鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた

 十月の第一回模試の結果が返ってきたのは、木曜だった。
 数学が四点、英語が七点落ちた。総合順位が十二位後退した。俺は答案用紙を見て、その事実を記録した。
 感情を処理する必要はなかった。そもそも、湧き上がるべき感情そのものが存在しない。ただ、算出された数字が変動した。それだけの話だ。


 その日の夜。いつもより早い時間に、母が帰宅した。



 リビングのテーブルには、学校から郵送された模試の結果用紙が鎮座している。俺が帰るより先に、母が開封し、検分を終えていた。
 部屋へ足を踏み入れた俺を、母は椅子に座ったまま、一度だけ視線で射抜くように頷いた。

「座りなさい」

 拒絶の選択肢は用意されていない。俺は静かに、対面の席へ腰を下ろした。

 母は用紙を手に取り、そこに並ぶ数字を微かな瞳の動きで追認した。怒気はない。彼女の双眸(そうぼう)にあるのは感情ではなく、冷徹なまでの判断だ。

「原因は何」

 俺は即座に回答を形成した。

「集中力が落ちていました。一時的なものです」
「友人関係にノイズがあるの」
「ありません」
「そう」

 母の短い言葉が、空気の密度を上げる。

「先月の平均帰宅時間は二十六分遅延している。スマートフォンの画面点灯時間、および深夜の電力消費量も増加傾向にある。
 あなたが誰かという『変数』にリソースを割いている事実は、この数字が雄弁に語っているわ」

 俺は何も言えなかった。反論するだけのデータを持っていなかったからだ。

「閃亜」

 名前を呼ばれると、背筋が反射的に伸びる。
 そうなるように、十六年間の教育という名のプログラミングを受けてきた。

「あなたは中学三年の全国模試で三位。高校入学後は五位、四位と推移してきた。それが今回、十七位」
「……はい」
「数字は嘘をつかないわ」

 母は断言した。

「数字が下降するとき、人間の価値も等しく下降する。あなたの存在理由は結果によってのみ担保される。それは、私が教えてきた至上命題のはずよ」
「分かっています」
「いいえ、あなたはまだ理解できていない」

 母の指先が、結果用紙の数字を苛烈に叩いた。

「結果を出せない人間が社会でどう処理されるか。私がそれを見てきた。あなたの価値は完璧であること、ただそれ一点に集約されるのよ」

 その言葉は、あまりにも正しい論理だった。母は俺を脅しているのではない。彼女はただ、この世界の冷酷な世界の仕組みを知っているだけなのだ。

「他人のために浪費する時間は、あなたにとって純粋な損失以外の何物でもない。あなたを必要としている人間など、この世界には存在しない。
 あなたが必要とされるのは、あなたが『完璧な機械』である場合のみよ」

 十六年間、俺の血肉となってきた真実。

 母は再び答案用紙へ視線を落とし、数学の失点箇所を指先でなぞった。

「四点なら即座に修正可能。英語も演習量を増やせば取り返せる範囲内よ」

 彼女は怒ってなどいない。ただ、狂い始めたシステムを元の軌道へ戻そうとしているだけだった。
 
 だというのに。
 今夜だけは、その正論が俺の内部で、全く異なる場所へと着弾した。
 
 ――他人のための時間は、損失である。

 脳内でその言葉を反芻する。
 担任に声をかけたあの数秒。屋上への扉を開けるために費わしたエネルギー。風の中で、柚木の掠れた声を聞いていた時間。
 
 あれは、損失だったのか。
 論理的に処理しようとしても、言葉と実体がどうしても噛み合わなかった。あの数分間を「マイナス」という棚に分類することを、俺の頭はどこか拒んでいた。
 
「返事は」

 母の鋭い声が、迷走する思考を断ち切った。

「……分かりました」

 俺は承諾した。母は満足そうに頷き、再びスマートフォンへと意識を戻す。それで、公式な対談は終了した。
 


自室の机に向かい、参考書を開く。

 数式を追えば、意味は滞りなく頭に入ってきた。集中しようと思えば、それは可能だ。俺の演算能力は依然として正常に機能している。
 だが、母の言葉が呪詛のように耳の奥にこびりついて離れない。
 
『あなたを必要としている人間など、この世界にはいない』
 
 その言葉のすぐ隣に、柚木の声が並んで配置された。
 
『それだけ、知っててほしかった』
 
 二つは同じ平面に存在してはならない情報だった。なのに、それらは混ざり合い、俺を翻弄する。
 母は俺を完璧に理解している。成績、能力、生活習慣。数字で構成された俺の輪郭を、彼女は寸分狂わず把握している。
 
 だが母は、俺に触れたことがない。
 少なくとも、触れられたという温かな記憶が、俺の記憶には存在しない。
 
 対して柚木は、俺のことを何も知らない。俺の母のことも、この数ヶ月の葛藤も。
 それでもあの声は、確かに俺の内部に触れたのだ。廊下で、屋上の風の中で、彼が零した一言は、今この瞬間も俺の心臓の奥に在り続けている。
 
 初めて知った。
 
 そして。
 俺の中にはもう一つの、第三の声があった。
 
 流星群の夜。窓枠に肘を預け、焦点を定めないまま夜空を眺めていた時間。
 柚木も同じ空を見ているかもしれないという仮説を、大切に抱えていたあの静かな夜。
 その記憶が、母の断定と柚木の懇願の間で、静謐な輝きを放っている。
 三つの声は、すべて俺という個体へ向けられていた。どれが正解でどれが最適解なのか、今の俺には判別がつかない。
 
 消灯し、天井を見上げた。

 母の論理に穴はない。俺の価値は結果で決まる。他者のための時間は非合理的だ。それは十六年間、俺を支え、守ってきた唯一の真実だった。
 
 なのに今夜だけは、その絶対的な真実が俺を少しも守ってはくれなかった。
 柚木は今頃、あの青い花と共にどこで、どんな表情をしているのだろうか。
 その問いは、俺にとって何の利益も生まない。
 
 その問いが浮かんだことに気づき、俺はきつく目を閉じる。
 まぶたの裏で、暗闇を横切る流星が、一度だけ瞬いた気がした。