第6話 嵐の夜、港が灯を並べる
その夜、北海は本気で荒れた。風が城壁を殴り、雨が横から刺す。港からは鐘の連打が聞こえ、松明の列が揺れていた。
「合図灯が消えた!」
廊下を駆ける足音が響く。港務官が王城へ駆け込み、声を枯らして報告した。
「燃料の倉庫が封印され、開きません。港務印が……ないのです!」
キャリーの胸に、潮の泡の中で跳ねた金色が浮かんだ。欠けた縁。あの刻印。――港務印。
「預かっている方が、います」
彼女はそう言って外套を掴み、ノエミに目だけで合図した。ノエミは叱らず、手早く紐を結び直し、湯たんぽの代わりに小さな火打石を渡した。
「足元、滑ります。……無理は、後で叱ります」
回廊の角で、ちょうどグンナーが戻ってきた。雨の匂いのする外套のまま、彼は短く頷く。
「港務印の件ですね」
白布で包んだ金色が、彼の掌にほんの少しだけ覗いた。キャリーは一拍だけ息を呑み、すぐに頷き返した。
「港へ行きます。灯の代わりを作りたいんです」
港へ降りる階段は濡れていた。キャリーは炊き出し場で顔を覚えてくれた漁師たちを探し、雨の中で声を張った。
「灯を貸してください。手提げ灯でも、火鉢でも。防波堤に、十歩おきに並べたいんです」
「正妃さまが、そんなことを?」
漁師の一人が目を丸くしたが、次の瞬間、炊き出し場で湯を注いだ手を思い出したのか、頷いた。
「やる。やるが、波が高いぞ」
「高いから、必要なんです」
近衛が現れ、グンナーが短い指示を飛ばす。
「走るな。灯は二人で持て。火皿は風下へ向けろ」
兵たちが人垣を作り、漁師が灯を運び、キャリーが間隔を測る。十歩、十歩。灯が一本の線になっていく。
海上では、帰港できない艦が黒い波に揉まれていた。ポポフは港の端で号令をかけ、声が雨に掻き消されないよう喉を裂く。
「灯の列を辿れ! 波を読むな、灯を読め!」
その視線の先で、灯の道が闇を割った。船影がゆっくりと近づき、ついに防波堤の内側へ滑り込む。歓声が上がり、同時に誰かが泣いた。
ポポフは拳を握りしめたまま、ふと、灯の列の中心に立つキャリーを見つけた。外套が雨で貼りつき、髪が頬に張り付いているのに、彼女は灯の間隔を崩さない。ポポフの胸に、四年前にはなかった光が灯った。
倉庫の前に着くと、封印蝋が割られていないのに、鍵穴だけが不自然に濡れていた。油の匂いが混じる。誰かが鍵穴に水を流し、凍らせ、鍵を回らなくしたのだと港務官が説明した。
「封印は生きています。だが鍵が死んでいる」
言い方が詩みたいで、キャリーは一瞬だけ眉を動かした。港務官は自分の比喩に気づいていない顔をしている。
グンナーが白布包みをほどき、金色のリングを封印蝋の上へそっとかざした。欠けた縁が、松明の火で一瞬だけ光る。
キャリーは封印蝋の刻印を指先でなぞり、港務官へ淡々と言った。
「この刻印です。倉庫の責任者の交代、燃料の受け取り、夜間点灯の引き継ぎ――全部、ここで決まる。だから狙われたんです」
「開けましょう。封印を壊すのではなく、封印の意味を戻します」
キャリーが言うと、港務官は目を見開いた。
「正妃さまが……?」
「港の灯が消えれば、船が帰れません」
その一言で、港務官は膝を折りかけた。グンナーが咳払いをし、港務官は慌てて立ち直る。
倉庫から燃料缶が運び出され、合図灯へ向かう兵が走った。だが嵐の風が強すぎて、灯台だけでは足りない。キャリーは防波堤の先を見た。闇が厚い。船は闇の厚さに迷う。
「灯の線を、地面に引きましょう」
彼女は漁師に向き直り、具体的に指示を続けた。
「火鉢は、砂の上に置かないで。木板を敷いて。手提げ灯は、風上から守って。灯の高さを揃えると、海から見て一本になります」
漁師は「やることが細かいな」と笑いながら、言われた通り動いた。細かさが、恐怖を押しのける。
灯の列が伸びるにつれ、港の人の声が揃っていく。誰かが数を取る。
「十歩、二十歩、三十歩!」
キャリーはその声を聞きながら、自分の胸の鼓動も同じ間隔に合わせた。波の音を数える癖が、今夜は人の足音を数える癖に変わっていた。
防波堤へ灯を運ぶ途中、キャリーは濡れた石で足を滑らせた。転びかけた肩を、漁師が肘で支える。
「危ねえ! 正妃さま、海は礼儀を知らねえぞ」
「海が礼儀を知っていたら、嵐が困ります」
キャリーが息を切らしながら返すと、漁師は一瞬きょとんとして、次に大笑いした。笑いが出ると、足が動く。灯も動く。
十歩の間隔を測る係の若者が、雨の中で叫ぶ。
「正妃さま、俺の歩幅、短いんですけど!」
「それなら十二歩で。大事なのは一定です」
キャリーが即答すると、若者は「了解!」と叫び、なぜか誇らしげに十二歩を刻み始めた。嵐の中の小さな笑いが、灯の道を折れにくくした。
灯が点き、船が戻った瞬間、港務官がリングを見て息を呑んだ。
「本物だ……」
その呟きに、ポポフの視線がキャリーへ吸い寄せられた。雨に貼りついた外套のまま、彼女は間隔を崩さない。ポポフは何か言いかけ、結局、号令の声をもう一度張り上げた。言葉はまだ、港の方が先だった。
キャリーは濡れた髪を払うと、灯の列を最後まで見届けた。灯が消えない限り、今日の笑いも消えない、と心の中で言った。
【続】
その夜、北海は本気で荒れた。風が城壁を殴り、雨が横から刺す。港からは鐘の連打が聞こえ、松明の列が揺れていた。
「合図灯が消えた!」
廊下を駆ける足音が響く。港務官が王城へ駆け込み、声を枯らして報告した。
「燃料の倉庫が封印され、開きません。港務印が……ないのです!」
キャリーの胸に、潮の泡の中で跳ねた金色が浮かんだ。欠けた縁。あの刻印。――港務印。
「預かっている方が、います」
彼女はそう言って外套を掴み、ノエミに目だけで合図した。ノエミは叱らず、手早く紐を結び直し、湯たんぽの代わりに小さな火打石を渡した。
「足元、滑ります。……無理は、後で叱ります」
回廊の角で、ちょうどグンナーが戻ってきた。雨の匂いのする外套のまま、彼は短く頷く。
「港務印の件ですね」
白布で包んだ金色が、彼の掌にほんの少しだけ覗いた。キャリーは一拍だけ息を呑み、すぐに頷き返した。
「港へ行きます。灯の代わりを作りたいんです」
港へ降りる階段は濡れていた。キャリーは炊き出し場で顔を覚えてくれた漁師たちを探し、雨の中で声を張った。
「灯を貸してください。手提げ灯でも、火鉢でも。防波堤に、十歩おきに並べたいんです」
「正妃さまが、そんなことを?」
漁師の一人が目を丸くしたが、次の瞬間、炊き出し場で湯を注いだ手を思い出したのか、頷いた。
「やる。やるが、波が高いぞ」
「高いから、必要なんです」
近衛が現れ、グンナーが短い指示を飛ばす。
「走るな。灯は二人で持て。火皿は風下へ向けろ」
兵たちが人垣を作り、漁師が灯を運び、キャリーが間隔を測る。十歩、十歩。灯が一本の線になっていく。
海上では、帰港できない艦が黒い波に揉まれていた。ポポフは港の端で号令をかけ、声が雨に掻き消されないよう喉を裂く。
「灯の列を辿れ! 波を読むな、灯を読め!」
その視線の先で、灯の道が闇を割った。船影がゆっくりと近づき、ついに防波堤の内側へ滑り込む。歓声が上がり、同時に誰かが泣いた。
ポポフは拳を握りしめたまま、ふと、灯の列の中心に立つキャリーを見つけた。外套が雨で貼りつき、髪が頬に張り付いているのに、彼女は灯の間隔を崩さない。ポポフの胸に、四年前にはなかった光が灯った。
倉庫の前に着くと、封印蝋が割られていないのに、鍵穴だけが不自然に濡れていた。油の匂いが混じる。誰かが鍵穴に水を流し、凍らせ、鍵を回らなくしたのだと港務官が説明した。
「封印は生きています。だが鍵が死んでいる」
言い方が詩みたいで、キャリーは一瞬だけ眉を動かした。港務官は自分の比喩に気づいていない顔をしている。
グンナーが白布包みをほどき、金色のリングを封印蝋の上へそっとかざした。欠けた縁が、松明の火で一瞬だけ光る。
キャリーは封印蝋の刻印を指先でなぞり、港務官へ淡々と言った。
「この刻印です。倉庫の責任者の交代、燃料の受け取り、夜間点灯の引き継ぎ――全部、ここで決まる。だから狙われたんです」
「開けましょう。封印を壊すのではなく、封印の意味を戻します」
キャリーが言うと、港務官は目を見開いた。
「正妃さまが……?」
「港の灯が消えれば、船が帰れません」
その一言で、港務官は膝を折りかけた。グンナーが咳払いをし、港務官は慌てて立ち直る。
倉庫から燃料缶が運び出され、合図灯へ向かう兵が走った。だが嵐の風が強すぎて、灯台だけでは足りない。キャリーは防波堤の先を見た。闇が厚い。船は闇の厚さに迷う。
「灯の線を、地面に引きましょう」
彼女は漁師に向き直り、具体的に指示を続けた。
「火鉢は、砂の上に置かないで。木板を敷いて。手提げ灯は、風上から守って。灯の高さを揃えると、海から見て一本になります」
漁師は「やることが細かいな」と笑いながら、言われた通り動いた。細かさが、恐怖を押しのける。
灯の列が伸びるにつれ、港の人の声が揃っていく。誰かが数を取る。
「十歩、二十歩、三十歩!」
キャリーはその声を聞きながら、自分の胸の鼓動も同じ間隔に合わせた。波の音を数える癖が、今夜は人の足音を数える癖に変わっていた。
防波堤へ灯を運ぶ途中、キャリーは濡れた石で足を滑らせた。転びかけた肩を、漁師が肘で支える。
「危ねえ! 正妃さま、海は礼儀を知らねえぞ」
「海が礼儀を知っていたら、嵐が困ります」
キャリーが息を切らしながら返すと、漁師は一瞬きょとんとして、次に大笑いした。笑いが出ると、足が動く。灯も動く。
十歩の間隔を測る係の若者が、雨の中で叫ぶ。
「正妃さま、俺の歩幅、短いんですけど!」
「それなら十二歩で。大事なのは一定です」
キャリーが即答すると、若者は「了解!」と叫び、なぜか誇らしげに十二歩を刻み始めた。嵐の中の小さな笑いが、灯の道を折れにくくした。
灯が点き、船が戻った瞬間、港務官がリングを見て息を呑んだ。
「本物だ……」
その呟きに、ポポフの視線がキャリーへ吸い寄せられた。雨に貼りついた外套のまま、彼女は間隔を崩さない。ポポフは何か言いかけ、結局、号令の声をもう一度張り上げた。言葉はまだ、港の方が先だった。
キャリーは濡れた髪を払うと、灯の列を最後まで見届けた。灯が消えない限り、今日の笑いも消えない、と心の中で言った。
【続】


