完全に途絶え、空のグラデーションは刻一刻と、その深い紺を増していった。
 窓の外を見つめたまま、柚木が囁くように呟く。
 
「俺、最近、ずっと――」
 
 言葉が、一度途絶えた。
 続きを紡ぐべきか否か、彼は自分自身の内側で検分しているようだった。語彙を探しているのではなく、吐き出すことの許しを乞うような、震える間。
 
「誰かに、隣にいてほしいと願ってたんですよね」
 
 それは誰かに向けた告白というより、自分自身の欠落を再確認するような静かな独白。
 
「誰か、じゃなくて」
 
 柚木が、ゆっくりと首を巡らせる。俺の瞳を、まっすぐに見据えた。

「閃亜くんに、いてほしかった」

 告げられた言葉に、続きはなかった。
 
 一切の釈明も、補足すらも存在しない。ただ、剥き出しの真実だけがそこに置かれた。
 
 俺は、答えられなかった。
 視線が、無意識に柚木の鎖骨へと吸い寄せられる。
 
 青い花が、そこにあった。
 さっきよりも、色が薄く、透けて見える。花弁の半透明な領域は、彼の命の灯火を奪いながら、確実にその領土を広げている。
 
 それでも、それは消えてはいなかった。
 
 返すべき最適解など、この世界のどの辞書にも編纂されていない。
 点滴の音だけが、非情な速度で時間を刻んでいく。
 夕空は、いつの間にか闇に沈んでいた。
 空から色が消失するまで、俺は椅子から立ち上がることさえ叶わなかった。