***
廊下の端、人の少ない窓際。
昼休み、壁にもたれてぼんやり外を見ていた。
「朔」
声をかけられて振り向いた先には、玲央。
「ちょっといい?」
少し怒っているような真剣な顔だった。
「何?」
数歩近づいてきてまっすぐ俺を見る視線が強くて、思わず目を細めた。
「紬のこと」
その名前に、胸の奥がざわついた。
「変に惑わせんなよ」
惑わせる…?
「どういう意味」
静かな声のはっきりした牽制だった。
「そのまま」
一歩も引かない玲央の言葉を、俺は黙って聞いてた。
「紬、ああいうやつだから、人に慣れてないし」
「優しくされると、すぐ信じるし、断れない」
言い返す言葉が浮かばなかった。
「だからさ」
玲央の言葉が少し強くなる。
「困ってるんだよ紬は」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
玲央の言葉は、
全部、間違っていない。
「中途半端なら近付くなよ」
「困らせんなよ」
「紬を傷付けたら許さない」
沈黙が落ちた数秒は、廊下の向こうから聞こえる誰かの笑い声が、すごく遠く感じた。
「……別に、そんなつもりねぇよ」
そう言うと、玲央は何かを確かめるみたいに、
しばらく俺を見ていた。
「ならいい」
それだけ言って、歩き出した背中を、
俺はただ黙って見送った。
足音が遠ざかると、
廊下はまた静かになった。
……めんどくせ。
思わず小さく舌打ちをして、
思ってもない言葉を口にしていた。
…困ってる?
橘が。
俺のせいで?
考えた事もなかった。
昨日までの橘の顔を思い出した。
目を逸らす横顔。
少し赤かった耳。
落ち着かない指先。
避けられたのは、俺が…近づいたから。
ノートに書いた文字が、
頭に浮かぶ。
《触れたいけど、ダメかな》
……答えなんてわかりきっていた。
玲央の言葉が、
何度も頭の中で繰り返される。
”優しくされると、すぐ信じる”
”断れない”
もし、俺のせいで
あいつが困ってるなら。
それは、違う。
……違うだろ。
壁から背中を離して窓の外を見ると、
風で木が揺れていた。
***
あの日から、橘と目を合わせられなくなった。
困らせるくらいなら、
離れた方がいいと思った。
そうするしかないと思った。
でも、離れようとすればするほど気になって仕方がなかった。
「橘」
気付いたら追いかけて名前を呼んでた。
振り向いた橘は、驚いているように見えた。
数日ぶりに、ちゃんと目が合った。
「…何してた?」
こんな事を言いたい訳じゃない。
「……猫」
そう答える橘の瞳が少し潤んでいるように見えた。
きっと今も困らせてる。
沈黙が落ちて、夕方の風が通り抜けていく。
その静けさが余計に落ち着かない。
…言わないと、ちゃんと。
「最近さ、俺…避けてた」
橘が顔を上げて、その表情を見た瞬間、胸の奥が少し傷んだ。
……そんな寂しそうな顔、すんなよ。
「ごめん、ちょっと考えてて」
誤魔化すように笑う事しかできなかった。
本当は、玲央の言葉がずっと頭に残っていた。
だから、逃げるように避けた。
……でも。
目の前にいるだけで、
全部ぐちゃぐちゃになる。
一歩近付くと、橘の肩が小さく揺れた。
「でも、やっぱ無理」
「…え…むりって…?」
泣きそうになりながら、
目を逸らして俯く橘を見た瞬間、
言葉と同時に、手首を掴んで引き寄せていた。
「距離」
橘の体がよろけて、そのまま胸にぶつかった。
離れなきゃまた困らせるとわかっていたのに、腕が勝手に橘の背中に回っていた。
「…ごめん」
「衝動」
腕の中にいる、橘が小さく震えているのが伝わってくる。
”優しくされると、すぐ信じる”
”断れない”
怜央に言われた事、全部わかってた。
「でも」
…ずっと触れたかった。
「もう、無理だった」
だから。
「もう少しだけこのままでいて」
俺の言葉に応えるみたいに、
橘の手がブレザーの裾を小さく掴んだ。
胸の奥が、一気に熱くなった。
夕方の風が静かに吹く。
でも。
聞こえるのは。
橘の鼓動と、
自分の心臓の音だけだった。
腕の中の温もりを感じながら、
小さく目を閉じた。
……触れたいけど、ダメかな。
廊下の端、人の少ない窓際。
昼休み、壁にもたれてぼんやり外を見ていた。
「朔」
声をかけられて振り向いた先には、玲央。
「ちょっといい?」
少し怒っているような真剣な顔だった。
「何?」
数歩近づいてきてまっすぐ俺を見る視線が強くて、思わず目を細めた。
「紬のこと」
その名前に、胸の奥がざわついた。
「変に惑わせんなよ」
惑わせる…?
「どういう意味」
静かな声のはっきりした牽制だった。
「そのまま」
一歩も引かない玲央の言葉を、俺は黙って聞いてた。
「紬、ああいうやつだから、人に慣れてないし」
「優しくされると、すぐ信じるし、断れない」
言い返す言葉が浮かばなかった。
「だからさ」
玲央の言葉が少し強くなる。
「困ってるんだよ紬は」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
玲央の言葉は、
全部、間違っていない。
「中途半端なら近付くなよ」
「困らせんなよ」
「紬を傷付けたら許さない」
沈黙が落ちた数秒は、廊下の向こうから聞こえる誰かの笑い声が、すごく遠く感じた。
「……別に、そんなつもりねぇよ」
そう言うと、玲央は何かを確かめるみたいに、
しばらく俺を見ていた。
「ならいい」
それだけ言って、歩き出した背中を、
俺はただ黙って見送った。
足音が遠ざかると、
廊下はまた静かになった。
……めんどくせ。
思わず小さく舌打ちをして、
思ってもない言葉を口にしていた。
…困ってる?
橘が。
俺のせいで?
考えた事もなかった。
昨日までの橘の顔を思い出した。
目を逸らす横顔。
少し赤かった耳。
落ち着かない指先。
避けられたのは、俺が…近づいたから。
ノートに書いた文字が、
頭に浮かぶ。
《触れたいけど、ダメかな》
……答えなんてわかりきっていた。
玲央の言葉が、
何度も頭の中で繰り返される。
”優しくされると、すぐ信じる”
”断れない”
もし、俺のせいで
あいつが困ってるなら。
それは、違う。
……違うだろ。
壁から背中を離して窓の外を見ると、
風で木が揺れていた。
***
あの日から、橘と目を合わせられなくなった。
困らせるくらいなら、
離れた方がいいと思った。
そうするしかないと思った。
でも、離れようとすればするほど気になって仕方がなかった。
「橘」
気付いたら追いかけて名前を呼んでた。
振り向いた橘は、驚いているように見えた。
数日ぶりに、ちゃんと目が合った。
「…何してた?」
こんな事を言いたい訳じゃない。
「……猫」
そう答える橘の瞳が少し潤んでいるように見えた。
きっと今も困らせてる。
沈黙が落ちて、夕方の風が通り抜けていく。
その静けさが余計に落ち着かない。
…言わないと、ちゃんと。
「最近さ、俺…避けてた」
橘が顔を上げて、その表情を見た瞬間、胸の奥が少し傷んだ。
……そんな寂しそうな顔、すんなよ。
「ごめん、ちょっと考えてて」
誤魔化すように笑う事しかできなかった。
本当は、玲央の言葉がずっと頭に残っていた。
だから、逃げるように避けた。
……でも。
目の前にいるだけで、
全部ぐちゃぐちゃになる。
一歩近付くと、橘の肩が小さく揺れた。
「でも、やっぱ無理」
「…え…むりって…?」
泣きそうになりながら、
目を逸らして俯く橘を見た瞬間、
言葉と同時に、手首を掴んで引き寄せていた。
「距離」
橘の体がよろけて、そのまま胸にぶつかった。
離れなきゃまた困らせるとわかっていたのに、腕が勝手に橘の背中に回っていた。
「…ごめん」
「衝動」
腕の中にいる、橘が小さく震えているのが伝わってくる。
”優しくされると、すぐ信じる”
”断れない”
怜央に言われた事、全部わかってた。
「でも」
…ずっと触れたかった。
「もう、無理だった」
だから。
「もう少しだけこのままでいて」
俺の言葉に応えるみたいに、
橘の手がブレザーの裾を小さく掴んだ。
胸の奥が、一気に熱くなった。
夕方の風が静かに吹く。
でも。
聞こえるのは。
橘の鼓動と、
自分の心臓の音だけだった。
腕の中の温もりを感じながら、
小さく目を閉じた。
……触れたいけど、ダメかな。


