二列目、窓側、君のとなり〜猫とノートと、君の声〜

***

廊下の端、人の少ない窓際。
昼休み、壁にもたれてぼんやり外を見ていた。

「朔」

声をかけられて振り向いた先には、玲央。

「ちょっといい?」

少し怒っているような真剣な顔だった。

「何?」

数歩近づいてきてまっすぐ俺を見る視線が強くて、思わず目を細めた。

「紬のこと」

その名前に、胸の奥がざわついた。

「変に惑わせんなよ」

惑わせる…?

「どういう意味」

静かな声のはっきりした牽制だった。

「そのまま」

一歩も引かない玲央の言葉を、俺は黙って聞いてた。

「紬、ああいうやつだから、人に慣れてないし」

「優しくされると、すぐ信じるし、断れない」

言い返す言葉が浮かばなかった。

「だからさ」

玲央の言葉が少し強くなる。

「困ってるんだよ紬は」

胸の奥が、嫌な音を立てた。

玲央の言葉は、
全部、間違っていない。

「中途半端なら近付くなよ」

「困らせんなよ」

「紬を傷付けたら許さない」

沈黙が落ちた数秒は、廊下の向こうから聞こえる誰かの笑い声が、すごく遠く感じた。

「……別に、そんなつもりねぇよ」

そう言うと、玲央は何かを確かめるみたいに、
しばらく俺を見ていた。

「ならいい」

それだけ言って、歩き出した背中を、
俺はただ黙って見送った。

足音が遠ざかると、
廊下はまた静かになった。

……めんどくせ。

思わず小さく舌打ちをして、
思ってもない言葉を口にしていた。

…困ってる?
橘が。
俺のせいで?
考えた事もなかった。

昨日までの橘の顔を思い出した。

目を逸らす横顔。
少し赤かった耳。
落ち着かない指先。

避けられたのは、俺が…近づいたから。

ノートに書いた文字が、
頭に浮かぶ。

《触れたいけど、ダメかな》

……答えなんてわかりきっていた。

玲央の言葉が、
何度も頭の中で繰り返される。

”優しくされると、すぐ信じる”

”断れない”

もし、俺のせいで
あいつが困ってるなら。

それは、違う。
……違うだろ。

壁から背中を離して窓の外を見ると、
風で木が揺れていた。

***

あの日から、橘と目を合わせられなくなった。
困らせるくらいなら、
離れた方がいいと思った。

そうするしかないと思った。

でも、離れようとすればするほど気になって仕方がなかった。

「橘」

気付いたら追いかけて名前を呼んでた。

振り向いた橘は、驚いているように見えた。

数日ぶりに、ちゃんと目が合った。

「…何してた?」

こんな事を言いたい訳じゃない。

「……猫」

そう答える橘の瞳が少し潤んでいるように見えた。
きっと今も困らせてる。

沈黙が落ちて、夕方の風が通り抜けていく。
その静けさが余計に落ち着かない。

…言わないと、ちゃんと。

「最近さ、俺…避けてた」

橘が顔を上げて、その表情を見た瞬間、胸の奥が少し傷んだ。

……そんな寂しそうな顔、すんなよ。

「ごめん、ちょっと考えてて」

誤魔化すように笑う事しかできなかった。
本当は、玲央の言葉がずっと頭に残っていた。

だから、逃げるように避けた。

……でも。
目の前にいるだけで、
全部ぐちゃぐちゃになる。

一歩近付くと、橘の肩が小さく揺れた。

「でも、やっぱ無理」

「…え…むりって…?」

泣きそうになりながら、
目を逸らして俯く橘を見た瞬間、
言葉と同時に、手首を掴んで引き寄せていた。

「距離」

橘の体がよろけて、そのまま胸にぶつかった。

離れなきゃまた困らせるとわかっていたのに、腕が勝手に橘の背中に回っていた。

「…ごめん」

「衝動」

腕の中にいる、橘が小さく震えているのが伝わってくる。

”優しくされると、すぐ信じる”
”断れない”

怜央に言われた事、全部わかってた。

「でも」

…ずっと触れたかった。

「もう、無理だった」

だから。

「もう少しだけこのままでいて」

俺の言葉に応えるみたいに、
橘の手がブレザーの裾を小さく掴んだ。

胸の奥が、一気に熱くなった。

夕方の風が静かに吹く。
でも。
聞こえるのは。

橘の鼓動と、
自分の心臓の音だけだった。

腕の中の温もりを感じながら、
小さく目を閉じた。

……触れたいけど、ダメかな。