腐男子くんは三人の溺愛から逃げられない~推しカプ観察してたら本人たちにバレました~

 カフェの一件から、数日が経った。
あの日から稔の学校生活は、静かで平和に――……というわけには、まったくいかなかった。

「これ、稔くん好きでしょ?」

 差し出されたのは、ふんわり焼けた卵焼き。それをつまんでいる箸の持ち主は――校内でも有名な、あの村井だ。
校内の王子様が、平凡どころかむしろ地味寄りのオタクに餌付けをしている。

(待ってください今、さらっと名前呼びましたよね?)

 数日前まで、村井は確かに「小野寺くん」と呼んでいた。それがカフェの一件以来、なぜか自然に「稔くん」へと変わっている。
しかもまるで、ずっとそう呼んでいたかのような顔で。

 場所は教室。時間は昼休み。つまりここは――お弁当交換という名の公開処刑会場である。
 周囲ではクラスメイトたちが昼食を広げているが、視線のいくつかが明らかにこちらへ向いていた。 ひそひそと何かを囁く声まで聞こえてくる気がする。

(距離の詰め方、急すぎません? 僕の心の準備、まだ説明書すら開いてないんですけど?)

 混乱している稔をよそに、村井はまったく気にした様子もない。

「はい、あーん」

 そう言って、村井は当たり前のように箸を差し出してくる。

(待って待って……その箸、さっき口つけましたよね?)

 それはつまり――間接キスというやつではないだろうか。
稔の頭の中で、警報のような声が響いた。

「国家機密レベルの接触です!」
「え? なにが?」

 どうやら、一部がそのまま声に出てしまっていたらしい。
村井はきょとんと首をかしげたまま、箸を持つ手を止めている。 そして相変わらず、卵焼きは稔の口元すぐそこにある。 その距離が近い。近すぎる。

(……いや、待てよ?)

 ふと、オタク特有の思考回路が働く。

(この卵焼き、持ち帰って他の二人に献上すれば実質タダでは?)

 推しからの供給を推しに還元する――それはある意味、完璧な循環である。
 そんなくだらない計算をしている間にも、

「食べてよ?」

 村井はにこにこしながら、卵焼きを箸でつまみ、稔の口元へと差し出してくる。
 しかも一歩、距離を詰めて。
 ――完全に、逃げ道を塞ぐ形で。

(待って待って待って待って! 無理!)

「食べないと、チューしちゃうよ」

 にこっと王子様スマイルを向けられ――

(それはダメぇぇぇ‼)

 稔は叫びそうになるのを必死に飲み込み、観念して卵焼きを口に含んだ。
卵の柔らかさが舌にほどけ、そのあとから塩気が静かに広がった。……美味しい。美味しいけれど、問題はそこではない。

(殺される……周りの視線に殺される……)

 教室の空気が、確実にざわついている。
昼休みのざわめきの中で、こちらだけが妙に浮いていた。村井を狙う女子たちの視線が、レーザーポインターのように稔へ突き刺さる。 むしろ男子たちまで「なんだあれは」という顔で見ている。

(ごめんなさい……僕はただのモブなのに……背景のはずなのに……)

「稔くん、口小さいんだね。ほら、口の端ついてる」

 村井がそう言って、自然な仕草で稔の口元へ手を伸ばした。
指先が、そっと触れたその瞬間、稔の感情メーターは、静かに限界を突破した。
顔を真っ赤にして固まる稔を見て、村井が楽しそうに笑う。からかうような、けれどどこか甘い笑みで。
そして――いたずらっぽい笑顔を向けたまま、顔を近づけてきた。

(これは、ヤバい……。ヤバいヤバいヤバいヤバい)

 ただでさえ教室には観客が多い。そんな場所で、村井が今しようとしていることは――あまりにも危険すぎた。

(逃げなきゃ)

 人目なんて気にしていないと、はっきり分かる距離の詰め方。
稔の頭の中で、警報が鳴りっぱなしになる。
ここで何か起きたら、翌日には校内ニュースになるレベルだ。
けれど本人は、そんなことなどまったく気にしていない顔をしている。

(止めなきゃ――)

 そう思うのに。
稔の体は、金縛りにでもあったように動かない。
唇が、ゆっくりと近づいてくる。
その時だった。

――ダンッ‼

 勢いよく何かが叩きつけられる音が、二人の間に割り込んだ。
教科書を縦に構え、盾のように二人の距離を遮ったのは――木津だった。

「それはダメでーす。抜け駆け禁止でーす」

 軽い口調。でも、明らかに機嫌が悪い。

「いいじゃない。ちょっとくらい」
「ダメなものはダメ!」
「残念」

 村井は笑顔のままだが、木津はじっと睨みつけている。
後ろでは、鳴谷が腕を組んで眺めていた。

 その光景を目にして、稔の脳内で、電球がぴかっと光った。

(なるほど!これは嫉妬させるためのイベントだ!)

 そう考えれば、すべて説明がつく。
村井が距離を詰める。木津が止める。鳴谷が無言で圧を出す。
――完全に恋愛ドラマの構図。

(あ……これ、僕……当て馬ポジションだ)

そして次の瞬間。

(よかったぁぁぁぁ!)

 稔は心の中で、全力で安堵した。
もし本気で好かれているなんて展開だったら、それこそ人生のバグである。そんな確率、ソシャゲのSSRより低い。
だからこれは――恋愛イベントの演出。
つまり自分は、安全な当て馬NPC。恋愛を盛り上げるためのスパイス要員だ。
 そう思えば、妙に納得がいった。
 自分が三人から好意を向けられるわけがない。だからきっとこれは、村井が嫉妬してほしくてやっている行動なのだ。
平凡モブ男なんぞが村井を好きになってはいけない。その自覚くらい、稔にもある。
だからこそ。
絶対に好きにならないであろう無害なモブとして、自分が選ばれたのだろう。
つまり自分は――『当て馬』。

(うん、それしかない!)

 稔は、心の底から安堵した。

 ここ数日。なぜか入れ替わり立ち替わりで、稔の相手をしている男子三人。
今日は、村井の日だ。

 毎日、三人のうち誰か一人が、当然の顔で稔の隣にいる。
こうなったのも、稔がキャパオーバーで逃げ出そうとしたのがきっかけだ。それを見た三人が、「じゃあ順番でいこう」みたいなノリで、勝手に決めた。
稔は一切関与していない。完全に三人会議で決まったことである。
――そして今、その結果がこれだ。

どう見ても異常空間である。
当然ながら、校内ではすでに有名だった。「あそこ見ろ」「またやってる」と、遠巻きに観察される謎スポット。

(大丈夫ですみなさん!)

 稔は心の中で必死に叫ぶ。

(安心してください!僕は当て馬です!)

 誰も聞いていないが、稔の心の中では全力の弁明が繰り広げられていた。


「稔。明日は俺だからな」

(ちょっ⁉木津くんまで名前呼び⁈しかも呼び捨て⁉)

 稔は木津をちらっと見て、次に村井を見る。
村井は笑顔のまま。
だが、空気がちょっとだけピリついている。

(あー。これ完全に嫉妬させるためのやつですね。オーケー把握です)

 稔は腐男子の妄想エンジンを全開起動した。

 ――よし、安心。
そう思っているのは、どうやら、本人だけだった。