二列目、窓側、君のとなり〜猫とノートと、君の声〜

帰るつもりだった。
ーーもうあの場所には行かないと決めた。
そう思い込もうとしていた。

なのに。

気付けば、足が向かっていた。

ひび割れたアスファルト、
植え込みの端。

小さく息を吐く。
自分でも、わからなかった。

来る理由なんて、もうない。

ノートも、書くことをやめた。
あの日から止まったまま。
黒白の姿も、なかった。

歩きだそうとした時、
気配を感じて顔を上げると、
橘が、立っていた。

一瞬、驚いて息をするのを忘れていた。

同じように驚いた顔をしている橘と目が合う。
逸らすことが出来なかった。

「……朔」

久しぶりに聞く橘の声に、
胸の奥が鋭く痛んだ。

聞き慣れているはずの声が、
やけに遠く感じた。

「…どうして、ここにいるの…」

答えられなかった。
理由なんて、言えるわけがない。

ただ、来てしまった…なんて。

「どうして…俺たち、こうなっちゃったの」

その言葉に、喉の奥が詰まった。

ーーそんなの、わかってた。

でも、言えなかった。

何を言っても、
橘を困らせるだけ。
…わかってるから。

これ以上、ここにいたらダメだ。

「……っ」

視線を逸らして、背を向けた。

逃げるみたいに、歩き出した。

ーーそれで終わるはずだった。


「まっ…待って」

声と同時に腕を掴まれる。

「……離せ」

…なんで、
引き止めるんだよ。

「い…やだ」

震えた声と、
俺を掴んで離さない手。
今にも涙が溢れ出しそうな目。

ーーなんで
そんな顔、するんだよ。

そのまま、時間が止まる。

振り払おう。

そう思ったのに、
橘の手を振り払うことなんて出来なかった。

指先に、力が入る。
離したくない。
そう思ってしまう。

「……っ」

気付い時には、
そのまま腕を引いてた。

目の前にいる橘のことを
そのままーー
抱きしめていた。

壊してしまいそうなくらいに、強く。

ずっと我慢していたものが、
一気に溢れ出す。

「……なんで、そんな顔すんだよ」

漏れた声は、
自分でも驚くくらいに掠れていた。


苦しそうな顔。
泣きそうな目。

ーーそんな顔、
させたいわけじゃないのに。

腕に込める力が、少しだけ緩む。

でも。
離せない、離したくない。

視線が絡む。
息がかかる距離に橘がいる。
目を逸らせない。

あと少しで、唇に触れる。

このまま、触れたい。

ーー触れてしまったら、戻れなくなる。

だから。

「……ごめん」

無理やり、距離をとった。

「……俺、ダメなんだ」

ーーこれ以上、踏み込んだら。

それしか言えなかった。

もう困らせたくない。
泣かせたくない。

でも、
手を伸ばしたくなってしまう。

そんな事言えるわけない。

腕を離すと、
さっきまでの温もりが消えた。

それだけで、
胸の奥が軋んだ。

「…な…んでっ」

橘の震える声。

「…なんで」

「…わかんないよ」

「朔が、何考えてるのか…全然、わかんない」

ーー伝えられない。

その悔しさを、
ぎゅっと拳に込める。

橘が背を向けて、
そのまま離れて行く。

足が動きそうになる。
追いかけたくなる。

でも。

追いかけたりしなかった。

橘を壊したくない。

小さくなっていく橘の背中を、
見送る事しか出来なかった。

さっきまで抱きしめていた腕を、
ゆっくりと見る。

まだ、残っている気がした。

温もりも。
匂いも。
全部。

「…俺は…何やってんだ…」

自分の手で壊した。

あのまま、
離さなければよかった。

…一瞬でもそう思ってしまった自分が、
どうしようもなく嫌になる。

綺麗な夕焼け空から、
視線を逸らすように、ふと視線を落とす。

橘が置いていったままのノート。

もう、使われることのないはずのもの。

ページをめくると、
まっすぐな橘の文字。

《気持ちが、知りたい》

そこで、止まったままの時間。

伝えられなかった。

何も…書けなかった。

「…どうせ」

もう、読まれることなんてない。

橘も、ここには来ない。

ーーだったら、もう。

ポケットからペンを取り出す。

指先に、力がこもる。

「……っ」

一瞬だけ目を閉じて、
ペン先を、紙に落とした。

ーー本当は、
橘にずっと伝えたかったことを。