鎖骨に咲く青を、僕だけが知っていた

 チョークが黒板を削る音が、静まり返った午後の教室に規則正しく響いている。
 
 実験台のアルコールランプの焔は、頼りなく揺れていた。
 春の柔らかな光の中でも、その火はどこか濁り、澱んで見える。傍らに鎮座する丸底フラスコは透明な体液を湛え、窓からの斜光を歪な形に屈折させていた。

「植物の根が、人間の脳を苗床にする症例が報告されている」

 教壇に立つ教師が、古びた標本瓶をゆっくりと傾けた。
 白濁した保存液の中で、繊維状の組織が光を反射する。その瞬間、教室の私語が止んだ。
 冗談を笑い飛ばそうとしていた生徒たちの喉が、目に見えない膜で塞がれたように、一瞬の静寂が降りる。

 俺は、その白濁した塊を見つめた。
 無意識のうちに、左手が机の端を強く握りしめていた。

 あれは精巧な作り物だ。

 そうでなければ困る。俺が積み上げてきた知識体系の中に、あのような異形が入り込む余地など存在してはならない。

「花咲病の国内症例数は、現時点で公式に確認されているだけで十七例。いずれも十代での発症だ」

 教師は淡々と続けた。私語の消えた教室に、乾いたチョークの音だけが再び刻まれる。

「感染経路は未解明だが、感情の過剰負荷が誘因と推測されている。発症者の社会適応能力は、平均して発症から四ヶ月以内に著しく低下する。治療法は、現在も存在しない」

 最後の一文だけ、教師の声から温度が消えた。変わった、というよりは、完璧に「無」になった。
 それが、かえって教室の空気を重く固めていく。

 ふと、斜め前に座る柚木(ゆずき)のうなじに目が留まった。窓から差し込む春光が、彼の栗色の髪を透き通るような飴色に変えてゆく。

「先生」

 不意に、柚木が手を挙げた。
 窓からの光を背負った背中は、どこか現実味を欠いて白く滲んでいる。

「花咲病に罹ったら、僕たちの思考はどうなるんですか」

 教師は小さく鼻で笑った。その視線は生徒を捉えず、もっと遠い虚空な場所を見ていた。

「人間特有の複雑で曖昧な感情は削ぎ落とされ、やがて単機能で純粋な欲求へと純化していく。――それを、精神の透明化と呼ぶ」
「それって、むしろ楽じゃね?」

 後ろの席で、誰かが小声で囁いた。

 俺は何も感じなかった。
 感じなかった、はずだった。
 なのに左手は依然として、机の端を離そうとしない。

「花は、相手に届かなかったとき、枯れる。届いたときも、枯れることがある」

 教師は黒板の粉を払うこともせず、窓の外を見遣って言った。

「――枯れた後のことは、教科書に載っていない」

 終業の鐘が、冷ややかに教室の空気を切り裂いた。




 周囲がざわめき始め、放課後の活気が水槽に溢れる水のように教室を満たしていく。
 俺はスマートフォンの通知を確認した。母からの、簡潔な指令。

『完璧な貴方でいなさい。完璧であれば、人生において何かを選ぶ必要すらなくなるのだから』

 完全であれば、選ぶ必要がない。
 
 それはつまり、失う可能性を排除するということだ。選択には、常に誤りのリスクが伴う。
 誤りは損失を生み、損失は痛みへと変わる。だから選ばない。正解だけを正確になぞる。それこそが俺の、唯一の合理だ。

 失わなければ、痛みは発生しない。
 ただ、それだけのことだ。

閃亜(せんあ)、今の話怖かったな。あんなのどうせ都市伝説だろ?」

 隣の席のクラスメイトが、苦笑しながら話しかけてくる。俺は教科書を鞄にしまいながら、口角を数ミリだけ引き上げた。

「そうだな。生物学的には飛躍しすぎているし、不安を煽るための演出だろう」

 淀みない返答。
 彼は満足そうに頷き、他のグループへと混じっていった。俺は彼らの会話を処理しながら、鞄を持って立ち上がった。




 放課後の理科準備室は、ホルマリンと埃の混じった匂いに満ちていた。窓辺に立ち、西日に焼かれる校庭を眺める。
 なぜここに来たのか、自分でも説明がつかない。最短の帰宅経路ではないし、合理的な寄り道の理由もない。

「閃亜くん、まだ帰らないんですか」

 背後で硬い靴音が一つ響いた。振り返ると、そこに柚木が立っていた。

「……ああ」
「それなら、今日こそ天文部の見学なんてどうです。望遠鏡、新しくなったんですよ」

 柚木は机に手をついたまま、わずかに身を乗り出している。距離は、腕一本分より近い。シャツの襟元が重力に従って緩み、喉仏の影が浅く落ちた。

 彼の呼吸の間隔は、均一ではない。

 速いわけでも乱れているわけでもない。ただ、一定ではないのだ。
 笑う前に、ほんの一拍だけ視線を伏せる。
 その癖を、俺はいつから知っていたのだろうか。

 白い、何かが見えた気がした。

 視線を外し、窓の外へ向ける。西日が校庭を白く焼いている。まぶたを閉じて、五秒数えた。

 ――もう一度、見た。

 角度を変えながら、確認する。真正面、次に斜め、机の金属脚の反射面を経由して間接的に。どの角度から観察しても、柚木の鎖骨の直上には白い輪郭が存在していた。
 皮膚は平滑で、隆起も変色もない。光は物理学的に正しく反射し、そこには健康的な少年特有の肌があるだけだ。

 なのに、その輪郭だけが、呼吸とも動きとも無関係に、そこに不変のまま在り続けている。

 光の加減だ。

 そう結論づけるしかない。それ以外の可能性に名前をつけることを、俺の理性は許可しない。

「いい。興味がない」

 即答で否定すると、柚木は数回瞬きをして、すぐにいつものように笑った。廊下を通るクラスメイトが揶揄うように声をかけてくる。

「まーた一緒かよ、お前ら」
「違いますよぉ、またフラれちゃいましたー」

 柚木が明るく応じる。俺もまた、最適化された曖昧な笑みを浮かべた。

 柚木は去り際、俺の肩を一度だけ軽く叩いた。

「閃亜くんって、ほんと揺れないですよね」

 廊下の角に消えていく背中を、俺は見送った。

 接触は一秒未満だった。だが、温度は局所的に残留している。神経が遅れて、その位置を報告してくる。不要な情報だ。処理すれば、すぐに消えるはずだった。

 鞄の持ち手を、握り直す。

 世界は今日も正常だ。

 ただ一点を除いて――鎖骨の上の白い輪郭が、まだ消えずにそこにある。
 それだけが、静かに、俺の網膜を侵食し続けていた。