「席替えするぞー」
担任の声にざわつくクラスの中で、俺はふと隣をみた。
橘の少し俯いた横顔が視界に入った瞬間、胸の奥がきゅっと詰まる。
でも。
もう目を逸らす事しかできない。
見てしまうと、
きっとまたーー
手を伸ばしてしまう。
「さっ…朔」
この声に名前を呼ばれるのは、何日ぶりだろう。
驚いて、返事をする事すら忘れていた。
橘は今にも泣き出しそうな顔で俺を見ている。
俺はもう橘の隣の席じゃなくなる。
逃げるように距離を取ったあの日。
それでも。
この席に座っている時だけは、俺の隣に橘が居たから…
「前の席も、悪くなかったな」
そう言った瞬間、少し後悔した。
目に涙を溜めて、俯く橘。
”「橘、ここどう思う?」”
”「……すみません」”
”「逃げてるだけだと思いますけどね」”
あの日が浮かんできた。
俺は…また困らせてる。
「俺、色々困らせてごめん」
もう、困らせたりしないから…。
そんな泣きそうな顔すんな。
黒白に見せるような、
玲央とふざけ合ってる時のような、
優しい笑顔の橘で居てほしい。
「新しい席でも」
「ちゃんと、息するんだぞ」
手が勝手に、橘の頭に触れた。
きっと、
ーーまた困らせた。
”《じゃあ、離れた方がいい?》”
橘はどんな気持ちでノートにこう書いたのか、
考えてもわからなかった。
”《それは自分で決めること》”
”《ま、逃げてもまた捕まえる》”
返事を書いたあとで、自分でも笑った。
誰かをこんな風に、
想ったことなんてなかった。
逃げるなら逃げればいい。
それでも、
俺はきっとまた
橘の隣に戻ってくる。
本気でそう思ってた。
…あの時までは。
玲央の腕の中に居る橘は、泣いていた。
橘のあんな顔見た事がなかった。
あの時、わかった。
気付かないふりをしていただけだった。
玲央は、
俺よりずっと前から橘の隣にいた。
…なのに俺が。
自分勝手な俺の気持ちが、
邪魔をしてしまった。
窓側、一番後ろに座った。
真ん中の一番前に、
橘の背中が小さく見える。
橘はもう、
触れちゃいけない距離にいる。
ーー放課後。
どうしても行かなきゃ行けない場所へ向かった。
駐車場のひび割れたアスファルトの端。
着いたとほぼ同時に、足元に擦り寄って来た。
「黒白」
小さく鳴きながら、俺の足に体を押し付ける。
「……お前は可愛いな」
頭を撫でると、満足そうに喉を鳴らした。
「ごめんな、俺もうここには来れないんだ…」
橘や玲央が、
黒白の餌やりを忘れるはずない。
「俺さ…最初は、橘に近付く為に、お前に会いに来てたんだ」
でも。
「気付いたら、お前に会うの楽しみになってたよ」
「ありがとうな、黒白」
黒白は、目を細めて喉を鳴らした。
返事をしてくれたみたいに。
黒白のすぐ横。
植え込みの影にあるノート。
最後の文字は、
橘の短い一行のまま。
あの日から、
書くのをやめてしまった。
《気持ちが、知りたい》
……ずるいだろ。
指先で、その文字をなぞる。
橘の文字は、いつもまっすぐだった。
頭の中に浮かんでくる。
笑った顔。
困った顔。
俯いて赤くなる顔。
それからーー
玲央の腕の中で泣いていた顔。
胸の奥が、
ぎゅっと掴まれたみたいに痛む。
「……知りたいのは、こっちだ」
思わず呟いた声は、
自分でも驚くほど掠れていた。
ふと、ポケットに触れた。
指先に当たる、硬い感触。
透明な袋に入ったままのクッキー。
すぐに食べるのがもったいなくて、最後の一枚だけ残していた。
丸い形ーー
真ん中に、小さな肉球。
「……黒白」
思わずふっと笑ってしまう。
少し迷ってから袋を開けた。
口に入れると、優しい甘さが広がる。
その瞬間、浮かんできたのは、
照れたように笑う橘の顔だった。
無意識に奥歯に力が入った。
甘いはずなのに、
どうしてか、胸の奥が苦しかった。
気付けば、視線はまたノートに戻っていた。
でも、
ペンは取らなかった。
書いてしまえば、
きっとまた手を伸ばしたくなる。
これ以上、
橘の顔を歪ませたくない。
だから。
ノートを閉じた。
クッキーの甘さが、
口の中に残って消えなかった。
担任の声にざわつくクラスの中で、俺はふと隣をみた。
橘の少し俯いた横顔が視界に入った瞬間、胸の奥がきゅっと詰まる。
でも。
もう目を逸らす事しかできない。
見てしまうと、
きっとまたーー
手を伸ばしてしまう。
「さっ…朔」
この声に名前を呼ばれるのは、何日ぶりだろう。
驚いて、返事をする事すら忘れていた。
橘は今にも泣き出しそうな顔で俺を見ている。
俺はもう橘の隣の席じゃなくなる。
逃げるように距離を取ったあの日。
それでも。
この席に座っている時だけは、俺の隣に橘が居たから…
「前の席も、悪くなかったな」
そう言った瞬間、少し後悔した。
目に涙を溜めて、俯く橘。
”「橘、ここどう思う?」”
”「……すみません」”
”「逃げてるだけだと思いますけどね」”
あの日が浮かんできた。
俺は…また困らせてる。
「俺、色々困らせてごめん」
もう、困らせたりしないから…。
そんな泣きそうな顔すんな。
黒白に見せるような、
玲央とふざけ合ってる時のような、
優しい笑顔の橘で居てほしい。
「新しい席でも」
「ちゃんと、息するんだぞ」
手が勝手に、橘の頭に触れた。
きっと、
ーーまた困らせた。
”《じゃあ、離れた方がいい?》”
橘はどんな気持ちでノートにこう書いたのか、
考えてもわからなかった。
”《それは自分で決めること》”
”《ま、逃げてもまた捕まえる》”
返事を書いたあとで、自分でも笑った。
誰かをこんな風に、
想ったことなんてなかった。
逃げるなら逃げればいい。
それでも、
俺はきっとまた
橘の隣に戻ってくる。
本気でそう思ってた。
…あの時までは。
玲央の腕の中に居る橘は、泣いていた。
橘のあんな顔見た事がなかった。
あの時、わかった。
気付かないふりをしていただけだった。
玲央は、
俺よりずっと前から橘の隣にいた。
…なのに俺が。
自分勝手な俺の気持ちが、
邪魔をしてしまった。
窓側、一番後ろに座った。
真ん中の一番前に、
橘の背中が小さく見える。
橘はもう、
触れちゃいけない距離にいる。
ーー放課後。
どうしても行かなきゃ行けない場所へ向かった。
駐車場のひび割れたアスファルトの端。
着いたとほぼ同時に、足元に擦り寄って来た。
「黒白」
小さく鳴きながら、俺の足に体を押し付ける。
「……お前は可愛いな」
頭を撫でると、満足そうに喉を鳴らした。
「ごめんな、俺もうここには来れないんだ…」
橘や玲央が、
黒白の餌やりを忘れるはずない。
「俺さ…最初は、橘に近付く為に、お前に会いに来てたんだ」
でも。
「気付いたら、お前に会うの楽しみになってたよ」
「ありがとうな、黒白」
黒白は、目を細めて喉を鳴らした。
返事をしてくれたみたいに。
黒白のすぐ横。
植え込みの影にあるノート。
最後の文字は、
橘の短い一行のまま。
あの日から、
書くのをやめてしまった。
《気持ちが、知りたい》
……ずるいだろ。
指先で、その文字をなぞる。
橘の文字は、いつもまっすぐだった。
頭の中に浮かんでくる。
笑った顔。
困った顔。
俯いて赤くなる顔。
それからーー
玲央の腕の中で泣いていた顔。
胸の奥が、
ぎゅっと掴まれたみたいに痛む。
「……知りたいのは、こっちだ」
思わず呟いた声は、
自分でも驚くほど掠れていた。
ふと、ポケットに触れた。
指先に当たる、硬い感触。
透明な袋に入ったままのクッキー。
すぐに食べるのがもったいなくて、最後の一枚だけ残していた。
丸い形ーー
真ん中に、小さな肉球。
「……黒白」
思わずふっと笑ってしまう。
少し迷ってから袋を開けた。
口に入れると、優しい甘さが広がる。
その瞬間、浮かんできたのは、
照れたように笑う橘の顔だった。
無意識に奥歯に力が入った。
甘いはずなのに、
どうしてか、胸の奥が苦しかった。
気付けば、視線はまたノートに戻っていた。
でも、
ペンは取らなかった。
書いてしまえば、
きっとまた手を伸ばしたくなる。
これ以上、
橘の顔を歪ませたくない。
だから。
ノートを閉じた。
クッキーの甘さが、
口の中に残って消えなかった。

