稔は今日、異様に心の調子がいい。キャベツに含まれるマグネシウムのおかげで、心がすっと軽くなった気がする。
こんなに大量のキャベツを食べるなんて、滅多にないことだ。健康効果が期待できる成分を摂取できて、なんだか長生きできそうな気分だ。
これで、推し活も推しカプ観察も、もっと長く楽しめそうだ。
血糖スパイクもなく、いつもなら眠くなる昼休み後の授業も、今日は清々しい。
(よし! 今日も推しカプサーチ、発動!)
一番後ろの席に座る稔は、この場所のありがたさを噛みしめる。同じクラスの鳴谷と木津の様子を、こっそり眺められるのだから。
村井は別のクラスだが、業間休みには必ずこのクラスに顔を出す。
攻めふたりに愛される村井。この構図は、もはや神の啓示と言っていい。
やっぱり、妄想の中心は村井受けで決まりだ。
……でも、昼の一件で木津の可愛らしい一面を見てしまった今、木津受け妄想の株も、一気に上昇してしまったのは間違いない。
授業そっちのけで、稔はノートに妄想を書きなぐった。
あのマル秘と堂々と書かれた高橋との交換日記だ。
あんなに痛い目を見ているのに、好きは止められないのがオタクの性分なのだろう。
観察的な文章と「こうであってほしい」という願望が組み合わさり、一つの妄想シチュエーションを作り上げていた。
今回の設定はこうだ。
天然陽キャで無自覚に可愛い木津を、密かに「可愛いな…」と思って思わず強引にキスしてしまう鳴谷――甘々すぎるやつ。
「ふーん。こういうのが好きなんだ」
背後から聞こえた爽やかな声に、稔は肩でビクッと跳ねた。
「むむむむむ、村井くん⁈ どうしてここに⁈」
「授業、とっくに終わってるよ」
村井はそう言って、許可なく稔のノートをぱらりとめくる。
「強引に、ねぇ」
「見ないでええええ!」
まさか、妄想に夢中で授業が終わったことに気づいていないなんて。よほど萌えていたのだろうと、自分でも感心するほどだったが――先日と同じ失態をしてしまった間抜けさに顔が青ざめる。
そのコロコロ変わる表情を面白がってか、村井はニコニコと微笑む。
綺麗な顔は、どこかいたずらっぽい。稔の心臓はまた少し跳ねた。
(この受け、国宝級の美しさです!)
稔は心の中で拍手喝采だった。
(生まれてきてくれてありがとうございます! ご両親の出会いと結婚とその他もろもろ! ご先祖様ありがとうございます!)
「……近い」
眼福だと思っていると、横から木津が割って入り、稔の肩を自分の方に寄せて、村井との距離を数十センチ離した。
「今日は俺の日だって分かってるだろ」
「話しかけるのはルール違反じゃないでしょ」
「だからってなぁ!」
二人の間で、小競り合いが起きた。
これはまさに、村井くんが嫉妬してほしいという行動だ。
いや、待てよ? 二人が受けだとして、鳴谷くんに向けた行動なのか。
稔の妄想は止まらず、無意識に鳴谷を見た。バチっと目が合い、鳴谷が少し顔を赤くしたように見えたが、すぐに顔を逸らされてしまう。
(おっと、これは二人が鳴谷くんにアピールしているんだな?)
そうか、僕はそのための当て馬なんだ。素晴らしいポジション、ありがとうございます。
稔はどこまでも、観測者だった。
「とにかく! 今日は俺なの!」
ぐいっと腕を掴まれ、稔は木津に引き寄せられた。
「稔、帰ろう!」
まだ帰宅準備も終わっていないのに、下校のホームルームすら終わっていたことに、稔は思わず目を丸くする。
木津は稔の机の上の教科書やノートを無理やりカバンに詰め込み、ぐいっと腕を掴んだまま教室を後にした。
下校の時間。稔は、痛いほど自分が木津から好意を向けられていることに気づく。
学校で三人が一緒にいれば、周りの目もあって、自分の存在はモブだとはっきり分かる。けれど、こうして二人きりで過ごしていると、木津から向けられる感情の温度が伝わってきてしまう。
――いやいや、だめだめ。気を確かに。
平和なオタク生活を守りたい。自分がBL展開の対象になったら、平穏が崩れる。
完璧なカップリングに、異物混入。そんなもの、平和でもなんでもない。
それはもう、公式カプにモブが乱入するレベルの大事故。
いや、大戦争である。
稔は、勘違いしかけた自分を必死に押さえ込んだ。
「それでな、」
木津は楽しそうに、稔の横で話題を振ってくる。鳴谷や村井に向ける笑顔とは、どこか違う雰囲気だった。
「稔。なあ、聞いてるか?」
ただ相槌を打っていただけだと気づかれたのか、木津が稔の顔を覗き込んできた。その距離に、稔は思わずたじろぐ。
大きな犬みたいな、人懐っこい雰囲気。素直に、可愛いと思ってしまう。
どうしてこんな素敵な人が、自分を気にかけてくれるのだろう。
当て馬ポジションだと言い聞かせてはいるものの、本当は何かが違うと分かっている自分が、稔は少し怖かった。
「うん。聞いてる」
「じゃあ、さっき話してたこと復唱してみ?」
「え? 全部はムリだよ?」
「一番最後の方」
「えっと……」
一番最後の話題はなんだっただろう。キャベツを切った理由だっけ。
稔は自信なさげに答えた。
「キャベツは栄養価がいいってやつ?」
「そうそう。なんだ、ちゃんと聞いてくれてた」
キャベツは確かに栄養価が高い。
「あんなにキャベツ切ってくるとは思わなかったな」
昼休みの弁当を思い出し、稔はくすっと笑いを漏らした。
「ストレス緩和とメンタル回復になるってテレビでやってたからさ~。稔、最近疲れた顔してるから」
誰のせいだと思っているんだ。三人のせいだろ。
そう言いたい気持ちは光の速さで現れた。だが、あまりに速すぎて言葉として捕まえることができない。
結局、稔はにこにこと笑うだけだった。
「稔に食べさせようと思ってたら、めっちゃ切ってたわキャベツ」
なぜキャベツにこだわったかはさておき、不調に気づくほど気にかけてくれている事に加え、自分のために行動してくれていた事実に、稔は小さな疑問を膨らませる。
なぜ、自分なのか。
当て馬だろうが、友情だろうが、恋愛だろうが、自分に向けられるその感情の理由が、どうにも分からない。
以前、村井に「どうして自分を好きになったのか」と尋ねたことがある。
けれど村井は笑っただけで、答えはくれなかった。
ただ、ぽつりと「好きになるのに理由なんているの?」そう言っただけだった。
謎の多い村井のことだから、それ以上は深く聞かなかった。けれど、木津なら答えてくれるのではないだろうか。
稔は勇気を出して口を開いた。
「木津くんは、どうして僕なの?」
その質問に、木津はぴたりと足を止めた。
「何が?」
「えっと……どうして僕を気にかけてくれるのかなって」
木津は、少しだけ間を置いた。
「覚えてない?」
「え? なにが?」
「俺と初めて話した日」
なんだったっけ、と稔は記憶を遡る。
木津を知ったのは、確かクラス替えで同じクラスになった時だ。教師が「きづ」と呼び、本人が「こずです」と言い直したのが妙に印象に残っている。
けれど、話をした記憶はない。
同じクラスとはいえ、会話を交わしたことなどあっただろうか。
思い出せない。
いつ、自分は木津と接点を持ったのだろう。
疑問は、さらに深まる。
「うーん……最近まで話したことなんてなかったと思うんだけど……」
そう言うと、木津は少しだけ残念そうな表情を見せた。
その顔を見た瞬間、申し訳なさなのか、それとも別の感情なのか、稔の胸がきゅっと締めつけられた。
「うーん、まあいいじゃん。そんなの。正直ハズい」
「え、気になるんだけど……」
「そうだなぁ……入試の日だな」
入試の日。もう一年以上も前のことだ。
そんなものを思い出せるだろうかと、稔は首を傾げながら記憶を探った。
そういえばあの日、稔は試験開始ぎりぎりに教室へ飛び込んだ。本来なら、もっと余裕で着くはずだったのに。
(……どうしてだっけ)
ちゃんと時間には余裕を持って家を出た。それなのに、なぜか遅れかけて――
「あ……」
ふいに、記憶の奥で何かが引っかかった。
入試の日。そうだ。あの日――
ひとりの男子に、声をかけた。
……まさか。
稔は、ゆっくりと木津を見上げた。
こんなに大量のキャベツを食べるなんて、滅多にないことだ。健康効果が期待できる成分を摂取できて、なんだか長生きできそうな気分だ。
これで、推し活も推しカプ観察も、もっと長く楽しめそうだ。
血糖スパイクもなく、いつもなら眠くなる昼休み後の授業も、今日は清々しい。
(よし! 今日も推しカプサーチ、発動!)
一番後ろの席に座る稔は、この場所のありがたさを噛みしめる。同じクラスの鳴谷と木津の様子を、こっそり眺められるのだから。
村井は別のクラスだが、業間休みには必ずこのクラスに顔を出す。
攻めふたりに愛される村井。この構図は、もはや神の啓示と言っていい。
やっぱり、妄想の中心は村井受けで決まりだ。
……でも、昼の一件で木津の可愛らしい一面を見てしまった今、木津受け妄想の株も、一気に上昇してしまったのは間違いない。
授業そっちのけで、稔はノートに妄想を書きなぐった。
あのマル秘と堂々と書かれた高橋との交換日記だ。
あんなに痛い目を見ているのに、好きは止められないのがオタクの性分なのだろう。
観察的な文章と「こうであってほしい」という願望が組み合わさり、一つの妄想シチュエーションを作り上げていた。
今回の設定はこうだ。
天然陽キャで無自覚に可愛い木津を、密かに「可愛いな…」と思って思わず強引にキスしてしまう鳴谷――甘々すぎるやつ。
「ふーん。こういうのが好きなんだ」
背後から聞こえた爽やかな声に、稔は肩でビクッと跳ねた。
「むむむむむ、村井くん⁈ どうしてここに⁈」
「授業、とっくに終わってるよ」
村井はそう言って、許可なく稔のノートをぱらりとめくる。
「強引に、ねぇ」
「見ないでええええ!」
まさか、妄想に夢中で授業が終わったことに気づいていないなんて。よほど萌えていたのだろうと、自分でも感心するほどだったが――先日と同じ失態をしてしまった間抜けさに顔が青ざめる。
そのコロコロ変わる表情を面白がってか、村井はニコニコと微笑む。
綺麗な顔は、どこかいたずらっぽい。稔の心臓はまた少し跳ねた。
(この受け、国宝級の美しさです!)
稔は心の中で拍手喝采だった。
(生まれてきてくれてありがとうございます! ご両親の出会いと結婚とその他もろもろ! ご先祖様ありがとうございます!)
「……近い」
眼福だと思っていると、横から木津が割って入り、稔の肩を自分の方に寄せて、村井との距離を数十センチ離した。
「今日は俺の日だって分かってるだろ」
「話しかけるのはルール違反じゃないでしょ」
「だからってなぁ!」
二人の間で、小競り合いが起きた。
これはまさに、村井くんが嫉妬してほしいという行動だ。
いや、待てよ? 二人が受けだとして、鳴谷くんに向けた行動なのか。
稔の妄想は止まらず、無意識に鳴谷を見た。バチっと目が合い、鳴谷が少し顔を赤くしたように見えたが、すぐに顔を逸らされてしまう。
(おっと、これは二人が鳴谷くんにアピールしているんだな?)
そうか、僕はそのための当て馬なんだ。素晴らしいポジション、ありがとうございます。
稔はどこまでも、観測者だった。
「とにかく! 今日は俺なの!」
ぐいっと腕を掴まれ、稔は木津に引き寄せられた。
「稔、帰ろう!」
まだ帰宅準備も終わっていないのに、下校のホームルームすら終わっていたことに、稔は思わず目を丸くする。
木津は稔の机の上の教科書やノートを無理やりカバンに詰め込み、ぐいっと腕を掴んだまま教室を後にした。
下校の時間。稔は、痛いほど自分が木津から好意を向けられていることに気づく。
学校で三人が一緒にいれば、周りの目もあって、自分の存在はモブだとはっきり分かる。けれど、こうして二人きりで過ごしていると、木津から向けられる感情の温度が伝わってきてしまう。
――いやいや、だめだめ。気を確かに。
平和なオタク生活を守りたい。自分がBL展開の対象になったら、平穏が崩れる。
完璧なカップリングに、異物混入。そんなもの、平和でもなんでもない。
それはもう、公式カプにモブが乱入するレベルの大事故。
いや、大戦争である。
稔は、勘違いしかけた自分を必死に押さえ込んだ。
「それでな、」
木津は楽しそうに、稔の横で話題を振ってくる。鳴谷や村井に向ける笑顔とは、どこか違う雰囲気だった。
「稔。なあ、聞いてるか?」
ただ相槌を打っていただけだと気づかれたのか、木津が稔の顔を覗き込んできた。その距離に、稔は思わずたじろぐ。
大きな犬みたいな、人懐っこい雰囲気。素直に、可愛いと思ってしまう。
どうしてこんな素敵な人が、自分を気にかけてくれるのだろう。
当て馬ポジションだと言い聞かせてはいるものの、本当は何かが違うと分かっている自分が、稔は少し怖かった。
「うん。聞いてる」
「じゃあ、さっき話してたこと復唱してみ?」
「え? 全部はムリだよ?」
「一番最後の方」
「えっと……」
一番最後の話題はなんだっただろう。キャベツを切った理由だっけ。
稔は自信なさげに答えた。
「キャベツは栄養価がいいってやつ?」
「そうそう。なんだ、ちゃんと聞いてくれてた」
キャベツは確かに栄養価が高い。
「あんなにキャベツ切ってくるとは思わなかったな」
昼休みの弁当を思い出し、稔はくすっと笑いを漏らした。
「ストレス緩和とメンタル回復になるってテレビでやってたからさ~。稔、最近疲れた顔してるから」
誰のせいだと思っているんだ。三人のせいだろ。
そう言いたい気持ちは光の速さで現れた。だが、あまりに速すぎて言葉として捕まえることができない。
結局、稔はにこにこと笑うだけだった。
「稔に食べさせようと思ってたら、めっちゃ切ってたわキャベツ」
なぜキャベツにこだわったかはさておき、不調に気づくほど気にかけてくれている事に加え、自分のために行動してくれていた事実に、稔は小さな疑問を膨らませる。
なぜ、自分なのか。
当て馬だろうが、友情だろうが、恋愛だろうが、自分に向けられるその感情の理由が、どうにも分からない。
以前、村井に「どうして自分を好きになったのか」と尋ねたことがある。
けれど村井は笑っただけで、答えはくれなかった。
ただ、ぽつりと「好きになるのに理由なんているの?」そう言っただけだった。
謎の多い村井のことだから、それ以上は深く聞かなかった。けれど、木津なら答えてくれるのではないだろうか。
稔は勇気を出して口を開いた。
「木津くんは、どうして僕なの?」
その質問に、木津はぴたりと足を止めた。
「何が?」
「えっと……どうして僕を気にかけてくれるのかなって」
木津は、少しだけ間を置いた。
「覚えてない?」
「え? なにが?」
「俺と初めて話した日」
なんだったっけ、と稔は記憶を遡る。
木津を知ったのは、確かクラス替えで同じクラスになった時だ。教師が「きづ」と呼び、本人が「こずです」と言い直したのが妙に印象に残っている。
けれど、話をした記憶はない。
同じクラスとはいえ、会話を交わしたことなどあっただろうか。
思い出せない。
いつ、自分は木津と接点を持ったのだろう。
疑問は、さらに深まる。
「うーん……最近まで話したことなんてなかったと思うんだけど……」
そう言うと、木津は少しだけ残念そうな表情を見せた。
その顔を見た瞬間、申し訳なさなのか、それとも別の感情なのか、稔の胸がきゅっと締めつけられた。
「うーん、まあいいじゃん。そんなの。正直ハズい」
「え、気になるんだけど……」
「そうだなぁ……入試の日だな」
入試の日。もう一年以上も前のことだ。
そんなものを思い出せるだろうかと、稔は首を傾げながら記憶を探った。
そういえばあの日、稔は試験開始ぎりぎりに教室へ飛び込んだ。本来なら、もっと余裕で着くはずだったのに。
(……どうしてだっけ)
ちゃんと時間には余裕を持って家を出た。それなのに、なぜか遅れかけて――
「あ……」
ふいに、記憶の奥で何かが引っかかった。
入試の日。そうだ。あの日――
ひとりの男子に、声をかけた。
……まさか。
稔は、ゆっくりと木津を見上げた。

