俺は、人と目を合わせるのが苦手だ。
でも、駐車場にいるあの猫だけは、じっと俺を見つめる。黒白の小さな体が、今日も俺を待っているみたいだった。
橘紬(たちばな・つむぎ)。高校二年。
名前の由来は、「言葉を紡ぐ人になれますように」。
でも俺は、人前でうまく言葉を紡げない。
授業中は、だいたいノートか窓の外を見ている。
視線が合った瞬間、心の奥まで覗かれる気がする。
その奥にあるものは、きっとたいしたものじゃない。
薄くて、弱くて、すぐ揺らぐ。
——だから逸らす。
見なければ、見られない。
そうやって、ずっとやり過ごしてきた。
きっかけは、中学二年の国語の授業だった。
「橘、続き読んで」
担任に当てられ席を立った瞬間、
教科書を持つ手が震えて、
自分でも分かるくらいに声が揺れて、
読み終わる前に誰かが笑った。
それ以来、人前で声を出すと喉が締まるようになった。目も、合わせられなくなった。
高校に入っても、それは変わらない。
授業で当てられると、呼吸が止まる。
「橘、ここどう思う?」
今日も、答えられなかった。
「……すみません」
ざわ、と空気が揺れる。
誰も気にしていないかもしれない。
でも、体は勝手に“怖い”を選ぶ。
チャイムが鳴ると同時に、教室を出た。
「紬、また固まってたな」
背後から呼ばれて足を止めると、玲央は心配そうに俺を見ている。
一年の春、自己紹介で声が出なかった俺の代わりに、フォローしてくれたのがきっかけで、今では俺の唯一の“友達”だ。
「今日バイト?」
「うん」
「着ぐるみ、今日なんのキャラ?」
「犬」
「似合うな」
玲央ははっと口元を抑えながら笑った。
「無理すんなよ」
ーー“頑張れ”じゃなくて、“無理すんな”。
その言葉が、少しだけ救いだった。
俺は子ども向けのキャラクターの着ぐるみのバイトをしている。中は暑く、視界は狭い。
でも、中に入れば俺じゃない。
転んでも笑われるのは“キャラ”で、俺ではない。
布一枚で、世界が変わる、俺には最高のバイトだっ た。
「また明日な」
正門の前で別れ、駅までの3分、いつも通り下を見ながら歩く。
そこまではいつも通りだったのに、今日は少し違った。
駐車場の中、植え込みの影で、何かが動いた。
反射的に足を止めると、黒と白の小さなかたまり。
「……猫?」
ちょっと……痩せてる?
目が合った瞬間、逃げるかと思ったのに、逃げずにじっと俺を見ている。
その目は、探るでも、責めるもない、ただ、生きている目。
胸の奥がふっと緩んで、そのままの距離感を保ちつつそっとしゃがんだ。
「……腹、減ってるよな」
ポケットを探ってみたけど、猫にあげられるようなものは何もなかった。
俺を見ているその目が、離れない。
——このまま帰ったら。
明日いなくなってるかもしれない。
そう思うと、足が勝手に動いた。
息を切らしながら、高校近くの駄菓子屋まで走る。
「おや、珍しいね。そんなに慌てて」
奥からおばあちゃんが顔を出したと同時に、俺は棚を見回した。
——猫のご飯なんて、あるわけ。
「あの…ここって……猫の、ごはん……売ってますか」
一瞬だけ沈黙が落ちて、聞き返されるかと思ったが、
おばあちゃんは、すぐにふっと笑った。
「ああ、あの子かい」
「最近、あの駐輪場にいるねぇ」
ーーこの人もあの猫を知っているのか?
おばあちゃんは棚の一番下を指差した。
視線を向けると、そこには小さな猫缶が数種類並んでいた。
「一個で足りるかい?」
「……分かりません」
「じゃあ二個持っていきな」
言われたまま、猫缶を二つ握ると、おばあちゃんは声を落として微笑んだ。
「優しいのねぇ、」
違うーー優しさなんかじゃない。
ただ、あの目…放っておけない。
会計を済ませると、猫のいた駐輪場まで走った。
「……いた」
さっきの場所に座ったままの猫を見て安堵した。
握りしめていたはずなのに手の中の猫缶は冷たい。
震える指で、缶を開けると、
ぱきん、という音と同時に匂いが広がった。
同時に猫の耳がピクっと動く。
慎重に近づくと、猫は少し迷ってから食べ始めた。
その音がすごく大きく聞こえて、必死に食べる姿に、喉の奥が熱くなった。
「……ゆっくり食えよ」
そう言って思わず笑っていた自分に気づく。
人前では見せない、自然な笑顔で。
猫が顔を上げた時、一瞬だけ目が合った。
逃げない。それだけで、十分だった。
明日も来よう、とは思わなかった。
ただ。
——明日も、いるといい。
それが、もう約束みたいなものだった。
でも、駐車場にいるあの猫だけは、じっと俺を見つめる。黒白の小さな体が、今日も俺を待っているみたいだった。
橘紬(たちばな・つむぎ)。高校二年。
名前の由来は、「言葉を紡ぐ人になれますように」。
でも俺は、人前でうまく言葉を紡げない。
授業中は、だいたいノートか窓の外を見ている。
視線が合った瞬間、心の奥まで覗かれる気がする。
その奥にあるものは、きっとたいしたものじゃない。
薄くて、弱くて、すぐ揺らぐ。
——だから逸らす。
見なければ、見られない。
そうやって、ずっとやり過ごしてきた。
きっかけは、中学二年の国語の授業だった。
「橘、続き読んで」
担任に当てられ席を立った瞬間、
教科書を持つ手が震えて、
自分でも分かるくらいに声が揺れて、
読み終わる前に誰かが笑った。
それ以来、人前で声を出すと喉が締まるようになった。目も、合わせられなくなった。
高校に入っても、それは変わらない。
授業で当てられると、呼吸が止まる。
「橘、ここどう思う?」
今日も、答えられなかった。
「……すみません」
ざわ、と空気が揺れる。
誰も気にしていないかもしれない。
でも、体は勝手に“怖い”を選ぶ。
チャイムが鳴ると同時に、教室を出た。
「紬、また固まってたな」
背後から呼ばれて足を止めると、玲央は心配そうに俺を見ている。
一年の春、自己紹介で声が出なかった俺の代わりに、フォローしてくれたのがきっかけで、今では俺の唯一の“友達”だ。
「今日バイト?」
「うん」
「着ぐるみ、今日なんのキャラ?」
「犬」
「似合うな」
玲央ははっと口元を抑えながら笑った。
「無理すんなよ」
ーー“頑張れ”じゃなくて、“無理すんな”。
その言葉が、少しだけ救いだった。
俺は子ども向けのキャラクターの着ぐるみのバイトをしている。中は暑く、視界は狭い。
でも、中に入れば俺じゃない。
転んでも笑われるのは“キャラ”で、俺ではない。
布一枚で、世界が変わる、俺には最高のバイトだっ た。
「また明日な」
正門の前で別れ、駅までの3分、いつも通り下を見ながら歩く。
そこまではいつも通りだったのに、今日は少し違った。
駐車場の中、植え込みの影で、何かが動いた。
反射的に足を止めると、黒と白の小さなかたまり。
「……猫?」
ちょっと……痩せてる?
目が合った瞬間、逃げるかと思ったのに、逃げずにじっと俺を見ている。
その目は、探るでも、責めるもない、ただ、生きている目。
胸の奥がふっと緩んで、そのままの距離感を保ちつつそっとしゃがんだ。
「……腹、減ってるよな」
ポケットを探ってみたけど、猫にあげられるようなものは何もなかった。
俺を見ているその目が、離れない。
——このまま帰ったら。
明日いなくなってるかもしれない。
そう思うと、足が勝手に動いた。
息を切らしながら、高校近くの駄菓子屋まで走る。
「おや、珍しいね。そんなに慌てて」
奥からおばあちゃんが顔を出したと同時に、俺は棚を見回した。
——猫のご飯なんて、あるわけ。
「あの…ここって……猫の、ごはん……売ってますか」
一瞬だけ沈黙が落ちて、聞き返されるかと思ったが、
おばあちゃんは、すぐにふっと笑った。
「ああ、あの子かい」
「最近、あの駐輪場にいるねぇ」
ーーこの人もあの猫を知っているのか?
おばあちゃんは棚の一番下を指差した。
視線を向けると、そこには小さな猫缶が数種類並んでいた。
「一個で足りるかい?」
「……分かりません」
「じゃあ二個持っていきな」
言われたまま、猫缶を二つ握ると、おばあちゃんは声を落として微笑んだ。
「優しいのねぇ、」
違うーー優しさなんかじゃない。
ただ、あの目…放っておけない。
会計を済ませると、猫のいた駐輪場まで走った。
「……いた」
さっきの場所に座ったままの猫を見て安堵した。
握りしめていたはずなのに手の中の猫缶は冷たい。
震える指で、缶を開けると、
ぱきん、という音と同時に匂いが広がった。
同時に猫の耳がピクっと動く。
慎重に近づくと、猫は少し迷ってから食べ始めた。
その音がすごく大きく聞こえて、必死に食べる姿に、喉の奥が熱くなった。
「……ゆっくり食えよ」
そう言って思わず笑っていた自分に気づく。
人前では見せない、自然な笑顔で。
猫が顔を上げた時、一瞬だけ目が合った。
逃げない。それだけで、十分だった。
明日も来よう、とは思わなかった。
ただ。
——明日も、いるといい。
それが、もう約束みたいなものだった。


