潮騒の指輪と、言えなかった「ありがとう」

第4話 目を閉じたまま、波の音を数える

 その夜、キャリーは城壁の上へ出た。護衛はつけられていたが、風が強く、兵も顔を伏せていた。灯が少なく、海は黒い。波が岩に当たる音だけが、城よりも確かな存在に思えた。
 キャリーは外套の襟を握り、目を閉じた。ひとつ、ふたつ、みっつ。波音を数えると、心のざわめきが波の間へ溶けていく。ここでは誰も、席の食器を数えたりしない。

 背後で足音が止まった。近衛隊長グンナーの気配だった。彼は余計な咳払いをせず、外套を一枚差し出す。
 「風が強い。……海の冷えは骨に残る」
 キャリーは受け取り、礼を言いかけて、内ポケットの布包みが重く感じた。
 グンナーの視線が、ほんの一瞬だけそこに留まった。次の瞬間、彼は目を逸らし、城壁の外側へ顔を向ける。
 「……それは、どこで」
 キャリーは答えを選びながら、布包みを取り出した。リングが月光を受けて淡く光る。グンナーの眉が動き、頬の筋が硬くなる。
 「王家の港務印だ。持ち主が不明なら、港の鍵が宙に浮く」
 彼は言葉を短く切り、誰にも聞かれない距離を保った。
 「明日の朝、私が預かります。今夜は……口外しないでください」

 キャリーは頷いた。助けを求めたつもりはないのに、誰かに手を伸ばしてしまったようで、指先が熱い。
 離れへ戻る回廊で、柱の陰に女官の影があった。布の擦れる音。控えめな足取り。ノエミがその足音の間隔を聞き取り、扉を閉める手を少しだけ強くした。

 夜更け、噂は湯気より早く広がった。
 「正妃が怪しい金を隠している」
 「港のものを盗んだんですって」
 言葉は勝手に形を変え、朝には、キャリー自身の手を離れていた。

 キャリーは窓辺で再び目を閉じた。波音は、数えても数えても終わらない。けれど、その終わらなさだけが、今夜の彼女を支えた。
 城壁の上で波音を数えていると、ふいに幼いころの記憶が混じった。キャリーの故郷は内海で、波はもっと穏やかだった。夜に耳を澄ませても、聞こえるのは虫の声と家族の笑い声。ここでは、波が笑い声の代わりをしている。
 目を閉じたままでも、潮の匂いの濃さで天気が分かる。今日は雨の匂いが強い。嵐が近い。

 グンナーが差し出した外套には、剣油と煙の匂いがついていた。誰かを守る匂いだ、とキャリーは思った。彼は外套の留め具を自分の指で止め、すぐに手を離した。触れたのは一瞬でも、温度が残る。
 「あなたは、港へよく行くのですか」
 キャリーが尋ねると、グンナーは海を見たまま答えた。
 「港は、軍の喉です。詰まれば、国が咳をする」
 言い方が妙に真面目で、キャリーは笑いそうになったが、唇を噛んで堪えた。笑ったら、言葉が軽くなる気がした。

 離れへ戻った後、噂は本当に風のように回廊を走った。夜番の女官が、別の女官の袖を引く。
 「聞いた? 正妃が金を隠してるって」
 「港の鍵を持ってるって。怖いわ」
 「きっと実家の差し金よ」
 囁きは三つに増え、五つに増え、最後にはまったく違う形になる。朝には、誰が言い出したのか分からないまま、「正妃は盗人」という言葉だけが残った。

 キャリーは朝の身支度をしながら、鏡の中の自分を見た。髪をまとめ、肩を張り、背筋を伸ばす。形を整えれば、噂が形を壊す。
 「言い返すべき?」
 小さく呟くと、ノエミが櫛を止めずに答えた。
 「言葉は、返した分だけ拾われます。拾われた言葉は、別の手で投げられます」
 キャリーは息を吐いた。城壁から投げられたリングが潮に戻ったように、言葉もまた戻ってくるのだろうか。戻るなら、今度は形が崩れていない形で戻ってほしい。
 翌朝、朝食会の席に着くと、今度はキャリーの杯だけが水だった。周囲の杯は香の強い茶で、湯気が立っている。
 女官が微笑む。
 「温かいものは、体の弱い方へ回す決まりですの」
 キャリーは水を一口飲み、喉の冷たさを受け止めた。
 「では、私が強いということですね。光栄です」
 淡々と返すと、女官の笑みが引きつった。ノエミが背後で袖を直し、キャリーの肩にそっと外套を掛ける。
 席の端で、誰かが小声で「強いって言った」と囁く。噂はまた形を変え、しかし今回は、少しだけキャリーの方へ寄った。
 朝、グンナーは約束通り離れを訪れ、リングを白布で包んで受け取った。手のひらを差し出す仕草が丁寧すぎて、キャリーは逆に胸が痛んだ。グンナーは一言だけ残す。
 「あなたの名は出しません」
 その一言が、波音より確かな支えになった。
 リングを手放したのに、胸の奥の重みは消えない。けれどその重みは、誰かに渡せる重みへ変わり始めていた。
 グンナーの背中が遠ざかると、キャリーは城壁の石に指を当てた。冷たい石は嘘をつかない。嘘をつくのは、噂と、噂を楽しむ心だけだ。
 キャリーは深呼吸し、今日の波音を胸にしまった。
 波音が、少しだけ優しく聞こえた。
【続】