二列目、窓側、君のとなり〜猫とノートと、君の声〜

嘘だろ。

窓側、二列目。

小さくノートを整えている横顔。

今まではただ、
遠くから見ていただけだったのに、
手を伸ばせば触れられる距離。

ーー隣。

「よろしく、橘」

なんでもないを装ってそう言ったけど、本当はなんでもなくなんてなかった。

この席替えから俺は、
もう後戻りなんてできなくなっていた。

帰り道、いつも通る駐車場。

植え込みの前のひび割れたアスファルトの端に、いつもいる黒と白の猫。

橘が餌をあげている姿を何度か見かけていた。

でもあの日はいつもと少し違った。

橘は緊張した面持で小さなノートを持っていた。

橘が去った後も、
植え込みの端に置かれたままのそのノートが気になって仕方がなかった。

体が勝手に動いて、
気付いた時にはもうページをめくっていた。

橘らしい文字で書かれている猫の記録ノート。

俺はこれに書きこむべきではないとわかっていた。

立ち止まったこともない。
餌をあげた事ももちろんない。

でも。
橘と、少しでも繋がっていたい一心だった。

黒と白のその猫に、初めて餌をあげた。
そしてノートに書き込んだ。

────
《◯月◯日 16:40
 完食。食欲旺盛。
 目やには確認できず。
 今日は自分が先でした。》
────

この日から毎日通った。
日に日に近付いていく黒白との距離。

放課後の楽しみになっていった。

そしてノートのページをめくる度、
橘の言葉が並んでいる。
小さくて、少しだけ震えているような文字。
その全てがまっすぐだった。

黒白とここに居る時間、
橘のまっすぐな文字、
俺も、本音を隠せなくなっていった。

擦り寄ってくる黒白の背中を撫でながら、その背中に橘を重ねる。

小さな肩。
たまに寝癖がついてるふわふわした髪。
困った時にかすかに震えてる指先。
合えばすぐに逸らされる、まっすぐな瞳。

ーー叶うなら、一瞬でも。

《触れたいけど、ダメかな》


消そうかとも思った。
でも…聞いてみたくなった。

あいつのことだからきっと、
自分に聞いてるんだなんて考えもしないだろう。

ノートの相手が俺だってことにすら、
気付いていないのだから。

なのに、心のどこかで、
ほんの少しだけ期待してしまう。

***

理由はわからなかった。

窓側、二列目、確かに隣に橘紬はいるのに、遠く感じた。

明らかに様子が違った。

目を合わせなくなったし、
話しかけても、どこか落ち着かない。

……避けられているんだと思った。

席替えから数日たった頃。

昼休みに階段で、
玲央と話している姿を見かけた。
内容まではわからないが、どこか焦っているように見えた。

その直後からだった。

あまりにも突然で、何があったのか、気になって仕方がなかった。

何より、近いのに遠い橘との距離に、
耐えられなかった。

***

ひび割れたアスファルトの端、
黒白は俺を出迎えてくれるようになった。

「…橘は、もう来たか?ご飯はもらった?」

足元で毛繕いしてる黒白に話しかけるけど、返事はない。
無意識にノートを開いた。

────
《触れたいけど、ダメかな》

《触れても、大丈夫そう》
────

まっすぐな文字でそう書かれていて、
思わず吹き出してしまった。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。

「ははっ…橘らしいな」

胸の奥がじわっと暖かくなって、浮かんでくる。


目を逸らす横顔、
少し赤い耳、
ーー橘紬。

***

「最近さ」

「なんか避けてる?」

橘の気持ちはわからない。

ただ…
困らせたって事だけは、
逸らされた視線で伝わってきた。

逃げるように歩き出すその背中を、
ただ見送る事なんて、もうできない。

気付いた時には、橘の細い手首を掴んでいた。

頼むから…

「…逃げんなよ」

手を離したら、本当に逃げられる気がした。

《触れても、大丈夫そう》

ノートの文字が頭をよぎる。
あれは、俺への返事じゃないって事くらいわかってる。
触れられなくても、ただ、そばにいたい。
避けられるなんて、耐えられない。

でも。

「……ごめん」

困らせるなら、

「びっくりさせたよな」

驚かせるなら、

触れたりしないから、

だから…。

逃げないで。

「逃げられるの、普通に傷つく」

「何かあったら言え」

精一杯の強がりと本音だった。

「……うん」

橘は小さく頷いた。