二列目、窓側、君のとなり〜猫とノートと、君の声〜

昼休み。

廊下の端、人の少ない窓際。
壁にもたれて、ぼんやりと外を見ている朔を見かけた。


その少し手前の廊下。

紬は、立ち止まっていた。

角を曲がったとき、
自分の名前が聞こえた気がして思わず足が止まった。


朔の隣には、真剣な目をした玲央がいた。

二人は少し離れた場所で話をしている。

聞くつもりはなかったのに、声が届いてしまう。

聞いたらダメだとわかっているのに
体が動かなかった。


いつもより低い朔の声。


「……別に…そんなつもりねぇよ」


その言葉に、胸がざわついて小さく揺れた。

玲央はしばらく朔を見て、
それから小さく息を吐く。

「ならいい」

それだけ言って歩き出した。
玲央が近付いてくる。

紬は慌てて廊下の奥へ視線を逸らした。


通り過ぎる時、一瞬だけ視線がぶつかりそうになった。

でも、玲央は何も言わず通り過ぎていった。

ただそのまま、
歩き去る玲央の背中を見送る事しかできなかった。


「……めんどくせ」

少し遅れて、小さな声。
今まで見た事がない表情の朔。



《そんなつもりねぇよ》


その一言が、妙に引っかかった。

頭に残ったのは、
玲央の真剣な表情じゃなくて

朔だった。

そしてその声は、どこか迷っているように聞こえた。



午後の授業中、紬は隣が気になって仕方なかった。

朔はいつも通り座っている。

けれど。

前みたいに
話しかけてこないし、からかってこない。

ただ、静かに教科書をみているだけ。

視線が合いそうになると、逸らされる。


……気のせい?

でも、やっぱり違う。


「…朔」

休み時間に思い切って声をかけた。


「ん?」

短い返事。

それだけで、やっぱり会話は続かない。

前なら、もう少し何か言ってきたのに。

「……」

紬は小さく息を吐いた。

そのとき。

廊下の向こうにいる玲央がこちらを見ていた。

目が合った時、
一瞬だけ空気が止まった。


でも玲央はすぐに視線を逸らし、その場を離れて行ってしまった。

何も言えるはずがなかった。


屋上の階段で話したあの日から、
玲央とは、少し気まずいままだった。



ーーそれから数日。

朔の様子はやっぱり違って、
避けられているような違和感は続いていた。

こちらから話しかければ答えるが、
それだけで、会話は続かない。


以前のように、笑わないし、からかわない。



紬はノートを見つめながら考えていた。


玲央と話している所を見かけたあの時から確実に様子がおかしい。

それまではあんなに近かったのに。

隣にいるのに、遠い。


前は、朔が何をしていても
気にすることなんてなかった。


今は、話してくれないだけで
こんなに寂しい。

目を合わせてくれないだけで
胸が落ち着かない。

「……変なの」


小さく呟いた。

自分でも気付きはじめている。

この気持ちの正体に。

でも、
まだはっきり言葉にできない。



ーー授業を終えて、
いつもの駐車場へ向かう。


「黒白」


草むらが揺れると、黒白が顔を出す。

「今日もいた」

しゃがんで背中を撫でる。

柔らかくて、暖かい。

それだけで少し安心する。


ノートを探して、ページをめくると、
新しい文字があった。


《触れても、大丈夫そう》

その下に

《よかった》

紬は、ほっとしたように少し笑った。


それからペンを持って、少し迷う。

この胸の奥のもやもやした気持ち。

うまく言葉にできない。

でも、書いてしまえれば……

《最近、避けられてる気がして寂しい》


書いた瞬間、胸がきゅっとした。

黒白が足元にすり寄ってきた。


「……俺さ」

ぽつりと呟く。

黒白は黙って、尻尾を揺らしている。

紬はノートを見つめたまま、小さく息を吐く。


「多分」

言葉が止まる。

でも、もうわかっていた。

朔が話さないだけで、
目を合わせてくれないだけで、

こんなに寂しいなんて。


《多分、好きなんだと思う》


書いた瞬間、
自分で書いた文字なのに驚いて手が止まった。

小さく書いたはずなのに、
それだけで心臓が大きく鳴った。


どくん。

胸の奥がぎゅっと痛くて、
顔が熱い。

《多分、好きなんだと思う》


あわてて消してノートを閉じた。

「……好き…なんだ…俺」

自分で言って、苦笑いした。




帰ろうとして立ち上がったとき。


「橘」

背後から聞こえたその声に、
心臓が跳ねた。


数日ぶりに名前を呼ばれたこの声。

振り向くとやっぱり……朔がいた。


ついさっき、ノートに書いた言葉が頭に浮かぶ。


《好き》

急に落ち着かなくなった。


「…何してた?」


朔が話しかけてくれた事が嬉しくて、
泣きそうになるのを抑えながら答える。

「……猫」

短くそう答えると、沈黙が落ちた。

心地よい夕方の風が吹いていて、
その音だけが辺りを包む。


朔は少しだけ視線を逸らして、
小さく息を吐いた。


「最近さ、俺…避けてた」


紬は驚いて顔を上げた。


やっぱり、避けられてたんだ……


気付いていたはずだったのに、朔の声ではっきり告げられた事実。
言葉に詰まった。

「……え」


「ごめん、ちょっと考えてて」


朔は困ったように笑う。

何も言えない紬に、朔が一歩近付く。

距離が縮んで、心臓が速くなる。


「でも、やっぱ無理」


「…え…むりって…?」

絞り出した精一杯の声で聞くと、
朔は少しだけ目を細める。


「距離」


そう言った瞬間。

ぐっと腕を引かれた。

「…え」

体が引き寄せられて、
バランスを崩して、前に倒れそうになる。


そのまま、朔の腕の中に収まった。

何が起きたのか分からないまま
朔の腕が背中に回っている。

抱きしめ…られてる?


強く。

でもどこか迷うように。

「…ごめん」

息がかかる距離。

耳元で聞こえる声は、いつもより少し低かった。



「衝動」

背中に触れる朔の腕が少しだけ震えている気がした。


どくん。

どくん。

心臓が壊れそうなくらいに鳴っていて、
朔から伝わってくる鼓動もまた、同じくらい速い。


「でも」

心臓の音を隠すみたいに朔が呟く。

「もう、無理だった…もう少しだけこのままでいて」


その声は、さっきよりも掠れていた。


離れた方がいいのか、どうしたらいいのか分からない。

でも……

離れたくない。

そんな自分の気持ちにも、朔の言葉にも応えるように、
朔のブレザーの裾を少しだけ掴んだ。


背中に回った朔の腕が、また少し強くなった。


夕方の風が静かに吹いていた。

でも紬の耳には、
自分と朔の心臓の音しか聞こえなかった。