潮騒の指輪と、言えなかった「ありがとう」

第3話 波間で拾った金色のリングの謎

 同じ日の昼下がり、潮が大きく引いた。海辺の岩場は、普段なら波の下に隠れているはずの黒い石が露わになり、貝殻が光っていた。
 キャリーは炊き出し場からの帰り道、護衛の兵に「遠くへは行きません」と告げ、城壁の影で短い散歩をした。足元の水たまりに空が映り、そこへ波が指でなぞるように触れる。

 ふいに、金色が目に入った。泡の間で、陽がひとすじ跳ねる。
 キャリーはしゃがみ込み、冷たい水に指を入れた。砂を払うと、小さなリングが掌に収まる。内側には王家の紋章、外側には見慣れない刻印。縁に欠けがあり、そこが鋭く爪に引っかかった。
 「……港の印?」
 炊き出し場で見た倉庫の封印蝋に、似た模様があった気がする。誰かが落としたのではない。城壁の上から投げ捨てられ、潮に揉まれてここまで運ばれた――そんな冷たい筋道が、胸の奥にすっと入ってきた。

 持ち主を探すべきだ。けれど、正妃が勝手に港の物を触ったとなれば、今の后宮の空気は一瞬で牙をむく。横領だの、企みだの、好きに飾られる。
 キャリーはリングを布で包み、外套の内ポケットへ入れた。歩きながら何度も指先に残る冷たさを確かめる。捨てることもできない。差し出す相手も選べない。

 離れに戻ると、ノエミが湯の入った茶を置いた。いつもより少し甘い香りがする。
 「今日は、海に降りましたね」
 「ええ。潮が引いていました」
 ノエミはキャリーの袖口の湿りを見て、言葉を飲み込み、代わりに乾いた布を差し出した。キャリーは受け取り、指輪の包みを引き出しに滑り込ませる。
 引き出しが閉まる音が、やけに大きく聞こえた。

 夜、窓の外の波が強くなっていった。風が回廊を鳴らし、どこかで扉が軋む。キャリーは引き出しに手を置き、ためらいながら離した。
 「黙っていたほうが、安全」
 そう自分に言い聞かせたが、胸の中で、拾った金色がいつまでも消えなかった。
 リングを隠したままの午後、キャリーは離れの帳簿を開いた。后宮の備品の一覧、離れに回ってくる薪の量、窓枠の修繕の予定。文字を追うほど、王城は人の手で継ぎ足されていると分かる。
 けれど、リングだけは帳簿に載っていない。載らないものほど、夜を暗くする。

 夕刻、外で兵の交代の合図が鳴り、回廊に靴音が揃って通った。キャリーは窓を閉め、指先を暖炉に近づけたが、暖かさが手の奥まで届かない。
 「捨てたほうが、楽」
 そう思って引き出しを開けた瞬間、金色がふっと光った。海の泡の中で見た光と同じだ。キャリーの胸が、泡のように浮いたり沈んだりする。

 ノエミが皿を下げに来たとき、キャリーは思わず口を開いた。
 「港の倉庫の封印に、似た刻印を見たことがありますか」
 ノエミは答えを急がず、皿の縁をきちんと揃えた。
 「港務官が持つ印です。……本来は、海へ落ちません」
 「やはり」
 キャリーは引き出しの取っ手を握ったまま、離した。ノエミはそれ以上尋ねない代わりに、窓の鍵を確かめ、カーテンを少し厚いものに替えた。
 「この城は、噂の風も強いです。風向きが変わるまで、窓は固く」
 「風向きが変わるまで……」
 キャリーが繰り返すと、ノエミは小さく頷いた。

 夜、回廊の外で誰かが笑い、次に誰かが小さく咳をした。声の主は見えないのに、音だけが近づいたり遠ざかったりする。キャリーは寝台に横になり、手のひらの中で見えないリングを握る仕草をしてしまった。
 「もし、灯が消えたら」
 想像が勝手に走り、胸が冷える。あの儀礼の間で、ポポフが霜を乗せていた理由が、少しだけ分かった気がした。
 夜、キャリーは蝋燭を一本だけ灯し、リングの刻印を紙に写し取った。布で包んだままでは分からない凹凸が、光に当たって浮かび上がる。縁の欠けには、海の砂がまだ少し噛んでいた。
 彼女は砂を落とさず、あえて残した。拾った場所の証拠になる気がしたからだ。証拠と言っても、今の后宮では、証拠が先に罪に変わる。
 窓の外で馬のいななきがし、城門が開く音がした。ポポフが夜遅く戻ったのだろう。キャリーは立ち上がりかけ、すぐに座り直した。扉を叩けば簡単なのに、簡単なことほど難しい。
 蝋燭の火が揺れ、リングの金色がいっそう濃く見えた。
 キャリーは写し取った刻印の紙を折り、ノエミの衣装箱の底へ忍ばせた。自分の引き出しより、彼女の几帳面さの方が安全だと思ったからだ。ノエミは何も言わず、衣装箱の蓋を静かに閉めた。
 海の匂いが強くなるたび、キャリーは「黙る」ではなく「待つ」を選び直した。待つなら、手は止めない。
 ノエミが蝋燭の芯を短く切り、「火が大きいと影も大きいです」と呟いた。キャリーはその影の大きさを思い、指輪の包みをもう一度確かめた。
 波が一つ砕けるたび、キャリーの決意も一つ固まった。
 そして彼女は、蝋燭を吹き消した。
 闇が戻っても、胸の奥の金色だけは位置を失わなかった。
【続】