《◯月◯日 18:05
完食。今日は少し距離が近い。》
《◯月◯日 16:30
食欲あり。水も減ってたから足した。》
《◯月◯日 18:22
毛並み、前よりつやある気がする。》
世間話もない、黒白の事だけのそんなやり取りがしばらく続いていた。
字の勢い。迷いのなさ。
必要なことしか書かない潔さ。
ページが増えるたび、
“誰か”の存在が確かになっていった。
黒白に会うのはもちろん、ノートを読むのも楽しみになっていた。
先生の声だけが淡々と流れているいつもと変わらない教室。
「橘、ここどう思う?」
やっぱり来た。
喉が締まる。
「……」
言葉が出なくて
空気が重くなり始めた。
ーーそのとき。
「この主人公、結局まだ覚悟決めてないですよね」
はっきりした声。
自然と顔を上げると、朔。
以前と同じ構図。
今日は一瞬だけ朔がこちらを見た気がした。
あのときも、俺が固まった直後だった。
——逃げてるだけだと思いますけどね。
その言葉が、胸の奥で蘇る。
今日も、先生は頷いて、
「なるほど、いい視点だ」
教室の空気が、ふっと軽くなった。
偶然かもしれない。
……でも
また、助けられたのかもしれない。
ーーー授業が終わると人の波が教室の外へ向かう。
その流れに紛れようとしたとき。
「橘」
聞き覚えのある声。
振り返った先には……朔がいた。
「…な、…何」
驚きすぎて、声が少しだけ掠れる。
朔は気にする様子もなく言う。
「先生に当てられんの嫌なら、前に座っとけば」
「……は?」
「特にあの先生、後ろの方の席のやつを当てる事多いから、前のやつに頼んで席代わってもらうとかさ」
これは…アドバイスしてくれてるのか?
この前も、今日も。
タイミングが良すぎる。
「…も…しかして、さっきの」
「ん?」
「……かばってくれた?」
聞いてから少し後悔した。
「空気重いの嫌なだけ」
朔はそう言って目を細めた。
…ああ、そうか。
そういう人だ。
教室の空気を動かせる側の人間。
俺とは違う。
「……そっか」
それでも。
胸の奥に、温かいものが残った。
「ありがとう」
小さく言って顔を上げた瞬間、初めて朔と目が合った。
光を受けた瞳の色が思ってたより柔らかくて、視線を逸らせなくなる。
けれど、すぐに朔の方から逸らされてしまった。
「……ちゃんと喋れんじゃん」
からかうわけではなく、俺の心を見透かしてるみたいな低い声。
熱が、一気に顔に集まった。
「……別に」
「前、座るかどうかは好きにすれば」
心臓がうるさかった。
朔の背中が遠ざかったあともしばらく立ち尽くしたままだった。
ーーー
植え込みの横で、
黒白は丸くなっていた。
《◯月◯日 18:18
今日は少し寒そう。丸くなってる。》
書き終えて、ページをめくるとそこにはもう、見慣れた字があった。
《昼より元気。
寒い日は無理に動かさないほうがいい。》
いつも通り。
でも……
最後に、ぽつり。
《あんたも。》
あんたも?
寒い日は無理に動くなってこと?
字は荒くないのに、
どこか強くて、迷いなく断定する感じ。
——空気重いの嫌なだけ。
——ちゃんと喋れんじゃん。
またあの声と重なった。
ノートを閉じると黒白が、こちらを見ていた。
教室で真正面から視線を向けられた時の鼓動がまた蘇る。
ページをめくるときの胸の高鳴りと、
名前を呼ばれたときの鼓動は、
どこか似ていて、廊下の空気まで思い出す。
黒白が小さく喉を鳴らした後、俺もゆっくり息を吐いた。
ノートを閉じたのに、
心臓だけがまだ、次のページを待っているみたいだった。
