潮騒の指輪と、言えなかった「ありがとう」

第10話 潮騒の上で、指輪をはめる

 春の気配が混じる朝、城壁の上は嵐の残り香が薄く、空が高かった。遠くの海に小さな帆がひとつ見え、港の合図灯が昨夜より穏やかに揺れている。
 キャリーは外套の襟を整え、目を閉じた。ひとつ、ふたつ、みっつ。波音を数える癖は、いつの間にか朝の呼吸になっていた。

 隣で、足音が止まる。ポポフが同じように目を閉じた。軍靴の先が、彼女の歩幅に合わせて少しだけ内側へ寄る。
 キャリーは驚いて目を開けようとしたが、ポポフの声が先に落ちてきた。
 「そのままで」
 彼はそう言い、キャリーの手を取った。指先が温かい。あの夜、濡れた軍服のまま握った手の温度だ。

 金色のリングが、掌に乗せられる。欠けた縁は、もう怖くなかった。キャリーが目を閉じたまま指を差し出すと、ポポフは慎重に、彼女の薬指へ通した。金属が肌に触れ、冷たさより先に、約束の重みが伝わる。
 「港の印としての役目は終わった。……今度は、俺たちの印にする」
 言い切ると、彼は息を吐いた。言葉を出せたことに、自分で驚いたような顔をしている。

 キャリーは目を閉じたまま、リングを指先で確かめた。
 「迷子になったら、呼びます」
 「呼べ」
 短い返事が、風の中でやけにまっすぐだった。

 そのとき、キャリーが小さな鐘を取り出した。港の炊き出し場で、子どもが落として泣いていた鈴だ。返す機会がなく、ずっと外套の内側に入れていた。
 「これ、音が遠くまで届きます」
 からん、と鳴らした瞬間、ポポフが本気で振り向いた。
 「いま呼んだのか?」
 「練習です」
 キャリーが笑うと、ポポフは一拍遅れて口元を緩めた。遠くでグンナーが咳払いをし、ノエミが袖を直す気配がする。

 潮騒の上で、二人の足音が並んだ。目を閉じたままでも、もう一人が隣にいると分かる。キャリーは波音を数えるのをやめ、代わりに、言えなかった言葉を胸の中でそっと開いた。
 城壁を降り、二人は港へ向かって歩いた。朝の石畳はまだ湿っていて、靴音が小さく響く。すれ違う近衛兵が敬礼し、目を逸らすタイミングを迷っている。ポポフが「前を見ろ」と言うと、兵は真っ赤になって前だけを見た。キャリーが小さく笑う。
 「今のは、私のせいでしょうか」
 「俺のせいだ」
 ポポフは即答し、そこで自分の返事が妙に潔いことに気づいて咳払いをした。

 港に着くと、炊き出し場の漁師が手を振った。あの夜の灯の列を作った人たちだ。キャリーが会釈すると、漁師は指でリングを指し、にやりと笑う。
 「それ、戻ってきたやつだな」
 キャリーが頷くと、漁師はわざと大声で言った。
 「港の灯は消させねえ。だって正妃さまが怖いからな!」
 周囲がどっと笑い、キャリーは耳まで熱くなった。ポポフが漁師を睨むが、睨み方が弱い。漁師は「はいはい」と肩をすくめ、子どもに湯を注ぎ始めた。

 海辺まで来ると、波は昨日より穏やかだった。キャリーはリングを外し、掌で一度温めてから、また指にはめた。金属は冷たいはずなのに、今は不思議と温かい。
 「目を閉じたままでも、隣が分かるのは……」
 キャリーが言いかけると、ポポフが重ねる。
 「呼べば分かる」
 「呼ぶ前に、分かります」
 キャリーはそう言って、もう一度鈴を鳴らした。からん、と軽い音。ポポフは今度も振り向きかけ、途中で止まった。
 「……練習だな」
 「はい」
 「なら、次は本番で鳴らせ」
 「本番って、いつですか」
 「迷子になったときだ」
 「迷子にならないように歩けばいいのに」
 キャリーが言うと、ポポフは一拍置いて、口元を緩めた。笑い方がまだ慣れていない。けれど、慣れていない笑いは、嘘がない。

 潮騒の音が、今日は数えなくても落ち着いて聞こえる。キャリーは目を閉じ、今度は波ではなく、隣の呼吸を数えた。ひとつ、ふたつ。数えるたび、言えなかった言葉が、少しずつ言える形に変わっていった。
 港から戻る途中、ポポフは城壁の下の岩場で足を止めた。潮が引き、黒い石が露わになっている。キャリーがリングを拾った場所だ。
 「ここか」
 ポポフが低く言う。キャリーが頷くと、彼はしゃがみ込み、岩の欠けを指でなぞった。
 「投げた者は、慌てていた」
 「証拠を消したかったのでしょう」
 「証拠は、戻った」
 ポポフは立ち上がり、キャリーの指のリングを見た。戻った証拠が、いまは約束の印になっている。

 王城へ戻ると、ノエミが入口で待っていた。彼女はキャリーの外套の襟を直し、ポポフの濡れた袖口もついでに整える。
 「感謝箱は、これ以上増やさないでください。置き場が足りません」
 ポポフが真面目に頷く。
 「分かった。……言葉で済ませる」
 ノエミは一拍置いてから「はい」と返した。キャリーはそのやりとりを聞き、胸の奥で波が静かに引いていくのを感じた。
 正門の上で鐘が鳴り、港へ向かう一日の始まりを告げた。キャリーはリングに触れ、ポポフの手を見た。彼の指には何もないのに、握る手つきだけはもう迷っていない。キャリーは目を閉じずに、今はその手を見つめた。
【終】
【完】