第2話 “いないもの”扱いの朝食会
翌朝、后宮の朝食会は、絹の音だけが立っていた。銀の食器が並ぶ長卓の端に、キャリーの席が用意されている。椅子も、皿も、杯もある。――ただ、フォークが一本だけない。
筆頭女官ルチアが、わざとらしく首を傾げた。
「まあ。昨日の荷ほどきで、お持ちになったのでは?」
周囲の笑いが小さく弾ける。
キャリーは皿の縁に指を添え、笑って立ち上がった。
「すぐ戻りますね。皆さま、温かいうちにどうぞ」
そう言って厨房へ向かうと、扉の向こうの空気が一気に熱くなる。忙しい炊事場では、見習いが鍋を抱えたまま足を止めた。
「正妃さま……こちらへ?」
「お皿が一つ足りないようなので。ここ、今は誰が確認しているのですか」
キャリーは責める声を出さず、手を洗い、配膳台の順番を指差した。パン籠、スープ、皿、杯。動線を変えるだけで、見習いの肩から力が抜ける。
「運ぶ人が迷わないように、札を付けましょう。文字は大きく。夜勤の方でも読めるように」
朝食会に戻ると、卓は静まり返っていた。キャリーは自分の席へフォークを置き、何事もなかったようにスープを口に運ぶ。隣の貴婦人が小さく咳払いをしたが、誰も言葉を続けなかった。
昼、キャリーは厨房の余り物を籠に詰め、城壁の下の港へ降りた。冬の海風は容赦なく、外套の襟を立てても頬が切れるほど冷たい。炊き出し場では、見回り兵が手をかざして湯気を追っている。
「温かいものがあると助かる」
兵の一人がそう漏らした瞬間、キャリーは籠を差し出した。
「皆さんが冷えると、港が困ります。配りますか」
漁師たちが驚いて顔を上げる。キャリーは大鍋の前に立ち、柄杓で湯を注いだ。
「手、冷えますね。火に近づきすぎないでください」
名も知らない人々が、目の前で息を白くしている。その息が揃うだけで、ここは少し温かくなる。キャリーは自分の席の冷たさより、湯を待つ手の方に目がいった。帰り際、港務官の見習いが帽子を胸に当てて言った。
「……港に来てくださるとは。正妃さま、顔、覚えました」
キャリーは頷き、潮の匂いの中で小さく笑った。
朝食会の後、厨房では小さな混乱が続いていた。塩が足りない、皿が割れた、パンが冷めた。誰かが怒鳴れば誰かが黙る。キャリーは鍋の蓋を一度だけ開け、湯気の立ち方を見て、火の調整を指で示した。
「怒鳴ると、耳が痛くて手が震えます。先に鍋の数を数えましょう」
料理長は最初、眉をひそめたが、キャリーが紙と炭を持ってきて「朝はこれだけ、昼はこれだけ」と分けて書くと、黙って頷いた。
「正妃さま、台所に札なんて……」
「迷わないための札です。迷ったら、人がぶつかります。鍋も落ちます」
その言い方が淡々としていたので、厨房の空気がふっと緩んだ。
港へ向かう途中、城壁の階段で見回り兵が荷を抱えて立ち往生していた。木箱の紐が切れかけ、片手では持てない。
「手を貸します」
キャリーが袖をまくると、兵が慌てて首を振った。
「正妃さまの手を汚すわけには」
「汚れるのは、手袋で防げます」
そう言ってキャリーは箱の底を持ち、二人で運んだ。兵は歩きながら何度も口を開け、結局「……助かります」だけを落とした。
炊き出し場では、漁師の子どもが空の椀を抱えてじっと見ていた。キャリーが湯を注ぐと、子どもは椀に顔を近づけて、湯気を鼻で吸い込む。
「熱いよ」
キャリーが言うと、子どもは頷き、舌を出して冷まし始めた。その様子が可笑しくて、周囲の大人たちの口元が少しだけ緩む。
「正妃さま、港に降りるのは危ないって言われてたのに」
漁師の一人が呟く。キャリーは湯を注ぎながら答えた。
「危ないのは、港が困ることです。困ったら、誰かが冷えます」
言い切ると、漁師は「変わったお方だ」と笑い、次の椀を差し出した。
帰り道、後宮の女官二人が道を塞ぐように立っていた。キャリーが避けようとすると、女官が囁く。
「港で人気取り? お飾りが……」
キャリーは足を止め、籠の持ち手を握り直した。
「人気は、いりません。湯を配っただけです」
言い返したのではなく、事実を置いただけだった。それが余計に女官の頬を熱くしたのか、二人は目を逸らして道を開けた。
数日ぶりに港務官の見習いが炊き出し場へ来た。彼は濡れた台帳を抱え、寒さで鼻を赤くしている。
「燃料の受け取りの印が……最近、ずれてるんです」
キャリーは椀を手渡しながら、台帳の端をそっと押さえた。
「ずれている、というのは?」
「本当は港務官が指輪で押す刻印が必要で。だけど、最近は印影が薄い。押した人が違うのか、力が弱いのか……」
見習いは言いながら自分の言葉に怯え、周囲を見回した。キャリーは声を落とす。
「疑いは、灯が消えてからでは遅いですね」
見習いは椀の湯気に顔を近づけ、頷いた。ここで交わした小さな会話が、のちの夜の灯に繋がるとは、まだ誰も知らない。
【続】
翌朝、后宮の朝食会は、絹の音だけが立っていた。銀の食器が並ぶ長卓の端に、キャリーの席が用意されている。椅子も、皿も、杯もある。――ただ、フォークが一本だけない。
筆頭女官ルチアが、わざとらしく首を傾げた。
「まあ。昨日の荷ほどきで、お持ちになったのでは?」
周囲の笑いが小さく弾ける。
キャリーは皿の縁に指を添え、笑って立ち上がった。
「すぐ戻りますね。皆さま、温かいうちにどうぞ」
そう言って厨房へ向かうと、扉の向こうの空気が一気に熱くなる。忙しい炊事場では、見習いが鍋を抱えたまま足を止めた。
「正妃さま……こちらへ?」
「お皿が一つ足りないようなので。ここ、今は誰が確認しているのですか」
キャリーは責める声を出さず、手を洗い、配膳台の順番を指差した。パン籠、スープ、皿、杯。動線を変えるだけで、見習いの肩から力が抜ける。
「運ぶ人が迷わないように、札を付けましょう。文字は大きく。夜勤の方でも読めるように」
朝食会に戻ると、卓は静まり返っていた。キャリーは自分の席へフォークを置き、何事もなかったようにスープを口に運ぶ。隣の貴婦人が小さく咳払いをしたが、誰も言葉を続けなかった。
昼、キャリーは厨房の余り物を籠に詰め、城壁の下の港へ降りた。冬の海風は容赦なく、外套の襟を立てても頬が切れるほど冷たい。炊き出し場では、見回り兵が手をかざして湯気を追っている。
「温かいものがあると助かる」
兵の一人がそう漏らした瞬間、キャリーは籠を差し出した。
「皆さんが冷えると、港が困ります。配りますか」
漁師たちが驚いて顔を上げる。キャリーは大鍋の前に立ち、柄杓で湯を注いだ。
「手、冷えますね。火に近づきすぎないでください」
名も知らない人々が、目の前で息を白くしている。その息が揃うだけで、ここは少し温かくなる。キャリーは自分の席の冷たさより、湯を待つ手の方に目がいった。帰り際、港務官の見習いが帽子を胸に当てて言った。
「……港に来てくださるとは。正妃さま、顔、覚えました」
キャリーは頷き、潮の匂いの中で小さく笑った。
朝食会の後、厨房では小さな混乱が続いていた。塩が足りない、皿が割れた、パンが冷めた。誰かが怒鳴れば誰かが黙る。キャリーは鍋の蓋を一度だけ開け、湯気の立ち方を見て、火の調整を指で示した。
「怒鳴ると、耳が痛くて手が震えます。先に鍋の数を数えましょう」
料理長は最初、眉をひそめたが、キャリーが紙と炭を持ってきて「朝はこれだけ、昼はこれだけ」と分けて書くと、黙って頷いた。
「正妃さま、台所に札なんて……」
「迷わないための札です。迷ったら、人がぶつかります。鍋も落ちます」
その言い方が淡々としていたので、厨房の空気がふっと緩んだ。
港へ向かう途中、城壁の階段で見回り兵が荷を抱えて立ち往生していた。木箱の紐が切れかけ、片手では持てない。
「手を貸します」
キャリーが袖をまくると、兵が慌てて首を振った。
「正妃さまの手を汚すわけには」
「汚れるのは、手袋で防げます」
そう言ってキャリーは箱の底を持ち、二人で運んだ。兵は歩きながら何度も口を開け、結局「……助かります」だけを落とした。
炊き出し場では、漁師の子どもが空の椀を抱えてじっと見ていた。キャリーが湯を注ぐと、子どもは椀に顔を近づけて、湯気を鼻で吸い込む。
「熱いよ」
キャリーが言うと、子どもは頷き、舌を出して冷まし始めた。その様子が可笑しくて、周囲の大人たちの口元が少しだけ緩む。
「正妃さま、港に降りるのは危ないって言われてたのに」
漁師の一人が呟く。キャリーは湯を注ぎながら答えた。
「危ないのは、港が困ることです。困ったら、誰かが冷えます」
言い切ると、漁師は「変わったお方だ」と笑い、次の椀を差し出した。
帰り道、後宮の女官二人が道を塞ぐように立っていた。キャリーが避けようとすると、女官が囁く。
「港で人気取り? お飾りが……」
キャリーは足を止め、籠の持ち手を握り直した。
「人気は、いりません。湯を配っただけです」
言い返したのではなく、事実を置いただけだった。それが余計に女官の頬を熱くしたのか、二人は目を逸らして道を開けた。
数日ぶりに港務官の見習いが炊き出し場へ来た。彼は濡れた台帳を抱え、寒さで鼻を赤くしている。
「燃料の受け取りの印が……最近、ずれてるんです」
キャリーは椀を手渡しながら、台帳の端をそっと押さえた。
「ずれている、というのは?」
「本当は港務官が指輪で押す刻印が必要で。だけど、最近は印影が薄い。押した人が違うのか、力が弱いのか……」
見習いは言いながら自分の言葉に怯え、周囲を見回した。キャリーは声を落とす。
「疑いは、灯が消えてからでは遅いですね」
見習いは椀の湯気に顔を近づけ、頷いた。ここで交わした小さな会話が、のちの夜の灯に繋がるとは、まだ誰も知らない。
【続】


