鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた


 十一月の乾いた校庭で、体育の授業は実施された。
 種目は千五百メートルの長距離走である。先にAグループが走り、それをBグループが計測する形式だ。ストップウォッチを握る俺はBグループに属し、走者の番号を照合してタイムを記録する。単純かつ無機質な作業に徹していた。
 柚木はAグループの列に並んでいる。

 やがて開始の合図が鳴り、静寂は破られた。

 スタートラインの土が一斉に蹴り上げられ、乾いた粒子が冬の風に乗って流れていく。十一月の空気はあまりに軽く、肺の奥まで吸い込めば胸がひりつくように冷えた。
 走者たちは最初のカーブを緩やかに曲がり、徐々に一つの集団を形成していく。靴底が土を噛む規則的な音が重なり合い、しばらく耳を貸していると、それは一つの巨大な鼓動のように聞こえた。

 俺は手元の計測器を保持したまま、その音の奔流を傍観する。

 担当の走者を見失わぬよう視線を動かしながらも、網膜の端では、常に柚木の背を追尾し続けていた。

 彼の走り方に、特筆すべき特徴はない。フォームが秀逸なわけでも、鈍重なわけでもなかった。ただ、日常という風景の中に溶け込んでいる。
 だというのに、俺の視線は磁石のように彼から離れなかった。

 理由は、自分でも説明がつかなかった。




 最初の三百メートルは、平穏な推移を見せていた。
 柚木のペースは集団の中ほどに位置し、呼吸の乱れも観測されない。俺は担当走者のラップタイムを記録しつつ、周辺視野を用いて彼の座標を絶えず更新し続けた。
 異変が生じたのは、七百メートルを超えたあたりだ。

 柚木の速度が、目に見えて減衰していく。

 当初は疲労による影響だと判断したが、その落ち方は明らかに不自然だった。
 足取りは支柱を失ったように不安定で、腕の振りも急激に縮小していく。
 
 俺はストップウォッチを握りしめ、もはや柚木だけを凝視していた。

 千メートルの標識を通過する直前、柚木が静止した。
 否、彼は崩落したのだ。膝が折れ、そのまま校庭の端へと横たわる。後続の走者が彼を回避し、誰かが鋭い悲鳴を上げた。体育教師の笛が、乾いた音を立てて空気を切り裂く。

 世界から一瞬、音が消失した。

 何が起きたのかを脳が処理するまで、数秒の空白が支配する。コース外にいた生徒たちが騒ぎ始め、遠くで球を蹴っていた別クラスの連中までもがこちらを振り返った。
 柚木はぴくりとも動かない。

 倒れた衝撃で、彼の制服の肩に校庭の砂が付着している。その圧倒的な静止が、周囲の喧騒よりも鮮明に俺の瞳に焼き付いた。

 もはや、ストップウォッチの数字など、どうでもよかった。


 気づいた時には、俺は走っていた。

 合理的な判断ではない。教師が対応し、保健室が受け入れる。既定のプロトコルは既に起動しているのだ。俺が介入すべき余地など、論理的には存在しなかった。
 それでも、足が止まらなかった。
 俺は柚木の傍らに膝をつき、彼の名を呼んだ。

「柚木」

 彼は仰向けになり、目は半開きで虚空を彷徨っている。意識は辛うじて維持されているようだが、焦点はどこにも結ばれていない。

「柚木、大丈夫か」
「……閃亜、くん」
 
 掠れた声が、俺の個体を正しく識別した。それだけで、彼の高次脳機能がまだ全損していないことを悟る。
 俺は彼の上体を支えようと肩に手をかけたが、掌に伝わる体温は想像を絶するほどに低かった。
 
 その瞬間、視界に飛び込んできたものがある。
 
 花が、今まで観測したことのない色彩を呈していた。青は限界まで深淵へと沈み込み、花弁の端は、まるで命が削られたかのように褪せている。
 外側の花弁は半透明に変質し、そこには以前のような澄んだ静謐さなど微塵もなかった。
 
 色が、重い。
 
 花弁の奥底に、濃密な死の影が(よど)んでいる。
 その毒々しいまでの青を直視していると、自分の呼吸までもが浅くなり、鼓動が不規則に遅延していくような錯覚に陥った。

 この花は、単なる植物ではない。
 宿主の命を糧に、異質な存在へと羽化しようとしている。

 微かな風が吹き、ポプラの葉がざわめいた。
 柚木の鎖骨で、青が生き物のように蠢く。花弁が、風という外的刺激に反応しているのだ。
 俺は一瞬、その実体に触れようと指を伸ばしかけた。だが、指先は石のように硬直して動かなかった。

「……あれ、なんか」

 背後から、女子生徒たちの当惑した声が聞こえた。

「鎖骨のとこ、何か青いもの見えなかった?」
「え、花? 見てないよ、気のせいじゃないの」
「でも、今――」
「早く先生を呼ばなきゃ」

 彼女たちはすぐに教師の元へと駆け出した。

 俺は再び、柚木の鎖骨を凝視する。褪せた花弁は確かにそこに存在し、風に揺れている。だというのに、彼女たちはそれを「気のせい」だと切り捨てた。
 
 かつての俺も、そうだった。
 最初にこの花を観測した時、俺はそれを光の屈折や錯覚として処理したのだ。今の彼女たちと、俺を分かつ境界線は一体どこにあるのだろうか。

 俺には、判断が下せなかった。


 ※


 担架で運ばれていく柚木の背を、俺は校庭の端でただ見送っていた。
 遠ざかるにつれて青の色調は溶けていくが、それでも「在る」という確信だけは消えない。
 授業は再開され、他の生徒たちは何事もなかったかのように日常のリズムへと回帰していく。

 誰かがさっきの噂を繰り返した。

「柚木くんの鎖骨、白いもの見えなかった?」「見てないよ、倒れた時に光が当たっただけじゃない」

 声はすぐに校庭の騒音に溶けた。

 俺は右の掌を見つめた。
 柚木の肩に触れた感触が、まだ残っている。

 花は俺にしか見えない。
 その前提が、今、崩れかけていた。

 校庭の風は、先ほどよりも鋭さを増している。
 遠くで再び笛が鳴り、次のグループがスタート位置へと集結する。
 誰かが倒れたことは、もうこの場所では過去になっていた。

 世界は、何事もなかったように動き続けている。
 
 それでも。
 俺の手の中だけに、熱が残っていた。
 
 俺は掌を強く閉じる。
 そこに残った温度が消えるまで、俺は手を開かなかった。