鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた

 四時間目の途中で、柚木が深く俯いた。

 教師の朗読が流れる静かな教室。俺の席からは、柚木のうなじに張り付いた髪と、小刻みに震える肩が見えた。
 指名された柚木が、すぐには立ち上がれない。数秒の空白。彼はようやく机を支えにして立ち上がったが、教科書を持つ指先は白く、今にも折れそうだった。

 ――限界だ。

 脳内の計算機が、即座に「異常」のアラートを鳴らす。
 チャイムが鳴るまであと十五分。普段の俺なら、その十五分を待ってから合理的に動いただろう。
 今の俺の回路はその待機時間を「許容できない損失」と判断した。

 椅子を引く音が、静まり返った教室に鋭く響く。

 教師の言葉が止まり、クラスメイトたちの視線が俺に集中した。だが、俺は誰の顔も見ていなかった。

「先生。柚木の体調が悪そうです。保健室へ連れていきます」

許可を求める形をとってはいたが、俺の手はすでに柚木の腕を掴んでいた。
 教師が困惑したように眼鏡を直す。

「……ああ、閃亜くん、それなら頼む。柚木くん、大丈夫か?」

 柚木は答えなかった。ただ、俺に腕を引かれるまま、力なく足を踏み出した。
 教室の扉を閉める。
 誰もいない廊下に、二人分の不揃いな足音だけが反響した。

「保健室、行くぞ」

 柚木は一拍だけ間を置いて、頷いた。何も聞かなかった。



 廊下を並んで歩く。

 柚木は俺の半歩後ろを、音もなくついてきた。会話はない。保健室は一階にある。
 階段を下りるのが最適解だった。だというのに、俺の足はなぜか真逆の方向、上階へと向かっていた。
 気づけば、俺たちは屋上へと続く重い鉄扉の前に立っていた。

「……ここ、保健室じゃないですよね」

 柚木の声に、俺を責める響きはない。ただ、淡々と事実を突きつけるだけの確認だった。

「分かっている」

 俺は答える代わりに、扉を押し開けた。


 ※


 十月の屋上は、鋭い風が吹き荒れていた。

 フェンスの向こう側には、体育の授業が行われている校庭が広がっている。風に乗って断片的に届く生徒たちの声は、今の俺たちとは別世界の音のように遠い。
 俺はフェンスから数歩離れた場所に立ち、どんよりとした空を見上げた。
 厚い雲が、流星群の夜とは全く異なる表情で世界を覆っている。

 背後で扉が閉まる音がした。
 彼は俺の隣には来ず、数歩の距離を保ったまま同じ空を眺めた。

 しばらくの間、沈黙だけが二人の間を風と共に通り抜けていく。

 やがて、柚木が静かに唇を割った。

「閃亜くん、最近避けてますよね」

 俺は空から視線を外さずに応じる。

「そんなことはない」
「うん、知ってます。それが嘘だっていうことくらい」

 声に棘はない。俺を糾弾する気配すら皆無だった。ただ事実を置くようなその静けさが、かえって俺の次なる反論を封じ込めてしまう。

「別にいいんですよ」
 柚木は言葉を継いだ。

「俺のこと、好きじゃない人に、無理に好きでいてもらう必要なんてないですから」

 俺の思考が、その瞬間に停止した。

 好きじゃない。そのフレーズが、胸の奥に未知の違和感を生じさせる。否定したい、という強い衝動がせり上がってくる。
 なぜ否定したいのか、その論理的根拠を脳が見つけ出せなかった。

「ただ」

 柚木が雲の切れ間に、一瞬だけ覗いた薄い青を見つめる。

「俺、最近ちょっと体調が悪くて。それだけ、知っててほしかった」

 柚木の細い指が、再び扉の取っ手にかかった。その瞬間、俺の中に一つの抗いがたい衝動が奔った。
 
 ――確かめたい。

 それは理屈ではなかった。花咲病の症例も進行周期も関係ない、剥き出しの欲求だ。あの青い花が今どこまで彼の命を侵食しているのか、この目で捉えたかった。

 去ろうとする彼の背を、視線が追いかける。

 見ようとした。
 
 刹那、昨夜の空が脳裏をよぎった。
 直視した瞬間に、流星は消えるのだ。

 俺は視線を止めた。
 柚木は振り返ることなく扉を開け、廊下の白い蛍光灯が屋上の光景を切り裂く。光の輪郭が、一瞬だけ彼の肩を鮮明に縁取った。
 
 そのとき、見えた気がした。

 制服の襟元。布が作る影の奥に潜む、ほんのわずかな色彩。
 
 それが花弁だったのか、単なる光の悪戯だったのか。判断を下す前に、無機質な金属音が響いて扉は閉ざされた。

 屋上には、冷たい風だけが取り残された。

 俺はしばらく、そこから動けずにいた。
 今、網膜が捉えた情報に科学的信憑性があるのかどうか、脳内で必死の検証を試みる。光量、距離、角度、補色関係。条件を整理しようとするが、思考は霧のように霧散していった。


 仮にあれが「花」だったとして、それが示す意味は何だ。
 進行段階の加速か。致死率の上昇か。それとも――。

 浮かびかける数多のデータは、形を成さずに消えた。
 俺はフェンスの下に落ちる格子の影を凝視する。コンクリートの上に描かれた線は、どこまでも均等で、規則的だった。
 
 それを見つめていると、さっきの青が現実であった確信が、急速に失われていくのを感じた。
 人間の視覚は、簡単に錯覚する。
 そう結論づけてしまえば、全ては片付くはずだった。

 それでも俺は、もう一度だけ扉を見た。

 当然、そこに花など存在しない。だが視線が離れないのは、もはや観測などではなく、ただの醜い執着に他ならなかった。
 昨夜の流星と同じだ。見ようとした瞬間に消えるものを、人間はなぜか、もう一度観測しようとする。
 
 俺は、ようやく空から目を逸らした。
 
 扉が閉まった後の静寂が、肺の奥まで冷やす。
 
 担任に声をかけた理由。保健室ではなく屋上を選んだ理由。そして、彼の「好きじゃない」という言葉に、叫び出したいほどの拒絶を覚えた理由。
 
 どれ一つとして、今の俺には処理ができていなかった。
 いや、処理しようとする気力すら湧いてこない。
 
 それこそが、今日という日に生じた「最大の異常」だった。
 俺は、柚木への返すべき言葉を持たなかった。
 
 それでも俺は、しばらく空を見ていた。

 理由は、分からなかった。