電車の揺れに体を預けながら、木津は稔にぽつりぽつりと、入試の日のことを語った。体調を崩して、どうしようもなくなっていた自分を助けてくれたこと――それだけを、淡々と。
その先、自分の気持ちがどう変わったか、なぜその出来事が心に残ったのかまでは、さすがに口にしなかった。
「入試の時さ……俺、稔に世話になって……多分、そこからかな」
木津は小さく肩をすくめ、頬にかすかに赤みを帯びさせる。照れくさいような、でも平然を装っているような、どこかはにかんだような表情を見せた。
「えぇ? あれって木津くんだったの?」
稔の声には、驚きと、少しの懐かしさが混ざっている。
「そうそう」
「そっか……入試、残念だったね」
「まあな」
木津は肩を軽くすくめた。
「でも、今こうして稔と同じ高校だし。結果オーライだろ」
木津の声に、自然な自信と軽やかさが見えた。言葉に合わせて、ほんの少し口角を上げた爽やかな笑みが浮かんでいる。
稔はその笑顔を、少し首を傾げながらじっと見つめた。
「にしてもさ……それって、恋なのかな?」
稔の声には、戸惑いと迷いが混ざっていた。自分の気持ちを整理しようとする中で生まれた、ほんのわずかな疑問。単なる勘違いではないのか――そんな思いがじわりと広がる。
「優しくされたから誤解してる、ってだけじゃない?」
木津は一瞬、ぽかんとした表情を見せる。目が大きく見開かれ、心の中で何かを考えたあと、肩を軽く揺らして笑った。
「ひでぇなぁ」
木津はくすくすと笑いながら口を開いた。
「人の気持ちってさ、どんなきっかけでも始まるもんだろ。疑うなよ」
その笑い声には、軽やかで穏やかな自信が含まれていた。
稔は思わず息を呑む。声のトーンや仕草の柔らかさに、胸の奥がぎゅっと小さく締めつけられるような感覚が走った。
――こんな瞬間に、心臓が少し跳ねるなんて、予想もしていなかった。
稔は誤魔化すように、小さく「うーん」と唸る。
声に迷いが残り、どこか答えを探すような響きだった。
「あ、そうだ!なんで別の高校受けてたの? あの二人、この高校一本だったって噂で聞いたけど」
「なんだその噂」
木津は苦笑する。
少し肩をすくめて付け加えた。
「まあ、あいつらは頭いいからどこでも受かるんだろうけどさ。あいつらが受けた理由なんて、ここは家から近いってだけだよ。俺はぶっちゃけ、そこまで頭よくないし」
「でも二次募集で受かったよね」
「なー?なんでだろうなー」
天井をぼんやりと見上げ、木津は口元に微かな笑みを浮かべた。
「不思議だよなぁ」
そして、少し茶化すように付け加える。
「これってさ、稔との運命が引き寄せた、とか?」
「いやいやいや。普通に実力でしょ」
稔は即座に首を横に振り、あっさりと、話を切り捨てた。
「本当はさ、サッカーやりたくて別の高校選んだんだけど」
木津は特に気にする様子もなく、普通に話しを続けた。
「え? 木津くん、サッカーできるの?」
稔の目が大きく見開かれる。
「勉強以外なら、だいたい何でもできるぞ」
さらっと口にするその言葉に、稔の頭の中で妄想が一気に膨らんだ。サッカーをしている木津。風を切って走る姿。ボールを蹴る瞬間の鋭い動き。――ものすごく似合う。稔の中で、木津のイメージは鮮やかに、完璧に完成した。
(うわ……カッコいい……抱かれたい男ナンバーワンだわ、これは!)
その瞬間、稔の口から思わず声が漏れた。
「えぇぇカッコいい! すごい! 想像通り! わぁぁぁ!」
本来なら心の中だけで叫ぶはずの言葉が、全て外に出てしまった。
(あっ……)
しかし、もう遅い。
木津は少し笑みを含ませ、嬉しそうに稔を見返していた。
「あれ?でも部活入ってないよね?」
慌てて話題を変えた稔の声には、少し焦りと戸惑いが混ざっていた。
「んー……」
木津は視線を少し上に向け、考え込むように眉をひそめる。目の奥には、少し悔しさともどかしさともつかない感情が見えていた。
「部活入ったらさ、この学校の勉強についていけなくなりそうで」
苦笑を浮かべながら、木津は言う。その口元には、わずかな悔しさが滲んでいた。
自分の能力やペースを正直に認めつつも、やりたいこととの葛藤を軽く笑いでごまかしている――そんな雰囲気が漂う。
「正直さ、頭いい学校じゃん? ついていくだけでやっとって感じ」
言葉の端々には、学びのプレッシャーと自己分析の正直さが混ざる。木津の声のトーンは、少し肩の力を抜いた、けれど真剣さの残るものだった。
「そっか……」
稔は小さく息をつき、わずかに肩を落とす。だが期待していた答えと違ったことへの、ほんの少しの戸惑いが声に残った。言葉にしようとすればするほど、適切なものが見つからない。
木津の性格上、色んな運動部に誘われて決められなかったとか、そういった軽い言葉が返ってくると思っていたのに。
車内の揺れと周囲のざわめきの中で、二人の間には一瞬だけ静かな間が生まれる。目の前の木津は、何も気にせずに楽しそうにしている――その無邪気さに、稔の胸には少しだけ申し訳なさが浮かんだ。
自分が拍子抜けした気持ちを抱え込んでいることを、見透かされているようで、どこか恥ずかしかった。
「でもまあ、球技大会あるし」
その言葉と同時に、木津の表情がふっと変わった。目の奥に、何か思いついたような光がちらり。そして、無邪気な悪戯っぽさのある笑みが零れていた。
稔はその変化に、一瞬だけ心を奪われ、次の瞬間には少し身構えてしまった。
「なあ」
木津が言った。
「球技大会、そろそろだよな?」
「え、あ……そうだね」
稔は少し戸惑いながら答えた。
近年の猛暑の影響で、夏に行われていた球技大会は、残暑も過ぎた秋の終わり頃――暦の上では冬に差し掛かる今の時期に行われるようになっていた。
文化祭はそのすぐ後、冬休みの少し前に行われ、その後には期末テストが控えている。日程が近すぎることから、生徒たちはこの時期を「忙殺期」と呼び、慌ただしい授業や準備に追われる日々に胸を少し重くする。
その「忙殺期」が、静かに、しかし確実に、近づいている。
「俺、サッカー選ぶんだけど」
稔の胸に、嫌な予感が走った。
(まさか……一緒に出ようとか言うんじゃ……)
必死に心の中で祈る。
(お願いだから違うこと言って……)
言葉に出したい衝動を必死に押さえ、目を逸らすことすらできずにいる。
だが、木津の次の言葉は、稔の想像を軽々と超えた。
「俺が点数入れて勝ったらさ、俺と付き合ってよ」
さらっと、でも決意のこもった声。
「えぇ⁈」
稔は思わず声を上げてしまった。
心の中で違うお願いを祈ったはずなのに――まさか、そんな方向に来るとは思わなかった。
「約束な!」
ウキウキした表情の木津に、稔は混乱を隠せない。
視線をどこにやればいいのか分からず、身体は固まったままだ。
「なんで⁈」
「ご褒美欲しいじゃん?」
木津はあっけらかんと答える。
「俺、ご褒美あると頑張れちゃうタイプ」
その言葉に、稔の思考は絡まり、心も体も制御できずにいた。
(可愛いところある……)という気持ちと、
(どうしてそうなる?!)という叫びに近い戸惑いが、ぐちゃぐちゃに絡まり、胸の中で渦を巻いた。
思考が追いつかないまま、ただ目の前の木津を見つめるしかなかった。
そのとき、電車が駅に滑り込む。木津の降りる駅だった。
ドアが開き、木津が立ち上がる――
その瞬間だった。
稔の額に、ふっと柔らかい感触が触れた。思わず目を見開いた。
瞬間、心臓が跳ね上がり、胸の奥で何かがはじけたように痛いほど高鳴る。
呼吸が一瞬止まり、全身が熱くなる。
――触れたのは、木津の唇だった。
思考が飛んでしまい、何を考えていいのかすら分からなかった。心臓の音だけが耳に響く。
唇の感触が、温かく、柔らかく、まだ残っているような気がして、体の奥までドキドキが波紋のように広がった。
稔はその場に固まり、息を呑むしかなかった。
「俺、絶対勝つからさ」
楽しげに、でもどこか愛おしそうに、木津は微笑みながら言う。
「ちょっと先取りね」
そう言うと、くすぐったそうに笑いながら電車を降りていく。
「また明日な」
(え?)(えぇぇぇぇ?!)
稔の頭の中は完全にパニックになった。
心臓がばくばくと鳴り、呼吸を忘れる。
目の前にいたはずの木津が、少しずつ電車の向こうへ遠ざかっていく。
その背中を見送りながら、稔の心臓はうるさく鳴っている。それと同時に、まだ残る唇の感触に心がぎゅっと締めつけられた。
電車はそのまま走り出し、次の駅へ、静かに進んでいく。実の思考はオーバーヒートで、停止寸前だった。
「な、なんでぇぇ?!」
稔の困惑はついに抑えきれず、大きな声となって車内に響き渡った。
周囲の乗客の視線が一瞬稔に向くが、そんなことは気にならなかった。
胸の高鳴りと混乱がまだ体中を駆け巡り、どうにも落ち着かない。
電車は静かに走り続け、次の駅へ――けれど、稔の心はまだ、あの一瞬の熱と驚きのまま、止まったままだった。
***
「……たけ」
「おー、青史」
木津が電車を降りた数秒後、ホームの柱の陰から一人の男子が姿を現した。
鳴谷青史だった。
背筋を伸ばし、目には鋭い観察眼が光っている。
「見てた?」
ニッコリとした笑みを浮かべてはいたが、声には相手の動きを逃さない鋭さと、わずかに挑戦的な響きが混ざっていた。
「居るの分かってただろ」
木津はその言葉を聞くと、肩を軽くすくめ、笑みを浮かべて応えた。
――もちろん、最初から気づいていたのだ。鳴谷が隣の車両に乗っていたことも、目の端に映る動きも。
そして、あの額へのキスも――わざとだった。鳴谷に見せつけるように、意図的な仕草だったのだ。
「俺、負けないから」
木津の声には軽やかさだけでなく、確固たる真剣さが宿る。
「たとえ青史が、俺より先に稔のこと好きだったとしても、ゆずらないよ。俺」
そう言い残すと、木津は背を向けた。
振り返ることなく、駅のざわめきの中へ歩き去っていく。
鳴谷をホームに残したまま、その背中は遠ざかり、やがて人混みに溶けていった。
その先、自分の気持ちがどう変わったか、なぜその出来事が心に残ったのかまでは、さすがに口にしなかった。
「入試の時さ……俺、稔に世話になって……多分、そこからかな」
木津は小さく肩をすくめ、頬にかすかに赤みを帯びさせる。照れくさいような、でも平然を装っているような、どこかはにかんだような表情を見せた。
「えぇ? あれって木津くんだったの?」
稔の声には、驚きと、少しの懐かしさが混ざっている。
「そうそう」
「そっか……入試、残念だったね」
「まあな」
木津は肩を軽くすくめた。
「でも、今こうして稔と同じ高校だし。結果オーライだろ」
木津の声に、自然な自信と軽やかさが見えた。言葉に合わせて、ほんの少し口角を上げた爽やかな笑みが浮かんでいる。
稔はその笑顔を、少し首を傾げながらじっと見つめた。
「にしてもさ……それって、恋なのかな?」
稔の声には、戸惑いと迷いが混ざっていた。自分の気持ちを整理しようとする中で生まれた、ほんのわずかな疑問。単なる勘違いではないのか――そんな思いがじわりと広がる。
「優しくされたから誤解してる、ってだけじゃない?」
木津は一瞬、ぽかんとした表情を見せる。目が大きく見開かれ、心の中で何かを考えたあと、肩を軽く揺らして笑った。
「ひでぇなぁ」
木津はくすくすと笑いながら口を開いた。
「人の気持ちってさ、どんなきっかけでも始まるもんだろ。疑うなよ」
その笑い声には、軽やかで穏やかな自信が含まれていた。
稔は思わず息を呑む。声のトーンや仕草の柔らかさに、胸の奥がぎゅっと小さく締めつけられるような感覚が走った。
――こんな瞬間に、心臓が少し跳ねるなんて、予想もしていなかった。
稔は誤魔化すように、小さく「うーん」と唸る。
声に迷いが残り、どこか答えを探すような響きだった。
「あ、そうだ!なんで別の高校受けてたの? あの二人、この高校一本だったって噂で聞いたけど」
「なんだその噂」
木津は苦笑する。
少し肩をすくめて付け加えた。
「まあ、あいつらは頭いいからどこでも受かるんだろうけどさ。あいつらが受けた理由なんて、ここは家から近いってだけだよ。俺はぶっちゃけ、そこまで頭よくないし」
「でも二次募集で受かったよね」
「なー?なんでだろうなー」
天井をぼんやりと見上げ、木津は口元に微かな笑みを浮かべた。
「不思議だよなぁ」
そして、少し茶化すように付け加える。
「これってさ、稔との運命が引き寄せた、とか?」
「いやいやいや。普通に実力でしょ」
稔は即座に首を横に振り、あっさりと、話を切り捨てた。
「本当はさ、サッカーやりたくて別の高校選んだんだけど」
木津は特に気にする様子もなく、普通に話しを続けた。
「え? 木津くん、サッカーできるの?」
稔の目が大きく見開かれる。
「勉強以外なら、だいたい何でもできるぞ」
さらっと口にするその言葉に、稔の頭の中で妄想が一気に膨らんだ。サッカーをしている木津。風を切って走る姿。ボールを蹴る瞬間の鋭い動き。――ものすごく似合う。稔の中で、木津のイメージは鮮やかに、完璧に完成した。
(うわ……カッコいい……抱かれたい男ナンバーワンだわ、これは!)
その瞬間、稔の口から思わず声が漏れた。
「えぇぇカッコいい! すごい! 想像通り! わぁぁぁ!」
本来なら心の中だけで叫ぶはずの言葉が、全て外に出てしまった。
(あっ……)
しかし、もう遅い。
木津は少し笑みを含ませ、嬉しそうに稔を見返していた。
「あれ?でも部活入ってないよね?」
慌てて話題を変えた稔の声には、少し焦りと戸惑いが混ざっていた。
「んー……」
木津は視線を少し上に向け、考え込むように眉をひそめる。目の奥には、少し悔しさともどかしさともつかない感情が見えていた。
「部活入ったらさ、この学校の勉強についていけなくなりそうで」
苦笑を浮かべながら、木津は言う。その口元には、わずかな悔しさが滲んでいた。
自分の能力やペースを正直に認めつつも、やりたいこととの葛藤を軽く笑いでごまかしている――そんな雰囲気が漂う。
「正直さ、頭いい学校じゃん? ついていくだけでやっとって感じ」
言葉の端々には、学びのプレッシャーと自己分析の正直さが混ざる。木津の声のトーンは、少し肩の力を抜いた、けれど真剣さの残るものだった。
「そっか……」
稔は小さく息をつき、わずかに肩を落とす。だが期待していた答えと違ったことへの、ほんの少しの戸惑いが声に残った。言葉にしようとすればするほど、適切なものが見つからない。
木津の性格上、色んな運動部に誘われて決められなかったとか、そういった軽い言葉が返ってくると思っていたのに。
車内の揺れと周囲のざわめきの中で、二人の間には一瞬だけ静かな間が生まれる。目の前の木津は、何も気にせずに楽しそうにしている――その無邪気さに、稔の胸には少しだけ申し訳なさが浮かんだ。
自分が拍子抜けした気持ちを抱え込んでいることを、見透かされているようで、どこか恥ずかしかった。
「でもまあ、球技大会あるし」
その言葉と同時に、木津の表情がふっと変わった。目の奥に、何か思いついたような光がちらり。そして、無邪気な悪戯っぽさのある笑みが零れていた。
稔はその変化に、一瞬だけ心を奪われ、次の瞬間には少し身構えてしまった。
「なあ」
木津が言った。
「球技大会、そろそろだよな?」
「え、あ……そうだね」
稔は少し戸惑いながら答えた。
近年の猛暑の影響で、夏に行われていた球技大会は、残暑も過ぎた秋の終わり頃――暦の上では冬に差し掛かる今の時期に行われるようになっていた。
文化祭はそのすぐ後、冬休みの少し前に行われ、その後には期末テストが控えている。日程が近すぎることから、生徒たちはこの時期を「忙殺期」と呼び、慌ただしい授業や準備に追われる日々に胸を少し重くする。
その「忙殺期」が、静かに、しかし確実に、近づいている。
「俺、サッカー選ぶんだけど」
稔の胸に、嫌な予感が走った。
(まさか……一緒に出ようとか言うんじゃ……)
必死に心の中で祈る。
(お願いだから違うこと言って……)
言葉に出したい衝動を必死に押さえ、目を逸らすことすらできずにいる。
だが、木津の次の言葉は、稔の想像を軽々と超えた。
「俺が点数入れて勝ったらさ、俺と付き合ってよ」
さらっと、でも決意のこもった声。
「えぇ⁈」
稔は思わず声を上げてしまった。
心の中で違うお願いを祈ったはずなのに――まさか、そんな方向に来るとは思わなかった。
「約束な!」
ウキウキした表情の木津に、稔は混乱を隠せない。
視線をどこにやればいいのか分からず、身体は固まったままだ。
「なんで⁈」
「ご褒美欲しいじゃん?」
木津はあっけらかんと答える。
「俺、ご褒美あると頑張れちゃうタイプ」
その言葉に、稔の思考は絡まり、心も体も制御できずにいた。
(可愛いところある……)という気持ちと、
(どうしてそうなる?!)という叫びに近い戸惑いが、ぐちゃぐちゃに絡まり、胸の中で渦を巻いた。
思考が追いつかないまま、ただ目の前の木津を見つめるしかなかった。
そのとき、電車が駅に滑り込む。木津の降りる駅だった。
ドアが開き、木津が立ち上がる――
その瞬間だった。
稔の額に、ふっと柔らかい感触が触れた。思わず目を見開いた。
瞬間、心臓が跳ね上がり、胸の奥で何かがはじけたように痛いほど高鳴る。
呼吸が一瞬止まり、全身が熱くなる。
――触れたのは、木津の唇だった。
思考が飛んでしまい、何を考えていいのかすら分からなかった。心臓の音だけが耳に響く。
唇の感触が、温かく、柔らかく、まだ残っているような気がして、体の奥までドキドキが波紋のように広がった。
稔はその場に固まり、息を呑むしかなかった。
「俺、絶対勝つからさ」
楽しげに、でもどこか愛おしそうに、木津は微笑みながら言う。
「ちょっと先取りね」
そう言うと、くすぐったそうに笑いながら電車を降りていく。
「また明日な」
(え?)(えぇぇぇぇ?!)
稔の頭の中は完全にパニックになった。
心臓がばくばくと鳴り、呼吸を忘れる。
目の前にいたはずの木津が、少しずつ電車の向こうへ遠ざかっていく。
その背中を見送りながら、稔の心臓はうるさく鳴っている。それと同時に、まだ残る唇の感触に心がぎゅっと締めつけられた。
電車はそのまま走り出し、次の駅へ、静かに進んでいく。実の思考はオーバーヒートで、停止寸前だった。
「な、なんでぇぇ?!」
稔の困惑はついに抑えきれず、大きな声となって車内に響き渡った。
周囲の乗客の視線が一瞬稔に向くが、そんなことは気にならなかった。
胸の高鳴りと混乱がまだ体中を駆け巡り、どうにも落ち着かない。
電車は静かに走り続け、次の駅へ――けれど、稔の心はまだ、あの一瞬の熱と驚きのまま、止まったままだった。
***
「……たけ」
「おー、青史」
木津が電車を降りた数秒後、ホームの柱の陰から一人の男子が姿を現した。
鳴谷青史だった。
背筋を伸ばし、目には鋭い観察眼が光っている。
「見てた?」
ニッコリとした笑みを浮かべてはいたが、声には相手の動きを逃さない鋭さと、わずかに挑戦的な響きが混ざっていた。
「居るの分かってただろ」
木津はその言葉を聞くと、肩を軽くすくめ、笑みを浮かべて応えた。
――もちろん、最初から気づいていたのだ。鳴谷が隣の車両に乗っていたことも、目の端に映る動きも。
そして、あの額へのキスも――わざとだった。鳴谷に見せつけるように、意図的な仕草だったのだ。
「俺、負けないから」
木津の声には軽やかさだけでなく、確固たる真剣さが宿る。
「たとえ青史が、俺より先に稔のこと好きだったとしても、ゆずらないよ。俺」
そう言い残すと、木津は背を向けた。
振り返ることなく、駅のざわめきの中へ歩き去っていく。
鳴谷をホームに残したまま、その背中は遠ざかり、やがて人混みに溶けていった。

