潮騒の指輪と、言えなかった「ありがとう」

第7話 倒れた正妃と、閉じられた瞳

 救助が終わった直後、キャリーの足がふらりと折れた。寒さと疲れが、遅れて体を掴みに来たのだ。ノエミが駆け寄り、肩を支える。
 「……いま叱れません。倒れてください」
 叱り方が変だ、とキャリーが笑いかけたところで、視界が白く飛んだ。

 医務室の寝台に運ばれ、キャリーは目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返した。頬に残る潮の冷たさが、夢の中まで追ってくる。
 ポポフは濡れた軍服のまま椅子に座り、キャリーの手を握った。手袋を外すと、指先が赤く腫れている。灯を運んだ指だ。
 医師が囁く。
 「凍えです。熱も出ますが、命に別状はありません」
 ポポフは頷き、言葉を選ぶ前に報告口調が出てしまった。
 「帰還を確認した。以上」
 自分で言って、自分で黙った。隣にいた看護兵が、笑うべきか敬礼すべきか迷って固まる。ポポフは咳払いをし、キャリーの手を握り直した。

 寝台の脇で、ノエミが薬草の袋を入れ替えた。手際が良すぎて、怒りが混じっている。
 「正妃さまの熱が下がるまで、毛布を増やします。箱が増えたら、札も増えます」
 ポポフは返事をしようとして、喉が詰まった。

 同じころ、グンナーは港の点検記録を机いっぱいに広げていた。封印蝋の交換日、倉庫の鍵の受け渡し、夜間の門番の交代。鉛筆の先が、ある一点で止まる。
 「偶然ではない」
 彼はそう呟き、次の紙をめくった。

 窓の外では、嵐が少しだけ弱まっていた。けれど医務室の中では、ポポフの胸の方がまだ荒れていた。キャリーの閉じた瞳に向かって、彼は声にならない言葉を何度も並べた。最後に残ったのは、短くて、言いそびれ続けた一語だった。
 キャリーがうなされて小さく身じろぎすると、ポポフは反射で布団を直した。軍の野営で、凍えた兵の布を直す手つきと同じだ。寝台の横に置かれた濡れた外套を見て、彼は眉を寄せる。
 「外套を替えろ」
 命令が出た。看護兵が慌てて頷く。ポポフは自分の口調に気づき、続けて言うべき言葉を探して黙る。
 ノエミが静かに外套を持ち上げ、床に落ちた小さな鈴を拾った。濡れても鳴る鈴だ。
 「正妃さまが拾ったものです。……港で泣いていた子が落としました」
 ポポフは鈴を見つめ、何かを言いかけたが、代わりに頷いた。

 医師が湯を替え、額の布を濡らし直す。キャリーの睫毛が震え、唇がかすかに動く。
 「……灯……」
 夢の中でも港を見ている。ポポフの胸がきゅっと縮み、彼はキャリーの手を強く握りそうになって、慌てて力を抜いた。痛ませるのが怖い。守りたいのに、触れ方が分からない。

 夜が明けるころ、グンナーが医務室の扉の外で立ち止まった。入るべきか迷い、結局、扉をノックせずに報告を通す。
 「倉庫の鍵穴に水を流した跡。后宮の厨房で使う油布と同じ繊維が付着。……后宮側が港へ手を伸ばした可能性」
 ポポフの声が低く返る。
 「名を出せ」
 「まだ早い」
 「早い、で逃げるな」
 「逃げません。ただ、間違えれば守るべき人を刺します」
 グンナーは淡々と言い切り、足音を遠ざけた。

 ポポフは窓の外を見た。港の合図灯が、今は点いている。四年前に消えた灯を、今夜は誰かが繋いだ。握っている手の先に、その“誰か”がいる。ポポフは唇を開き、今度こそ声を落とした。
 「……ありがとう」
 キャリーは眠ったままだったが、指先がわずかに動いた。返事の代わりみたいで、ポポフは息を吐いた。
 夜通し付き添ったポポフに、ノエミが盆を差し出した。温い粥だ。ポポフは首を振る。
 「食べる時間はない」
 ノエミは盆を引かず、淡々と言った。
 「時間は作れます。胃が空だと、命令が荒くなります」
 看護兵が思わず肩を震わせる。ポポフは反論しようとして、否定できずに匙を取った。粥は思ったより熱く、彼は舌を少しやけどした顔になる。
 ノエミはその顔を見て、ほんの一瞬だけ満足そうに目を伏せた。

 窓の外が明るくなったころ、キャリーの指先が再び動いた。今度は、ポポフの指を探るように。ポポフは動けず、ただ握り返した。握り返し方だけは、言葉より先に覚えていた。
 昼過ぎ、キャリーが一瞬だけ目を開けた。焦点は合っていないのに、ポポフの姿だけは捉えたらしく、唇が動く。
 「……箱……?」
 ポポフは思わず「箱じゃない」と返し、すぐに自分で首を振った。キャリーはまた目を閉じたが、口元がほんの少しだけ上がっていた。
 ポポフはその小さな笑みを見て、胸の奥の荒れが少しだけ静まるのを感じた。波は止まらないが、向きは変えられる。
 キャリーが再び眠りに落ちる前、ポポフは彼女の指先へそっと唇を近づけ、触れない距離で止めた。触れずに守ることしか、まだできなかった。
 その距離が、いつか言葉になる日を、彼は待った。
 波の音が、返事のように続いた。
 ポポフはその音に合わせて息を吐き、握る手の力だけを、少しだけ確かにした。
【続】