二列目、窓側、君のとなり〜猫とノートと、君の声〜

***

ーー昨日の音が、消えない。
缶を開けたときの、ぱきん、という乾いた音。
小さな舌が餌を舐める、控えめな音。

そして、黒と白の毛並みと、逃げなかった目。

文字が頭に入ってこなくて、教室の空気はいつもと同じはずなのに、まるで昨日と違った。
今日は落ち着かない。

「橘、ここどう思う?」

先生の声にはっとして顔を上げる。
視線がぶつかりそうになって、慌てて逸らした。

「……すみません」

やっぱり、無理だ。
また、それしか言えない。
そう思った時だった。

教室のどこかで、誰かが椅子を引く音がした。

「俺はこの主人公、逃げてるだけだと思いますけどね」

ーーえ?
少し後ろの席から、はっきりした声が聞こえた。

見るつもりはなかったのに、
目が勝手に、声の方向に向ていた。

朝倉 朔(あさくら さく)。
朔とは同じクラスになってから、何度か業務連絡みたいな会話をした程度。

光の当たり方のせいか、髪が少し茶色く見える。
横顔の線は、すごく綺麗に整っていて、背が高い。

いつも誰かしら隣にいて、昼休みには女子に囲まれていることが多い。

廊下ですれ違えば、
「あ、朔くん」って声が飛ぶ。

彼がその声掛けに、少し冷めた作り笑いで答えるだけで、相手は嬉しそうにしている。

ああいうのを、たぶん
“モテる”って言うんだろう。

「逃げること自体が悪いとは思わないですけど、向き合わないと、何も始まらないっていうか」

教室の空気が、彼のほうへ傾いた。

「なるほど、いい視点だな」

先生が頷くと、前の席の女子が小さく「さすが」と呟いた。

顔も整っていて、
声も通って、人に囲まれている。
目を逸らさなくても、生きていける人種。

きっと、心の奥を覗かれても平気なんだろう。
——俺とは、世界が違う。

俺はまた、ノートに視線を落とした。

頭に浮かんできたのは、
黒と白の、小さなかたまり。

——逃げてるだけ、か。
さっきの朔の言葉が、引っかかる。
俺は、逃げてるだけなんだろうか。