第9話 遅すぎた「ありがとう」
それから一週間。后宮の空気は、潮の向きが変わったように変わった。回廊の陰の囁きは途切れ、キャリーの前を歩く女官たちは、靴音を揃えようとする。揃え方が不自然で、ノエミが肩をすくめた。
キャリーは離れから正殿の部屋へ移った。窓は同じ北海を映すのに、部屋の中央に火の気があるだけで、風の冷たさが違う。
引っ越しの荷が運び込まれた夜、ポポフが大きな箱を抱えて現れた。ひとつではない。二つ、三つ、四つ。毛布、手袋、塩漬けスープ、航海用の防寒靴下。箱が積み上がり、最後に小さな札がひらりと落ちた。
「感謝箱・一号」
ノエミの字だ。ポポフの耳が赤くなり、彼は札を拾って裏返そうとして、逆に表にしてしまった。
キャリーは堪えきれず笑った。笑うと同時に、胸が熱くなり、目が滲む。
「こんなに……持ちきれません」
「持てとは言ってない」
ポポフは即答し、すぐに自分で咳払いをした。命令口調が出るたび、彼は自分の袖口を引っ張る癖がある。
ノエミがわざとらしく箱を数え始める。
「二号、三号、四号……。正妃さま、札が足りません」
「足りなくていい」
ポポフが言い、ノエミが「はい」とだけ返す。二人の短いやりとりが、妙に息が合っていて、キャリーはまた笑った。
夜更け、廊下の灯が落ち着いたころ、ポポフは正殿の窓辺に立った。外は波音が穏やかで、春の匂いが混じっている。
「……あの夜」
彼は言いかけて、手のひらを握りしめた。
「ありがとう」
たった四文字なのに、声が少し掠れた。
キャリーはその言葉を受け取って、初めて自分から頼んだ。
「明日の朝、海まで一緒に歩いてください」
ポポフは驚いたように瞬きをし、すぐに頷いた。返事は短いのに、頷きが深い。
キャリーは窓の外の暗い海を見つめ、胸の奥で何かがほどける音を聞いた。
正殿の部屋に移ってから、キャリーの食卓には必ず二人分の食器が並ぶようになった。最初の日、キャリーはその二人分を見て、思わず皿の数を数え直した。ノエミが肩をすくめる。
「数える必要はありません。足りないなら、私が足します」
「足りないなら……」
キャリーが笑うと、ノエミは小さく鼻を鳴らした。叱っているのか笑っているのか、分からない。
后宮の女官たちは、急に丁寧になった。歩くときの距離、頭を下げる角度、声の高さ。丁寧すぎて、逆にくすぐったい。キャリーが「大丈夫です」と言うと、女官が「はいっ」と跳ねるように返事をした。ノエミが小声で囁く。
「いまの返事は、反省ではなく、恐怖です」
「恐怖で丁寧になるなら……」
「次は、慣れて雑になります」
ノエミの予告が妙に現実的で、キャリーは声を殺して笑った。
ポポフは箱を積み終えると、しばらく箱の山を見つめていた。まるで、どの箱にどの言葉を入れたか忘れたみたいに。キャリーが指輪の話を切り出そうとすると、彼は先に言った。
「港の人間が、お前の名を覚えた。……俺の部下が助かった」
感謝の言い方が、どうしても報告になる。キャリーはそれを咎めず、ゆっくり頷いた。
「港の人が動いたからです。私は、間隔を言っただけ」
「それが、必要だった」
ポポフは短く言い、指先で箱の角を撫でた。礼状を丁寧に仕舞う指と同じ動きだった。
夜更けの「ありがとう」のあと、キャリーは胸の中で何度もその四文字を転がした。転がすたび、角が丸くなる。丸くなると、飲み込める。
「明日の朝、海まで」
頼む言葉が言えたことが、キャリーには奇跡みたいだった。奇跡は派手ではなく、箱の山みたいに静かに積もるのだと、彼女は思った。
箱の山の中に、キャリーは小さな布袋を見つけた。開くと、港の塩を練り込んだ飴が入っている。航海のとき、喉を守るために舐めるものだとノエミが教えてくれた。
「甘いのに、しょっぱい」
キャリーが呟くと、ポポフが小さく頷く。
「北海は、そういう味がする」
たったそれだけの会話なのに、二人の間に椅子が一脚増えたみたいに感じた。
キャリーは夜、机に向かい、今度は便箋に「ありがとうございます」と書いた。書いてみると、字が思ったより震えている。彼女は一度折り、封をせずに引き出しへしまった。言葉は紙に置けた。次は声に置けるだろうか。
翌朝の準備をしながら、ノエミがわざと大げさに言った。
「海まで歩くなら、転ばない靴を。正妃さま、今度倒れたら、私は本気で叱ります」
キャリーが「はい」と返すと、ポポフが小さく「俺も」と付け足した。ノエミが袖を直し直して、何も聞かなかった顔をした。
キャリーはその言葉を聞き、胸の奥で便箋の封が少しだけ固くなった気がした。
窓の外で潮が引く気配がし、キャリーは明日の石畳を想像した。並んで歩く足音が、波音の代わりに数えられるような気がした。
小さな二歩が、今日の大きな一歩になる。
【続】
それから一週間。后宮の空気は、潮の向きが変わったように変わった。回廊の陰の囁きは途切れ、キャリーの前を歩く女官たちは、靴音を揃えようとする。揃え方が不自然で、ノエミが肩をすくめた。
キャリーは離れから正殿の部屋へ移った。窓は同じ北海を映すのに、部屋の中央に火の気があるだけで、風の冷たさが違う。
引っ越しの荷が運び込まれた夜、ポポフが大きな箱を抱えて現れた。ひとつではない。二つ、三つ、四つ。毛布、手袋、塩漬けスープ、航海用の防寒靴下。箱が積み上がり、最後に小さな札がひらりと落ちた。
「感謝箱・一号」
ノエミの字だ。ポポフの耳が赤くなり、彼は札を拾って裏返そうとして、逆に表にしてしまった。
キャリーは堪えきれず笑った。笑うと同時に、胸が熱くなり、目が滲む。
「こんなに……持ちきれません」
「持てとは言ってない」
ポポフは即答し、すぐに自分で咳払いをした。命令口調が出るたび、彼は自分の袖口を引っ張る癖がある。
ノエミがわざとらしく箱を数え始める。
「二号、三号、四号……。正妃さま、札が足りません」
「足りなくていい」
ポポフが言い、ノエミが「はい」とだけ返す。二人の短いやりとりが、妙に息が合っていて、キャリーはまた笑った。
夜更け、廊下の灯が落ち着いたころ、ポポフは正殿の窓辺に立った。外は波音が穏やかで、春の匂いが混じっている。
「……あの夜」
彼は言いかけて、手のひらを握りしめた。
「ありがとう」
たった四文字なのに、声が少し掠れた。
キャリーはその言葉を受け取って、初めて自分から頼んだ。
「明日の朝、海まで一緒に歩いてください」
ポポフは驚いたように瞬きをし、すぐに頷いた。返事は短いのに、頷きが深い。
キャリーは窓の外の暗い海を見つめ、胸の奥で何かがほどける音を聞いた。
正殿の部屋に移ってから、キャリーの食卓には必ず二人分の食器が並ぶようになった。最初の日、キャリーはその二人分を見て、思わず皿の数を数え直した。ノエミが肩をすくめる。
「数える必要はありません。足りないなら、私が足します」
「足りないなら……」
キャリーが笑うと、ノエミは小さく鼻を鳴らした。叱っているのか笑っているのか、分からない。
后宮の女官たちは、急に丁寧になった。歩くときの距離、頭を下げる角度、声の高さ。丁寧すぎて、逆にくすぐったい。キャリーが「大丈夫です」と言うと、女官が「はいっ」と跳ねるように返事をした。ノエミが小声で囁く。
「いまの返事は、反省ではなく、恐怖です」
「恐怖で丁寧になるなら……」
「次は、慣れて雑になります」
ノエミの予告が妙に現実的で、キャリーは声を殺して笑った。
ポポフは箱を積み終えると、しばらく箱の山を見つめていた。まるで、どの箱にどの言葉を入れたか忘れたみたいに。キャリーが指輪の話を切り出そうとすると、彼は先に言った。
「港の人間が、お前の名を覚えた。……俺の部下が助かった」
感謝の言い方が、どうしても報告になる。キャリーはそれを咎めず、ゆっくり頷いた。
「港の人が動いたからです。私は、間隔を言っただけ」
「それが、必要だった」
ポポフは短く言い、指先で箱の角を撫でた。礼状を丁寧に仕舞う指と同じ動きだった。
夜更けの「ありがとう」のあと、キャリーは胸の中で何度もその四文字を転がした。転がすたび、角が丸くなる。丸くなると、飲み込める。
「明日の朝、海まで」
頼む言葉が言えたことが、キャリーには奇跡みたいだった。奇跡は派手ではなく、箱の山みたいに静かに積もるのだと、彼女は思った。
箱の山の中に、キャリーは小さな布袋を見つけた。開くと、港の塩を練り込んだ飴が入っている。航海のとき、喉を守るために舐めるものだとノエミが教えてくれた。
「甘いのに、しょっぱい」
キャリーが呟くと、ポポフが小さく頷く。
「北海は、そういう味がする」
たったそれだけの会話なのに、二人の間に椅子が一脚増えたみたいに感じた。
キャリーは夜、机に向かい、今度は便箋に「ありがとうございます」と書いた。書いてみると、字が思ったより震えている。彼女は一度折り、封をせずに引き出しへしまった。言葉は紙に置けた。次は声に置けるだろうか。
翌朝の準備をしながら、ノエミがわざと大げさに言った。
「海まで歩くなら、転ばない靴を。正妃さま、今度倒れたら、私は本気で叱ります」
キャリーが「はい」と返すと、ポポフが小さく「俺も」と付け足した。ノエミが袖を直し直して、何も聞かなかった顔をした。
キャリーはその言葉を聞き、胸の奥で便箋の封が少しだけ固くなった気がした。
窓の外で潮が引く気配がし、キャリーは明日の石畳を想像した。並んで歩く足音が、波音の代わりに数えられるような気がした。
小さな二歩が、今日の大きな一歩になる。
【続】


