ーー昨日の音が、消えない。
缶を開けたときの、ぱきん、という乾いた音。
小さな舌が餌を舐める、控えめな音。
黒と白の毛並み。
じっと、逃げなかった目。
文字が頭に入ってこない。
教室の空気は、いつもと同じはずなのに、昨日と違って今日は少しだけ落ち着かなかった。
「橘、ここどう思う?」
先生の声にはっとして顔を上げる。
視線がぶつかりそうになって、慌てて逸らす。
「……すみません」
また、それしか言えない。
——やっぱり、無理だ。
そう思った時。
教室のどこかで、誰かが椅子を引く音がした。
「俺は、この主人公、逃げてるだけだと思いますけどね」
少し後ろの席から、はっきりした声がした。
見るつもりはなかったのに、
目が勝手に、声の方向に向いた。
ーー朝倉 朔(あさくら さく)。
朔とは同じクラスになってから、何度か業務連絡みたいな会話をした程度。
光の当たり方のせいか、髪が少し茶色く見える。
横顔の線が、やけに整っていて、背が高い。
いつも誰かしら隣にいて、
昼休みには女子に囲まれていることが多い。
廊下ですれ違えば、
「あ、朔くん」って声が飛ぶ。
彼がその声掛けに、少し冷めた作り笑いで答えるだけで、相手は嬉しそうにしている。
ああいうのを、たぶん
“モテる”って言うんだろう。
「逃げること自体が悪いとは思わないですけど、向き合わないと、何も始まらないっていうか」
教室の空気が、彼のほうへ傾いた。
「なるほど、いい視点だな」
先生が頷いて、前の席の女子が、小さく「さすが」と呟いた。
顔も整っていて、
声も通って、
人に囲まれて。
目を逸らさなくても、生きていける人種。
きっと、心の奥を覗かれても、平気なんだろう。
——俺とは、世界が違う。
俺はまた、ノートに視線を落とす。
頭に浮かんできたのは、
黒と白の、小さなかたまり。
——逃げてるだけ。
さっきの朔の言葉が、引っかかる。
俺は、逃げてるだけなんだろうか。
