体調が悪いことに気づかれるのは、嫌だ。
弱ってるところなんて、見せたくもない。
どうせみんな、俺の顔しか見てない。
「大丈夫?」も「かっこいい」も、
中身には触れない。
だからその日も、いつも通り笑っていた。
午後のスポーツ大会予行。
外の空気はやけに重くて、
走り出した瞬間、視界が揺れた。
寝不足と空腹。
わかってた。
でもバイトは休めない。
学校も休まない。
倒れるほど弱くない——そう思ってた。
「ちょっとサボるわ」
適当に言って背を向ける。
保健室に行こうか迷いながら、
廊下を歩いていた。
そのとき。
「お、俺も一緒に、いくよ」
振り向くと、??橘、紬…?
名前と顔は一致してる。
同じクラスで、出席番号も近い。
いつも端のほうの席で、友達は……確か一人だけ。
大人しくて、目立たなくて、
話しかけられると少し固まるタイプ。
悪い印象はない。
ただ——
俺の世界とは交わらない側の人間。
そう思っていた。
だから正直、
後ろを追いかけてきたのがこいつだってことに、少し驚いた。
目は合わない。
でも逃げもしない。
「た、体調悪そうで……心配、だったから」
息が少し上がってる。
俺を見てるわけじゃないのに、
嘘じゃないとわかる声だった。
……なんで。
俺、そんな顔してたか?
いつも通りにしてたはずだった。
「ほ、保健室まで勝手に着いていくから」
"勝手に"って。
断る元気もなかった。
誰もいない保健室。
紬は慣れてない手つきで、
でも迷わず体温計を出した。
「ちょっと熱があるね」
自分のことみたいな顔をする。
俺はベッドに横になった。
正直、助かった。
でも、それを言う余裕はなかった。
意識が落ちる直前。
また足音がした。
荒い呼吸と袋の擦れる音。
「こ、これ……起きてから食べれそうなやつでいいから」
ぼやけた視界の中、
ペットボトルの水とスポドリ。
チョコとパンとゼリー。
どれも、俺が朝から何も食ってないって
気づいてないと選ばないもの。
「朝から、無理してるみたいだったから」
……見てたのかよ。
「帰って、ゆっくり寝て」
目は合わせないくせに、
声だけはまっすぐで。
「余計なお世話だったら、ごめん」
そう言って、逃げるみたいに出ていった。
静かになった保健室で、
胸の奥がやけに騒がしかった。
——余計なお世話なんかじゃなかった。
あんなふうに、
俺を見たやつは初めてだった。
顔でもなく、人気でもない。
弱ってるところを。
情けないところを。
その日からだった。
当てられて固まる姿。
必死にノートを取る横顔。
玲央に肩を叩かれて照れる顔。
放っておけない、なんて。
そんな安い感情じゃない。
俺は——
俺を見たあいつを、
今度はちゃんと見返したかっただけだ。
なのに。
玲央が自然に触れるたび、
胸の奥がざらつく。
友達だろ。
そう自分に言い聞かせるたび、
独占欲みたいなものが喉元まで上がる。
笑ってごまかすのは得意だった。
冷めた顔も、余裕も、
全部、鎧だ。
…でも橘紬の前だと、
少しだけ外れそうになる。
あの日、礼を言えなかった。
それが、ずっと引っかかっている。
——ありがとう、なんて。
言えるわけないだろ。
俺のほうが、
先に落ちたみたいで。
ーーーあの日から。
橘紬を目で追っていた。
当てられる前から、わかる。
肩がわずかに強張る。
指先が止まる。
……まただ。
先生の視線が、後ろに向く。
橘。
名前が呼ばれた瞬間、
あいつの喉が詰まるのがわかった。
何でわかるのかは俺自身にもわからない。
教室が、静かになる。
あの空気が嫌いだ。
重くて、逃げ場がない空気。
——違う。
本当は。
あいつが固まるのを、
見ていられなかった。
気づいたら、勝手に声が出てた。
答えを、横から奪うみたいに。
視線が一斉に俺に集まる。
いつものことだ。
それなのに、今日はいつもと違った。
人の波に紛れて帰ろうとする背中を見て。
……なんで、ほっとしてんだよ。
足が止まらなかった。
「橘」
呼んだ瞬間、自分でも驚いた。
振り返った顔は、思ってたより近い。
睫毛、長いな、とか。
今そんなこと思うか?
「先生に当てられんの嫌なら」
平然とした声を出すのは、得意だ。
「前に座っとけば」
何でもない顔で余裕ぶって。
本当は。
さっき固まってた顔が、
頭から離れなかっただけなのに。
「……かばってくれた?」
その一言に、一瞬だけ呼吸が止まる。
やっぱり、見られてる?
俺の意図を。
「空気重いの嫌なだけ」
逃げるみたいに即答した。
——違う。
空気が重いのが嫌なんじゃない。
あいつが、橘紬が重くなるのが嫌だった。
「ありがとう」
目が合ったその瞬間。
思ったより、柔らかい目だと思った。
見られるのは慣れてる。
でも、こんなふうに見られたことはない。
何も言わずに逸らしたのは、
余裕があったからじゃない。
あれ以上、見られたら何か、見透かされそうだったから。
「……ちゃんと喋れんじゃん」
からかうつもりはなかった。
歩き出してから、
自分の鼓動が速いことに気づく。
……なんだこれ。
交わらないはずだった。
俺の世界と、
あいつの世界。
なのに。
気づいたら、俺のほうが
線を越えていた。
歩き出してから、
自分の鼓動が速いことに気づく。
助けたかったわけじゃない。
ヒーロー気取りでもない。
ただ、
あいつが困ってる顔を
見ていられなかった。
それだけ、のはずだったのに。
気づけば、
また探している。
教室のどこにいるか。
誰と話しているか。
目が合うかどうか。
——交わらないはずだった。
そう思っていた線は、
もう、とっくに薄くなっていた。
これって…なんなんだ。
