二列目、窓側、君のとなり〜猫とノートと、君の声〜



ーー昨日の音が、消えない。

 缶を開けたときの、ぱきん、という乾いた音。

 小さな舌が餌を舐める、控えめな音。

 黒と白の毛並み。

 じっと、逃げなかった目。

文字が頭に入ってこない。

教室の空気は、いつもと同じはずなのに、昨日と違って今日は少しだけ落ち着かなかった。


「橘、ここどう思う?」

先生の声にはっとして顔を上げる。
視線がぶつかりそうになって、慌てて逸らす。

「……すみません」

また、それしか言えない。

 ——やっぱり、無理だ。
そう思った時。

教室のどこかで、誰かが椅子を引く音がした。

「俺は、この主人公、逃げてるだけだと思いますけどね」

少し後ろの席から、はっきりした声がした。

見るつもりはなかったのに、
目が勝手に、声の方向に向いた。

ーー朝倉 朔(あさくら さく)。

朔とは同じクラスになってから、何度か業務連絡みたいな会話をした程度。

光の当たり方のせいか、髪が少し茶色く見える。

横顔の線が、やけに整っていて、背が高い。

いつも誰かしら隣にいて、
昼休みには女子に囲まれていることが多い。

廊下ですれ違えば、
「あ、朔くん」って声が飛ぶ。

彼がその声掛けに、少し冷めた作り笑いで答えるだけで、相手は嬉しそうにしている。

ああいうのを、たぶん
“モテる”って言うんだろう。


「逃げること自体が悪いとは思わないですけど、向き合わないと、何も始まらないっていうか」

教室の空気が、彼のほうへ傾いた。

「なるほど、いい視点だな」

先生が頷いて、前の席の女子が、小さく「さすが」と呟いた。

 顔も整っていて、
 声も通って、
 人に囲まれて。

 目を逸らさなくても、生きていける人種。

 きっと、心の奥を覗かれても、平気なんだろう。

 ——俺とは、世界が違う。


俺はまた、ノートに視線を落とす。

頭に浮かんできたのは、
黒と白の、小さなかたまり。


 ——逃げてるだけ。

 さっきの朔の言葉が、引っかかる。

 俺は、逃げてるだけなんだろうか。