腐男子くんは三人の溺愛から逃げられない~推しカプ観察してたら本人たちにバレました~

 稔との出会いは、入試の日だった。受験の日といっても、騒がしいものではない。朝の駅には、いつもより少しだけ学生の姿が多い――それだけの、静かな冬の空気の朝だった。

 木津はその時、黒縁眼鏡をかけた地味な受験生だった。健康だけが取り柄の、目立つタイプではない。スポーツは得意だが、部活くらいでしか活躍をすることもなく、どちらかといえば人の群れの中に紛れてしまうような、静かな存在だ。

そんな木津が、年に一度あるかないかという体調不良に見舞われていた。もともと、試合慣れしていることものあり、緊張で体調を崩すような性格ではなかった。むしろ、本番には強い方だと自分では思っていた。
だが、その朝は違った。胃の奥が鈍く痛み、胸の奥がむかむかと波打つ。空気を吸い込むたび、吐き気が込み上げてくる。

(……やっぱり、緊張してるのか)

 木津はぼんやりと自己分析していた。胃腸の調子の悪さから考えて、原因はそれしか思い当たらなかった。
幼馴染の二人とは別の高校への進学を希望していたため、その日は一人で試験会場へ向かっていた。
いつもなら、頼れる二人が隣にいる。だが、その日は違った。
一人だった。
その事実が、思っていた以上に心細い。

 電車は朝の通勤客や学生で混み合っている。車内は人々のざわめきと靴音、吊り革の揺れる音が微かに重なり、ぎゅうぎゅう詰めの空間に一層の圧迫感を生んでいた。木津は吊り革を握り、必死に吐き気をこらえたが、息を吸うたびに胸の奥でむかむかと波が立つ。
あまりの不快さに、このまま倒れてしまうのではないかという不安が胸を締めつけた。電車の揺れが、まるでその不安を増幅するかのようだ。
もう限界だった。
仕方なく、木津は途中の駅で電車を降りた。
木津は体を支えきれず、ホームの端に腰を落としてしゃがみ、背中を冷たい壁に預け、小さく身をすくめた。

周囲の人々は急ぎ足で過ぎ去る。スーツ姿の大人、制服姿の生徒、荷物を抱えた人――誰も立ち止まらない。世界が一瞬、木津一人を圧し潰そうとしているように感じる。
その時だった。

「大丈夫ですか?」

 人の流れの中から、光のように差し込む声が届く。
振り返ると、一人の男子が立ち止まり、心配そうに手を差し伸べていた。表情は穏やかだが、目の奥には確かな真剣さが滲んでいる。

「凄く顔色悪いですよ」

 そう言って、男子生徒は躊躇なく木津の肩に手を添える。しっかりとした手の感触が、ぎこちなく震える木津の体を支えた。
ゆっくりとホームのベンチまで誘導するその動作の一つひとつが、木津に安心感を与え、緊張が少しずつ溶けていくのを感じた
座らされて初めて、木津は自分の足が少し震えていることに気づいた。硬く握り締めた手のひらが、微かに汗ばんでいるのも感じる。

「入試です? 緊張かな?」

 穏やかな声で尋ねられる。言葉は軽やかだが、その眼差しには確かな思いやりが宿っていた。朝のホームは冷たい空気に満ちている。しかし、その一瞬だけ、世界がほんの少しだけ温かく、柔らかく包まれるように感じられた。

 男子生徒はふと、ホームにある時計に目を向ける。
朝から中学生が制服姿で電車に乗っている理由は、今日に限って一つしかない。
入試会場へ向かう途中だと、自然に察したのだろう。

試験開始までの残り時間の目安として、次の電車の到着を確認しているようだった。
タイムリミットは五十分そこそこだろう。二本ほど電車を見送っても、試験にはなんとか間に合いそうだ。
けれど、時間に余裕はなく、ぎりぎりに近い。だから早く乗った方が安心なのは確かだ。

「大丈夫です。気にしないでください」

 木津はかすれた声でそう答えた。
制服姿の男子生徒もまた、別の中学の生徒だ。つまり、入試に向かう途中なのだ。自分のせいで時間を失わせるわけにはいかない――木津はそう思った。

「心配しないでください。僕がついてますから」

 そう言って、男子生徒は躊躇なく木津の手を握る。

「僕は電車を使わなくても、走れば間に合います! それより、そっちは時間、大丈夫ですか?」

 木津は問いに頷いた。しばらくして、またふと尋ねられる。

「どこ高の受験ですか?」

 受験先の高校を問われたが、木津は吐き気のせいでうまく答えられなかった。代わりに、手にしていた封筒を差し出す。受験票の入った封筒だ。封筒に記された高校の名前をちらりと見た男子生徒は、ぱっと笑顔を木津に向けた。

「この高校なら、あと一駅ですね! 二本くらい電車を見送っても大丈夫そうです。体調を優先しましょ!」

 その声はまっすぐで、どこか無邪気だった。安心させようと思っての行動なのだと、木津はなんとなく分かった。
妙に自信のある笑顔が、ぎこちない自分の胸に小さな安堵をもたらす。吐き気と緊張で固まっていた体が、ほんの少しだけ力を抜けるような感覚に変わった。

 結局、その子は木津の体調が少し落ち着くまで、ずっと傍にいてくれた。ホームのベンチの冷たさと、握られた手の温かさが、対照的に感じられる。その温もりと気遣いは、冬の冷たい空気の中に差し込む、柔らかな光のように木津の心を静かに満たしてくれていた。

たった十数分の出来事だった。
それでも、その子は驚くほど親切だった。木津の背中をゆっくりさすり、落ち着くように穏やかな声をかけてくれる。さらに、鞄の中から小さな薬の箱を取り出した。

「胃腸薬、ありますけど……飲めそうですか?」

 どうやら、偶然、鞄に入っていた市販薬らしい。それでも、その偶然は木津にとって、あまりにもタイミングの良い救いだった。寒さや吐き気で縮こまっていた体が、少しだけ軽くなるような、ほんのわずかな安堵を胸に生む。
男子生徒はホームの売店まで小走りで向かい、水まで買ってきてくれた。さらに、体調不良で冷たくなっていた木津の手を見て、ポケットからホッカイロを取り出した。

「これ、使ってください」

 そう言って、木津の手のひらにそっと握らせる。通勤客や受験生が忙しそうに行き交う朝の駅。誰もが自分の時間に追われ、自分の目的地へ急いでいる。その中で、その子の優しさだけが、少しだけ、この世界からはみ出しているように木津には感じられた。
やがて、ホームに電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。そろそろ次の電車が到着する時間だった。

 すでに二本、電車を逃している。目の前に迫るのは、入試に間に合う本当の意味での最後の電車だった。
プラットホームには冷たい冬の空気が漂い、通勤客や制服姿の学生たちが忙しなく行き交う。その中で、木津の心はまだ少し不安が残っていた。

「あ、ありがとう」

 木津は振り返り、声を絞り出す。恥ずかしさと戸惑いが混ざった、ぎこちない感謝の言葉だった。胸の奥が、ほのかに温かくなるのを感じる。
にこっと笑う表情は、先ほどと変わらず柔らかく温かい。その笑顔を見た瞬間、胸に緊張が少し溶けていくようだった。

「どういたしまして! 僕、あっちの線なので」

 そう言って、慣れた足取りで別方向のホームへ歩き出す姿を見送る。背中からは、この駅が地元であることが自然と伝わってくる。木津は、その仕草の一つひとつから落ち着きと頼もしさを感じた。

「じゃあ、気をつけて」

 軽く手を振る後ろ姿を、木津は目で追った。人混みの向こうへ歩いていく姿は、どこか遠くへ消えていくようにも見え、心にぽっかり穴が空いた気がした。

――その時だった。
数秒もしないうちに、男子生徒は振り返って駆け戻ってくる。

「あ、これ。よかったら」

 手渡されたのは、小さな飴。可愛い絵の袋に包まれたレモンバームの飴だ。

「これ、リラックスできるらしいですよ」

 声は変わらず明るく、気遣いと無邪気さが混ざっていた。

「じゃ、お互い頑張りましょ!」

 電車が発車する数秒前の出来事だった。木津は慌てて口を開く。

「ま、待って――」

 名前を聞こうとしたその瞬間、無情にも電車の扉が閉まり、二人の間に透明な壁ができた。

 ガラス越しに遠ざかる彼の姿を見つめながら、手の中の飴に目を落とす。ほんの短い時間だったけれど、その数分が木津の心に小さな光を差し込んでいた。
 確かに、自分は優しさに触れたのだと、木津は胸の奥に、静かで温かな感覚が残る。
それは、朝の寒さや不安を少しだけ溶かす光のようだった。

 その後、木津はなんとか試験会場にたどり着いた。
駅で助けてくれたあの子のおかげで、吐き気や緊張で震えていた手も、いつの間にか落ち着いていた。
試験中も、最後まで集中して取り組むことができた。
 しかし――
結果は、残念なものだった。
志望校に合格することは叶わず、悔しさが胸にこみ上げる。だが、木津は諦めなかった。

 二次募集をしていた高校の試験を受け、そこで合格を勝ち取った。
その高校は、幼馴染の二人が志望していた学校だ。
偏差値が高く、合格率も低いことで有名な高等学校。木津が受かる可能性は決して高くなかったはずだ。

 それでも――
奇跡のように、合格していた。

 そして迎えた入学式。
春の空気はまだ少し冷たく、校庭の桜はようやく花を開き始めたばかり。木津は校舎の前で、自然と周囲を見渡す。

(頭のいい高校って聞いてたけど……)

 もっと堅苦しく、緊張と真面目一色の空気を想像していた。だが実際には、意外と普通の生徒ばかりだ。
笑い声も聞こえるし、緊張した顔もあれば、初々しくそわそわしている新入生もいる。
その光景に、木津は少し安心していた。

 ――その時だった。

「あれ、あの子……」

 隣の隣のクラスの列に、あの時助けてくれた、あの男子生徒が並んでいた。

(間違いない。あの時の子だ)

 木津はすぐに気づいた。忘れるはずがなかった。

 体調不良で動けなくなっていた自分を助けてくれた相手。
あの時にもらったレモンバームの飴の袋は、今でも大事に持っているくらいなのだから。

 同じ高校に入学したと知った瞬間、木津は何か運命めいたものを感じていた。
だからこそ、いつかお礼を言おうと思っていた。入学してから何度も、話しかけるタイミングを窺いながら。
友達になれたらいい――そんな小さな期待も、心の奥でくすぶっていた。

 だが、その機会は簡単には訪れない。
 クラスは別棟で、校舎も違う。普段の生活では顔を合わせることすら難しい。
 遠くに姿を見かけることはあっても、声を掛ける勇気はなかなか出ない状況だった。

 入学から数十日ほど経った頃、全校集会のため生徒たちは体育館へ向かって移動していた。
ざわめきや足音、制服の袖が触れ合う感触――そんな日常の中で、ふと目の端にあの時の男子生徒の姿が映る。

「見てみて! あのイケメン!」

 興奮した声が耳に届く。

「お前、相変わらずイケメン好きだなぁ」
「カッコいい! 攻めポジ確定だよ!」

 楽しそうに騒いでいるその声の主こそ、あの時の子だった。

 どうやら中学、あるいはそれ以前からの友人らしい男子と話しているらしい。その子は目を輝かせながら、ある男子生徒を目で追っていた。

 その視線の先にいたのは、少し癖のありそうな、不良めいた雰囲気の男子だった。
制服の着こなしはだらしなく、髪も校則ぎりぎりの長さ。真面目一色のこの学校では、確実に目立つタイプだ。

 その子は、そんな相手に、完全に憧れの眼差しを向けていた。
途中で意味のよく分からない言葉も口にしてはいたが。
 木津はその時に理解した。

 ――ああ、この子は。
 こういう、不真面目そうなタイプが好みなんだ。

 その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
言葉にできない、絶望のような感覚。
そして同時に、木津は気づいた。

(……そうか俺、あの子が好きなんだ)

「おい、小野寺。うるさいぞ。移動中でも静かにしろー」

 教師の声が、廊下のざわめきに混ざる。

「わっ、すみません!」
「稔、声でかいって」

 その瞬間、木津はその子の名前を知った。

(おのでらみのる……か)

 こんなに近くにいるのに、稔は木津の存在に気づかない。
あの日の姿とほとんど変わっていないはずなのに。
それでも気づかれないということは――
きっと、稔にとってあの日の出来事は特別なものではなかったのだろう。
誰かを助けることは、きっと日常の一部。「してあげた」という意識すらない、ただ自然な行動。
 だからこそ、記憶にも残っていない。

「……よし」

 木津は決めた。
思い切って、自分を変えようと。
コンタクトレンズに替え、髪を染め、ピアスも開けた。
以前の、地味で目立たなかった自分はもういない。

 気づかれなかったのなら――
今度は、気づかれる存在になればいい。
 
その思いが、胸の奥で小さな炎となった。