第5話 勘違いだらけの“感謝箱”
翌朝、執務室の机に積まれた報告書の上で、ポポフの指が止まった。
「正妃が港務印を所持。近衛隊長が確認」
短い文が、やけに重い。ポポフは紙を握り、角がわずかに折れた。
四年前の夜が、窓の外の波音と重なる。港の合図灯が消え、艦船が暗闇で岩に寄り、助けを求める声が風にちぎれた。助けられなかった部下の名を、彼は今でも書類の端で指なぞる癖がある。あの手口がまた動くなら、誰が味方で誰が敵か、迷っている暇はない。
けれど、妻の顔が頭をよぎる。儀礼の間で目を上げたとき、彼女は笑っていた。――笑っていたのに、どこにも寄りかからなかった。
ポポフは立ち上がり、離れへ向かった。扉の前で、ノックの回数を迷う。三回だと硬すぎる。二回だと軽すぎる。結局、拳が宙で止まり、音にならない。
扉が開き、キャリーが立っていた。外套を着ていないのに、背筋が崩れていない。
ポポフは言葉を探した。疑いを口にすれば、彼女の足元の床が抜ける。口を閉じれば、港の灯が抜ける。
「……寒いだろう」
出てきたのはそれだけだった。彼は分厚い毛布の箱を床に置き、視線を上げられないまま踵を返した。
廊下の角を曲がったところで、ポポフは自分の胸元を叩いた。そこにあるはずの言葉が、また出てこない。代わりに箱が増える。手袋、塩漬け肉、乾いた靴下。贈り物なら、命令よりは柔らかいと思っている。
離れの机の端で、ノエミが小さな札を書いた。墨が乾く前に、紙を軽く振る。
「感謝箱・一号」
札は箱の角に貼られ、キャリーには見えない位置に控えめに置かれた。ノエミは口元を隠すように咳払いをし、何もなかった顔で湯を沸かし直した。
キャリーは毛布の箱を眺め、指先で角を撫でた。温かいものが届くたび、胸の奥が少しだけ痛む。謝りたいのか、疑っているのか。どちらでもないなら、何を言えばいいのか。彼女は毛布を抱え、窓の外の港へ目を向けた。
離れを出たポポフは、回廊の途中でグンナーとすれ違った。グンナーは敬礼し、声を落とす。
「正妃は、港務印を拾っただけに見えます」
「見える、で済ませるな」
ポポフの声は硬いが、歩幅が少しだけ遅い。グンナーはそれに気づき、言葉を選ぶ。
「拾った場所は城壁の下の岩場。投げ捨てられた可能性が高い。捨てた者は、証拠を消したい」
「……なら、なぜ正妃の足元へ行く」
「潮は、選びません」
グンナーの返事はそれだけだった。余計な慰めがないのに、妙に胸に残る。
ポポフは執務室へ戻り、机の引き出しを開けた。礼状の束がある。港の漁師からの礼、救助された船主からの礼、軍の部下からの報告。彼はそれを丁寧に揃え、また閉めた。礼を受け取るくせに、礼を言うのが遅い。自分で分かっているのに、直せない。
その夜、離れには毛布の箱のほかに、手袋がもう一組届いた。箱の中に小さな紙が入っている。「指先を冷やすな」。命令の形をした気遣いだ。
キャリーは紙を指で撫で、声に出さずに笑った。笑ってしまった自分に、少しだけ腹が立つ。腹が立つのに、紙を捨てられない。
「ありがとう」と言えばいいのか、「疑わないで」と言えばいいのか。言葉の棚が頭の中に並ぶのに、どれも手が届かない。
ノエミはその様子を見て、箱の札をもう一枚書き足した。二号ではない。わざと小さく、箱の裏に貼る。
「感謝箱・増量」
キャリーに見せない笑いが、後宮の冷たい空気の中で小さく弾けた。
ポポフは執務室で、一人になった瞬間、机の引き出しから紙切れを出した。そこには大きな字で「ありがとう」と書いてある。書いたのは昨夜だ。書けたのに、言えない。
彼は紙を握りつぶし、また広げ、結局引き出しに戻した。礼状の束の横に、恥ずかしそうに押し込む。
そこへグンナーが入ってきて敬礼した。ポポフは咄嗟に引き出しを閉め、何事もなかった顔で言う。
「捜査は」
グンナーは机の角の紙の端を見たが、見なかったことにした。
「進んでいます。……港の灯は、今は点いています」
ポポフは「そうか」とだけ返し、胸の奥で紙切れの角が刺さるのを感じた。
キャリーは毛布を畳み直し、箱の底に落ちていた札の端を見つけた。表には何も書かれていない。けれど裏に、薄く墨の跡があった。書いて、消して、また書いた跡だ。キャリーは札をそっと戻し、何も見なかったふりをした。見なかったふりが、いまは優しさになる気がした。
窓の外で合図灯が淡く揺れ、キャリーは毛布の端を握った。箱の中身より、置かれた時間の方が温かかった。
夜、廊下でポポフの足音が一度だけ止まり、また去っていった。扉は叩かれない。けれど足音の迷いが、言葉の代わりに残った。
キャリーは扉に手を当て、触れずに「おやすみ」を置いた。
波の向こうで、灯が揺れていた。
キャリーはその揺れに合わせ、まだ言えない礼を胸の中で一度だけ転がした。
【続】
翌朝、執務室の机に積まれた報告書の上で、ポポフの指が止まった。
「正妃が港務印を所持。近衛隊長が確認」
短い文が、やけに重い。ポポフは紙を握り、角がわずかに折れた。
四年前の夜が、窓の外の波音と重なる。港の合図灯が消え、艦船が暗闇で岩に寄り、助けを求める声が風にちぎれた。助けられなかった部下の名を、彼は今でも書類の端で指なぞる癖がある。あの手口がまた動くなら、誰が味方で誰が敵か、迷っている暇はない。
けれど、妻の顔が頭をよぎる。儀礼の間で目を上げたとき、彼女は笑っていた。――笑っていたのに、どこにも寄りかからなかった。
ポポフは立ち上がり、離れへ向かった。扉の前で、ノックの回数を迷う。三回だと硬すぎる。二回だと軽すぎる。結局、拳が宙で止まり、音にならない。
扉が開き、キャリーが立っていた。外套を着ていないのに、背筋が崩れていない。
ポポフは言葉を探した。疑いを口にすれば、彼女の足元の床が抜ける。口を閉じれば、港の灯が抜ける。
「……寒いだろう」
出てきたのはそれだけだった。彼は分厚い毛布の箱を床に置き、視線を上げられないまま踵を返した。
廊下の角を曲がったところで、ポポフは自分の胸元を叩いた。そこにあるはずの言葉が、また出てこない。代わりに箱が増える。手袋、塩漬け肉、乾いた靴下。贈り物なら、命令よりは柔らかいと思っている。
離れの机の端で、ノエミが小さな札を書いた。墨が乾く前に、紙を軽く振る。
「感謝箱・一号」
札は箱の角に貼られ、キャリーには見えない位置に控えめに置かれた。ノエミは口元を隠すように咳払いをし、何もなかった顔で湯を沸かし直した。
キャリーは毛布の箱を眺め、指先で角を撫でた。温かいものが届くたび、胸の奥が少しだけ痛む。謝りたいのか、疑っているのか。どちらでもないなら、何を言えばいいのか。彼女は毛布を抱え、窓の外の港へ目を向けた。
離れを出たポポフは、回廊の途中でグンナーとすれ違った。グンナーは敬礼し、声を落とす。
「正妃は、港務印を拾っただけに見えます」
「見える、で済ませるな」
ポポフの声は硬いが、歩幅が少しだけ遅い。グンナーはそれに気づき、言葉を選ぶ。
「拾った場所は城壁の下の岩場。投げ捨てられた可能性が高い。捨てた者は、証拠を消したい」
「……なら、なぜ正妃の足元へ行く」
「潮は、選びません」
グンナーの返事はそれだけだった。余計な慰めがないのに、妙に胸に残る。
ポポフは執務室へ戻り、机の引き出しを開けた。礼状の束がある。港の漁師からの礼、救助された船主からの礼、軍の部下からの報告。彼はそれを丁寧に揃え、また閉めた。礼を受け取るくせに、礼を言うのが遅い。自分で分かっているのに、直せない。
その夜、離れには毛布の箱のほかに、手袋がもう一組届いた。箱の中に小さな紙が入っている。「指先を冷やすな」。命令の形をした気遣いだ。
キャリーは紙を指で撫で、声に出さずに笑った。笑ってしまった自分に、少しだけ腹が立つ。腹が立つのに、紙を捨てられない。
「ありがとう」と言えばいいのか、「疑わないで」と言えばいいのか。言葉の棚が頭の中に並ぶのに、どれも手が届かない。
ノエミはその様子を見て、箱の札をもう一枚書き足した。二号ではない。わざと小さく、箱の裏に貼る。
「感謝箱・増量」
キャリーに見せない笑いが、後宮の冷たい空気の中で小さく弾けた。
ポポフは執務室で、一人になった瞬間、机の引き出しから紙切れを出した。そこには大きな字で「ありがとう」と書いてある。書いたのは昨夜だ。書けたのに、言えない。
彼は紙を握りつぶし、また広げ、結局引き出しに戻した。礼状の束の横に、恥ずかしそうに押し込む。
そこへグンナーが入ってきて敬礼した。ポポフは咄嗟に引き出しを閉め、何事もなかった顔で言う。
「捜査は」
グンナーは机の角の紙の端を見たが、見なかったことにした。
「進んでいます。……港の灯は、今は点いています」
ポポフは「そうか」とだけ返し、胸の奥で紙切れの角が刺さるのを感じた。
キャリーは毛布を畳み直し、箱の底に落ちていた札の端を見つけた。表には何も書かれていない。けれど裏に、薄く墨の跡があった。書いて、消して、また書いた跡だ。キャリーは札をそっと戻し、何も見なかったふりをした。見なかったふりが、いまは優しさになる気がした。
窓の外で合図灯が淡く揺れ、キャリーは毛布の端を握った。箱の中身より、置かれた時間の方が温かかった。
夜、廊下でポポフの足音が一度だけ止まり、また去っていった。扉は叩かれない。けれど足音の迷いが、言葉の代わりに残った。
キャリーは扉に手を当て、触れずに「おやすみ」を置いた。
波の向こうで、灯が揺れていた。
キャリーはその揺れに合わせ、まだ言えない礼を胸の中で一度だけ転がした。
【続】


