二列目、窓側、君のとなり〜猫とノートと、君の声〜

教室の空気が、こんなにも重く感じるなんて思わなかった。

一番前、黒板がやけに近い。

視界の端にもう朔はいない。
それだけで、落ち着かない。

シャーペンを持つ手が、何度も止まる。
ふとした瞬間に、後ろを振り返りそうになる。

でもきっと、振り返ったところで、
目が合うことは、もうない。

「……はぁ」

小さく息を吐く。

胸の奥が、ずっと苦しい。

ーーちゃんと話したい。

そう思っているのに、
朔を目の前にすると、
足がすくんでしまう。

授業の内容なんて、ほとんど頭に入らなかった。


ーーー

放課後のチャイムが鳴ると向かう場所はいつだって決まっている。

駐車場のひび割れたアスファルト。
植え込みの端。

「黒白」

呼びながら足を止める。

……あれ?

いつもならすぐ出てくるのに。

「黒白」

もう一度呼んでも、返事がない。

静かすぎて、胸の奥がざわついた。

猫缶の入ってるビニールの音を、わざと立ててみる。
カサカサっと乾いた音だけが響く。

それでも、姿が見えない。

「……なんで」

植え込みの奥を覗き込む。

…いない。
どこにもいない。

「黒白……?」

鼓動が不自然に速くなって、
声が震えた。

その時ふと視界の端に白いものが映る。

……ノート。

いつもの場所に置かれている。
なにか、書かれているかもしれない。

駆け寄るように手に取って、
ページをめくる。
指先が震えた。

《気持ちが、知りたい》

そこから先はーー
何も、書かれていなかった。

……え。

何度もめくる。
でも、新しい文字はない。

「……なんで」

ぽつりと落ちた声が、
やけに大きく響いた。

黒白がいないなんて事、
今までなかった。

胸の奥が、
すうっと冷えていく。

「黒白……っ」

今度ははっきりと焦りが滲んだ声。

探さなきゃ。

そう思って、一歩を踏み出した瞬間。

「紬」

後ろから声がして、そこには玲央がいた。

「玲央……?」

「ちょっと来て」

「えっ…でも今、俺…」

「いいから」

遮るようにそう言われ、
何も聞けないまま玲央の後ろに続いた。

「…ここ……?」

玲央が足を止めた場所。

古びた木の引き戸、
色あせた看板、
ほんのり甘い砂糖の匂い。
いつもの駄菓子屋だった。

玲央が開けた扉の中を覗いた。

「……あ」

思わず声が漏れた。

店の奥にいるおばあちゃんの横。
丸くなっている白と黒のかたまり。

「黒白……!」

駆け寄ると、
黒白はゆっくりと目を開けた。
そして、いつもみたいに小さく鳴いた。

安心した瞬間、力が抜けそうになる。
思わずその場にしゃがみ込んだ。

「よかった……」

黒白の頭を撫でると、小さく喉を鳴らした。

その様子を見て、玲央が小さく息を吐いた。

「びっくりしただろ」

「いつもの場所にいなくて、焦った……」

「ごめん」

そう言って頭をかく玲央。

「ここ、俺のばあちゃんの店」

「え?」

驚いて顔を上げると、おばあちゃんが優しく笑っていた。

「この子ね、ここで生まれたのよ」

「…そう、なの?」

玲央が頷く。

「俺が高一の時かな。生まれてさ」
「それから俺、餌やり担当してた」

黒白はまるで話を聞いているみたいに、ゆっくり尻尾をゆらした。

「気付いたらさ」

「俺が来る時間になると、あの駐車場で待つようになっちゃってさ」

そう言って玲央は少し笑う。

「だから、こいつがあの駐車場にいたのは」

「偶然じゃなかったんだ」

胸が、どくんっと鳴った。

「……え」

玲央の言葉に、
ノートが頭をよぎる。

……じゃあ。

ノートは誰が書いてた?

玲央じゃ…なかった?

じゃあ、あの言葉はーー

「俺さ」

玲央の言葉にはっとして我に返る。

「紬がこいつに話しかけてるの、最初から見てた」

「え……」

「全然人と目合わせないのにさ」

「こいつと話してる時だけ、めちゃくちゃ楽しそうで」

少し照れたように笑った。

「だから、言えなかった」

「……こいつと紬のあの時間、壊したくなかった」

「黙ってて、ごめん」

胸の奥がじんわりと熱くなる。

「玲央…」

「でもさ」

「これからは寒くなるし」

「こいつは外に出さないってばあちゃんに聞いて」

「え……」

思わず黒白を見る。

黒白は変わらず、穏やかに目を細めている。

「でも、紬さえよければ、ここに来れば会えるから」

「ばあちゃんも、これからも今まで通り可愛がって欲しいって」

その言葉に、
ほっと息が漏れた。

「…来る!来るに決まってる」

黒白に会えなくなるわけじゃない。
それだけで、
少し安心した。

でもーー

同時に、
胸の奥がまた、
きゅっと締め付けられる。

……あの場所。

駐車場。
ノート。
朔。

全部。
繋がっていた場所。

もう、あそこに行く理由はなくなる。

黒白も、ノートも。
……朔も。

黒白の背中を撫でながら俯く。

「紬?」

玲央の呼びかけに、
顔を上げることが出来なかった。

「……なんでもない」

絞り出した声が少しだけ震えた。


ーー帰り道。

歩きながら何度も思い出していた。

ノートの最後の一行。
…返事は、なかった。

《気持ちが、知りたい》

あの場所に置いたままのノート。
相手は玲央だったのか、結局怖くて聞けなかった。

閉じたままの想い。

頭に浮かぶのは、
やっぱりーー

「……朔」

名前を呼ぶだけで、胸が痛くなる。

会いたい。

朔の隣に行きたい。

足を止めて、空を見上げる。

名前を呼ぶみたいに、
もう一度だけ、願った。

夕焼けが、滲んで見えた。