文化祭当日。
空は雲一つない青空で、この時期にしては近年稀に見る暖かさだった。夏とまではいかないが、春のような柔らかな空気が校庭を包んでいる。
校舎の窓からは笑い声や音楽が漏れ、生徒たちは昨日の寒さは何だったのかと噂しているほどだった。
祭りの熱気も加わり、上着を脱ぐ生徒の姿もちらほら見える。
土曜日に開催される文化祭には、保護者や近隣住民、さらには他校の生徒たちまで足を運んでいた。廊下も校庭も人であふれ、どの教室からも楽しそうな声が聞こえてくる。
それぞれのクラスが趣向を凝らした催しで賑わう中、特に人気を集めているのがコスプレカフェだった。
大半は「本物の王子様がいる」という噂を聞きつけた女子たちだ。
その王子様が誰なのかは――言うまでもないだろう。
一方、歌声喫茶をしている稔のクラスは平和だった。
平和で、平和で、平和すぎるほどに暇だった。
クラスメイトの保護者や近所のお年寄りが、若者たちの歌声を聞きながら湯呑みを傾けている。手拍子をする人もいて、どこかのどかな空気が流れていた。
とても平凡で、穏やかな時間。その分、刺激は少ない。
「歌声喫茶なんて誰が提案したんだよ」
そんな声が生徒の間で上がるくらいには、暇だった。
そもそも歌声喫茶は、夏の話し合いで余った企画の一つだ。クラスの団結力をアピールするのが目的という建前だが、本音は――許可された企画の中で、最後まで残っていた案の中で一番ましだった。それだけの理由だった。
お茶を提供しても、客の入れ替わりはほとんどない。教室には生徒の方が余っている状態だった。
稔もその一人である。
準備をたくさん手伝ったからと、クラスの女子が気を利かせて稔の自由時間を多めに作ってくれた。そのおかげで、余計に暇になってしまった。担任から差し入れでもらったドーナツを小分け用の袋に入れ、どこで食べようかと校内をぶらつく。
友達の高橋は、自分のクラスの催し――コスプレカフェで忙しい。あの様子では、一緒に回る余裕はなさそうだった。
稔の家族も来たには来たが、挨拶だけしてすぐ帰ってしまった。
結局、稔は一人で校内を歩いていた。
校舎を出ると、外の空気は予想以上の暖かさだった。柔らかな風が吹き抜け、校庭の旗やポスターを揺らしている。
その時、視界の端に鳴谷の姿が入った。
同じく暇なのだろうか。鳴谷も一人で、どこかへ向かって歩いている。
ふと、頭上からキャーキャーという女子の声が聞こえてきた。
すぐに分かった。コスプレカフェだ。女子たちが騒ぐ理由は一つしかない。
それほど、村井の王子様は完璧なのだ。
ふっと、温かい空気に混じって香ばしい匂いが漂ってくる。塩気のある、美味しそうな香り。
校庭に並ぶ屋台からだった。
そこで、稔の目に入ったのは木津の姿だ。
サッカー部の手伝いだろうか。小鷹の隣でフランクフルトを焼いている。
炭火の煙がゆらゆらと上がっていた。
稔は、三人をカップリングではなく、個々の推しとして見ることにした。
無理にこの三人にこだわる必要はない。そう思えるようになった途端、妄想は驚くほど自由に広がった。
昨日も、別のクラスの男子二人や、先輩後輩なのに妙に仲のいい男子二人を見かけて――妄想はシャボン玉のように次々と浮かび上がり、空いっぱいに広がっていった。
それだけで嬉しかった。
そのうえ、三人を断ったことで、どこか清々しい気持ちでいる。――つもりだった。
寂しい。
それが、稔の本音だった。
三人とは付き合えないと断った手前、一緒に回ろうなんて言えるはずもない。賑やかな文化祭の中で、一人で歩いていると、その寂しさが余計に浮き上がってくる。
その矢先だった。
「稔先輩!」
元気な声が飛んできた。
振り向くと、小鷹がこちらに駆けてくる。ついさっきまで屋台でフランクフルトを焼いていたはずだ。
「あれ? 小鷹くん、さっきフランクフルト焼いてなかった?」
「焼いてました!丁度休憩なのと、先輩が見えたから!」
そう言って、小鷹は焼きたてのフランクフルトを差し出してくる。香ばしい匂いがふわりと漂った。
「え? いくら?」
「いらないですよ。その代わり、俺と回ってください。彼女に振られたんですよ~! やっぱり俺には先輩しかいない!」
調子のいい言葉だった。
惚れやすく、そして戻るのも早い。木津が言っていた通りだと、稔は思った。
「ごめんね。好意は嬉しいけど、友達止まりでお願いしたいかな」
稔ははっきりと断った。今までの自分の行動を反省し、律するかのように。
「そうですか……でも、友達からでも大丈夫です!」
まだ次の恋に出会っていないからだろう。小鷹は一瞬、しゅんとした表情を見せた。まるで犬の耳が垂れたかのようだった。けれどすぐに顔を上げ、諦めない声を上げる。
「一緒には回れますよね?」
「うん……まあ、それくらいなら」
誤解されないように、と思うものの。断るのは難しいと判断した稔は、しぶしぶ承諾した。
自分の行動がいかに軽率なのか――この前わかったばかりなのに。
稔の優しさは、時に残酷だった。
稔はドーナツを食べながら、小鷹と校内を歩く。いつもの学校らしい雰囲気はなく、見たことのない人であふれていた。
そこで目に入るのは、稔の妄想にぴったりな同性グループたち。見ているだけでも眼福だった。
(あの子はきっと、あの人が好きで……あー、あっちは執着攻めの当て馬様だ~!)
そんなことを、さらりと頭の中で組み立てる。
妄想が戻ってきたことが、稔には何よりの安心だった。
「あれ? 小鷹くん?」
ふと気づく。妄想に気を取られているうちに、小鷹が先を歩いていた。
それに遅れて気づいた小鷹が、慌てたように戻ってくる。
「すみません先輩。俺、足早かったですね」
「ううん。僕もよそ見してたから」
小鷹の歩く速さは、普通か、やや早めといったところだろう。普通の男子生徒なら、同じテンポで歩けるくらいの速さだ。
けれど稔は背が低い。他の男子生徒よりも一歩、いや二歩ほど遅くなる。
だから、いつもちょこちょこと小走りになるのが当たり前だった。
木津と歩いた時も。村井と帰った時も。
二人とも、合わせてくれようと少し速度を落としてくれていた。それでも稔にとっては、いつもより足早な速さだった。
ふと気づく。鳴谷は、ぎこちないながらも歩幅を合わせてくれていたのだ。
ただ速度を落としただけではない。稔に合わせた歩幅だった。
自分が無理に速度を上げなくてもいい、ちょうどいい足取り。
けれど、それが申し訳なくて少し足早になったとき――鳴谷は「時間が許すなら、もう少しゆっくり歩こう」と提案してくれたことを思い出す。
一緒にいたいという気持ちもあったのかもしれない。けれど今思えば、稔の歩幅に合わせた気遣いだったのだろう。
(鳴谷くんは、いつも優しい)
ふわっと温かい気持ちが胸に広がる。
三人の中で一番関わりが少なかったのは鳴谷だった。それなのに、なぜか一番印象に残っているのも鳴谷だった。
静かで、いつも聞き手で。たまにぐいっと踏み込んでくることはあるけれど、基本的には誰よりも相手を優先している。
同じクラスになってから、ずっと観察してきたのだから。
当時は、カップリングの攻め役としてしか見ていなかった。けれど思い返してみれば、鳴谷はいつも一歩引いて周りを助けるような人だった。
(提出物のノートを職員室に持って行くとき、手伝ってくれたことあったっけ)
二年に上がってすぐ。鳴谷と話したきっかけは、それだった。
そのときも、歩きやすかったのを覚えている。
歩幅が、楽だった。
今思えば、あのときはノートの重さばかり気にしていて、鳴谷の様子には目が向いていなかった。
きっと新聞配達のときのように、ぎこちない歩き方をしていたのだろう。
稔はくすっと笑みをこぼした。
(あれがきっかけで、鳴谷くんを見るようになったんだっけ)
そこから鳴谷を見ているうちに、木津や村井と幼馴染だと知り、妄想が広がった思い出。
きっかけがそれでなくても、いずれはあの三人を知れば妄想の糧になっていたのは間違いないだろう。
あの頃は、きっと適切な距離だった。けれど一度近くなってしまった距離が離れると、それは違う形になる。
その距離に名前をつけるなら――寂しさ。それに尽きる。
「先輩! 手、繋ぎましょ!」
離れないようにという意味で言ったのだろう。けれど稔は、その提案を断った。
なぜなら――
「この学校、文化祭で手を繋いで校内を一周すると永遠に結ばれるって噂じゃないですか!」
小鷹の発言に、稔は困ったような顔を浮かべた。
そう、それはこの高校の言い伝えだ。昔、カップルが手を繋いで文化祭を回り、今も幸せに暮らしているという話。
そして、途中で手を離した相手とは永遠に結ばれない――そんな噂もあった。
もちろん、偶然の一致が生んだ話だろう。けれどこういう類の話は、若者にとっては格好の話題だった。
小鷹も、それを知っていて軽い調子で提案したのだろう。
稔は噂を信じる方でも、信じない方でもない。自分の都合で解釈するタイプではある。
けれど――どうしてか、この手の願掛けのようなものには乗らない方がいい気がしてしまう。
これ以上考えると泥沼にはまりそうで。
「ダメですか?」
小鷹が不満そうに声を漏らす。
稔はその圧に負けじと、両手を後ろに回した。その気はない、と体で主張する。
すると小鷹は、残念そうに肩を落とした。
「とりあえず、人多いんで、あっち行きましょ。空いてそうですよ」
そう言って向かった先は、以前高橋と喧嘩をした裏校舎だった。
ちらほらと生徒の姿はあるものの、表の賑わいに比べれば人は少ない。どこか静かで、文化祭の喧騒から少しだけ切り離された場所だった。
「ここをスタート地点にして、手を繋いで歩くカップルが多いらしいですよ……」
そう言いながら、小鷹は周囲を見回す。
確かに、並んで歩く男女の姿がいくつか見える。
――自分たちもカップルみたいですね。
そんなことを言いたげな雰囲気が、手に取るように分かった。
さすがの稔でも分かるのだから、小鷹は稔よりずっと感情が表に出やすいタイプなのだろう。
ふと、そのときだった。
目の端に、見慣れた生徒の姿が入る。
鳴谷だった。
見たことない女子生徒と、何か話しているようだった。
微笑みながらも涙目になっている女子を、気遣うようにしている様子が目に入った。
――告白の場面なのかもしれない。
(あの子の表情……まさか、もう成立したの?)
自分が振ったせいで、鳴谷は他の誰かを好きになったのかもしれない――胸がぎゅっと締めつけられるように痛む。
その時だった。
女子生徒が、鳴谷の腕を引いたのが目に入る。
稔の心臓が、ドクンと重く鈍い音を立てた。
そのまま歩き出しそうな勢いだった。
「だめ……。
手を繋いで歩いたら、だめ」
思わず口からこぼれてしまった言葉だった。
声はあまりにも弱く、隣にいた小鷹ですら気づかないほど小さかった。
咄嗟だった。自分でも気づかないうちに、まっすぐ鳴谷のもとへ駆け寄っていた。
「だめ!」
自分でも驚くほど、声が張り上がっていた。
稔は鳴谷の腕を強く引っ張っていた。
「お……小野寺?」
鳴谷の驚いた声が耳に入る。いつも落ち着いている鳴谷からは、想像もつかない声だった。
彼はこれから、どれだけ稔の知らない顔を見せてくれるのだろう。
もっと知りたい――。
そんなことを考えている場合じゃないのに、稔の気持ちは追いつかない。
「どうした?」
そっと頬に、鳴谷の手が触れる。
裏校舎の冷たい空気に、どれくらいさらされていたのだろう。そう思った瞬間、鳴谷の隣にいる女子の存在が目に入る。
――憎い。
そんな感情が胸の奥から込み上げた。
冷静になれない。妄想もできない。不安だけが残っている。
怖い。苦しい。
息が吸えない。
「鳴谷くん! 学校の噂、知ってる⁈ 手を繋いじゃダメ!」
「おい、落ち着け小野寺。深呼吸しろ」
声が荒くなるのと同時に、呼吸がうまくできなくなる。
苦しそうに息をつく稔に気づき、鳴谷は正面から抱きかかえるようにして背中をさすった。
温かな体温が、稔を包む。
ゆっくりと呼吸を合わせるように撫でられる手は、不思議と心地よかった。
はっと、稔は我に返る。
――今、自分はとんでもない失態をしたのではないか。
気づけば、周りにはちらほらと人だかりができていた。
あれだけ大きな声を出したのだ。喧嘩でも起きたのかと、様子を見に来たのだろう。
「青史くん、その子、大丈夫?」
心配している色を混ぜた、花のように優しい声が稔の耳に届く。
稔はぞわりと背筋を凍らせる。この子に対して自分が抱いた感情を、稔は、はっきり覚えていた。
――明確な嫌悪だった。
「おい、青史どうした?」
騒ぎに気づいた木津が、人混みを縫って駆け寄ってくる。その中心にいるのが鳴谷だと気づいたのだろう。
「あれ? 稔?」
鳴谷の腕の中にいるのが誰なのか、木津はすぐに理解した。
「ちょっと、何騒ぎ起こしてんの?」
続けて姿を現したのは、ジャージ姿の村井だった。
「瑞穂、お前持ち場はどうした」
「俺にだって休憩くらい頂戴よ。稔くん探してたんだけど、見つからなくてさ。たけの所で休んでたら……なにこの騒ぎ」
鳴谷の問いに、村井は腕を組んだ。
まるで保護者か担任のように、これから説教でも始めそうな雰囲気だ。
しかし、鳴谷の腕の中にいるのが稔だと気づくと、眉をひそめた。
「なに? 稔くん独り占めする気?」
「おい、待て。今そんな状況じゃないだろ」
不機嫌な声を出し始めた村井を、木津が慌てて止める。
「あれ? 武紀~ここにいたの~!」
泣きそうな顔の女子が、木津に向かって駆け寄ってきた。
「母さん!」
その言葉に、稔は思わず振り向いた。
――いや、稔だけではない。その場にいた全員の視線が、彼女に集まったに違いない。
「聞いてぇ~。コンタクト落としちゃってさぁ」
「いやいや、コンタクトより何その格好」
「なんかね、上級生の催しで制服体験みたいなのやってて、着せてもらったの!母さん、とっても若返った気持ちになってはしゃいでたらコンタクト落としちゃって。父さん別行動だし~。そしたら青史くんが気づいてくれて、肩貸してくれるって言ってね~」
見た目からは想像できない、おばさん特有の、止まらぬおしゃべりが始まった。
「いや待って。親のミニスカ、まじで勘弁だわ」
「ちなみに父さんも制服着てるわ」
その言葉の直後だった。
遅れてやってきたのは、木津の父だった。
幼顔の母親とは違って渋みのある顔立ちだが、制服もなかなか似合っている。
「夫婦揃って何やってんだ!」
ワイワイと、木津家によるコントのような空気が広がった。
その様子を見て、周りの生徒たちもくすくすと笑っている。
「天使だ……」
その空気をあえて読まないのは、小鷹だった。
惚れやすいと名高い小鷹のハートは、すっかり木津母へ向けられていた。
「よければ俺と一緒に回りませんか⁈」
「あら~優しい!」
「おい、小鷹! こいつ俺の母さんだぞ!五十なるんだぞ⁈」
「初めまして! 中学から木津先輩の後輩の小鷹です!」
「あらあら~」
「母さんだめだ! こいつ惚れやすいんだから!」
「人妻でもいいかしら~?」
その言葉に驚いたのは木津の父親だった。
「母さん⁈」
木津父の驚いた声が、その場にさらに笑いを広げた。
天然なのか、それともからかって遊んでいるのか。掴みどころのない女性だということだけは、はっきり分かった。
稔は、内心ほっとしていた。
年齢など関係ない。けれど――何より既婚者だったことに、安堵していた。
鳴谷が、既婚者を選ぶはずがない。そんな、妙な安心だった。
(ん? なんで僕、安心してるんだ?)
そのとき、稔は気づく。
まだ鳴谷の腕の中にいることに。
「小野寺? 落ち着いたか?」
顔が近い。
あまりの距離の近さに、稔の体が一気に熱を帯びた。
顔も、耳も、手も、足も。何もかもが熱い。
(待って待って待って待って)
自分の行動を整理したいのに、鳴谷が近すぎてそれどころではない。
けれど――整理しなくても分かる。
単純な稔ですら、自分の気持ちを理解できた。
(どうしよう……僕――鳴谷くんが、好きなのかも……)
まだ、今は。かも、止まりだけれど。
ふと、手を握られていることに気づく。安心させるように、握ってくれていたのだろう。
「落ち着いたか。歩けそうか?」
そう言って手を離そうとした、そのときだった。
「ダメ!」
心よりも先に、身体と言葉が動いた。
「小野寺?」
「離したら……一生結ばれないって」
自分が何を口走っているのか、そのときの稔自身にも分かっていなかった。
鳴谷の動きが、ぴたりと止まる。
目を見開いて、驚いたように稔を見ていた。
そして稔の云ったその言葉は、村井の耳にも届いていた。
「あーもう、小鷹はダメだわ。親に丸投げしといた」
ようやく漫才から抜け出した木津が、村井の横に並ぶ。
「ん?どうした?」
「たけ、稔くんと青史、引き離すよ」
「あ?え?なに?」
「この学校ではね、文化祭で手を繋いで校内を回ると、一生添い遂げられるって知ってた?」
村井がびしっと指をさした先には――鳴谷と稔の、繋がった手。
それを剥がそう、とでも言いたげな悪魔の笑みが浮かんでいるようだった。
「あーね。そういうことね」
木津も気づいたようで、協力する気満々の顔だった。
ぎゅっと、稔は無意識に鳴谷の手を強く握る。
離れたくない。離しちゃいけない。
考えるより先に、身体が動いていた。
「ダメダメダメ!」
必死になって、稔が声を上げる。
――ああ、もうここまで来たら認めるしかない。
「鳴谷くんは僕のです!」
好きと言うより先に飛び出したのは、まるで当て馬のセリフみたいだった。
(言葉、間違えた……)
その言葉を聞いた三人は、揃って驚いた顔をする。
せっかくの告白なら、もっとゆっくり、もう少しドラマチックにしたかったのに。
当て馬みたいな言葉になってしまったけれど、気持ちはきっと伝わったはずだ。
「ちょっと、稔くん嘘でしょ⁈」
「おいおい、なんでそうなるんだよ?」
慌てる二人。
けれど、一人だけ、違う反応をしていた。
赤くなった顔。初めて見る表情。
鳴谷の、嬉しそうな顔だった。
「小野寺、逃げるぞ」
「へ?」
ひょい、と身体が宙に浮く。
夢みたいなお姫様抱っこではないけれど、手を離さなくてもいい抱き方だった。
「手、離しちゃいけないんだろ?」
そう言って、鳴谷が走り出す。
意外と足が速い。
「あ、待て青史!」
木津が声を上げる。
「ちょっと、俺たちだって諦めてないんだからね⁈」
続いて村井も追いかけてくる。
この体勢で校内一周は難しいのでは――そんな心のツッコミは、風と一緒にどこかへ消えた。
鳴谷が笑っていた。口元だけじゃない。目元までくしゃりと細めて。
揺れる腕の中で、稔はしっかりと手を握り返した。
その手だけは、絶対に離さないように。
外には青い空が広がっていた。冬を迎える時期とは思えないほど、空気はやわらかく暖かい。
何事かと驚く生徒たちの視線を横目に、鳴谷は走る。
鳴谷と、稔。その後ろを追いかける木津と村井。
どこかおかしなその光景は、いつの間にか校内の名物のようになっていた。
「なんだ、またあいつらか」「またなんかやってる」そんな声が聞こえてきそうな、楽しそうで甘い空気。
木津と村井が大声で叫ぶ。
「おい青史!」
「ちょっと!まだ告白成立してないでしょ!」
「えっ⁈」
稔の声が、校庭に響いた。
(告白したのに、成立してないの⁈)
「……俺はもう付き合ってると思ってるけど」
稔の不安を察したのか、鳴谷の声がさらっと続く。
まっすぐ稔の目を見て言う、稔への返事だった。
ドクン、と心拍が跳ね上がる。
走っているのは鳴谷のはずなのに、まるで自分が全力で走っているみたいだ。
息が切れそうなのに、意外にも鳴谷はまだ余裕そうだった。どこか楽しそうですらある。
かかとを潰してスリッパのように履いていた靴を、木津が慌てて履き直す。本気で追いかける気だ。
村井はジャージの袖をまくって、すぐ後ろから追いかけてくる。
ふっと鳴谷が笑う。
「小野寺」
「え?」
名前を呼ばれて顔を向ける。
「あー!」
「ちょっと!」
木津と村井の声が重なった、その瞬間。
稔の唇は塞がっていた。
走りながらのキスは、あまりにも短かったが、思った以上に甘かった。
……差し入れのドーナツ、同じの食べたでしょ。
そんなことを思ってしまう。
全身が沸騰するかのように火照る体も、胸がうるさいのも。
それを誤魔化すみたいに。
――どうやら、この学校には恋の神様がいるらしい。
新しく生まれたジンクスは、手を繋いだまま抱きかかえられて校内を走ると結ばれるとか。
追いかけられた人は、溺愛されるだとか。キスをすると永遠の愛が手に入るだとか。
そんな噂が広がるのも、時間の問題だろう。
そしてそれは、この学校の新たな名物になるに違いない。
空は雲一つない青空で、この時期にしては近年稀に見る暖かさだった。夏とまではいかないが、春のような柔らかな空気が校庭を包んでいる。
校舎の窓からは笑い声や音楽が漏れ、生徒たちは昨日の寒さは何だったのかと噂しているほどだった。
祭りの熱気も加わり、上着を脱ぐ生徒の姿もちらほら見える。
土曜日に開催される文化祭には、保護者や近隣住民、さらには他校の生徒たちまで足を運んでいた。廊下も校庭も人であふれ、どの教室からも楽しそうな声が聞こえてくる。
それぞれのクラスが趣向を凝らした催しで賑わう中、特に人気を集めているのがコスプレカフェだった。
大半は「本物の王子様がいる」という噂を聞きつけた女子たちだ。
その王子様が誰なのかは――言うまでもないだろう。
一方、歌声喫茶をしている稔のクラスは平和だった。
平和で、平和で、平和すぎるほどに暇だった。
クラスメイトの保護者や近所のお年寄りが、若者たちの歌声を聞きながら湯呑みを傾けている。手拍子をする人もいて、どこかのどかな空気が流れていた。
とても平凡で、穏やかな時間。その分、刺激は少ない。
「歌声喫茶なんて誰が提案したんだよ」
そんな声が生徒の間で上がるくらいには、暇だった。
そもそも歌声喫茶は、夏の話し合いで余った企画の一つだ。クラスの団結力をアピールするのが目的という建前だが、本音は――許可された企画の中で、最後まで残っていた案の中で一番ましだった。それだけの理由だった。
お茶を提供しても、客の入れ替わりはほとんどない。教室には生徒の方が余っている状態だった。
稔もその一人である。
準備をたくさん手伝ったからと、クラスの女子が気を利かせて稔の自由時間を多めに作ってくれた。そのおかげで、余計に暇になってしまった。担任から差し入れでもらったドーナツを小分け用の袋に入れ、どこで食べようかと校内をぶらつく。
友達の高橋は、自分のクラスの催し――コスプレカフェで忙しい。あの様子では、一緒に回る余裕はなさそうだった。
稔の家族も来たには来たが、挨拶だけしてすぐ帰ってしまった。
結局、稔は一人で校内を歩いていた。
校舎を出ると、外の空気は予想以上の暖かさだった。柔らかな風が吹き抜け、校庭の旗やポスターを揺らしている。
その時、視界の端に鳴谷の姿が入った。
同じく暇なのだろうか。鳴谷も一人で、どこかへ向かって歩いている。
ふと、頭上からキャーキャーという女子の声が聞こえてきた。
すぐに分かった。コスプレカフェだ。女子たちが騒ぐ理由は一つしかない。
それほど、村井の王子様は完璧なのだ。
ふっと、温かい空気に混じって香ばしい匂いが漂ってくる。塩気のある、美味しそうな香り。
校庭に並ぶ屋台からだった。
そこで、稔の目に入ったのは木津の姿だ。
サッカー部の手伝いだろうか。小鷹の隣でフランクフルトを焼いている。
炭火の煙がゆらゆらと上がっていた。
稔は、三人をカップリングではなく、個々の推しとして見ることにした。
無理にこの三人にこだわる必要はない。そう思えるようになった途端、妄想は驚くほど自由に広がった。
昨日も、別のクラスの男子二人や、先輩後輩なのに妙に仲のいい男子二人を見かけて――妄想はシャボン玉のように次々と浮かび上がり、空いっぱいに広がっていった。
それだけで嬉しかった。
そのうえ、三人を断ったことで、どこか清々しい気持ちでいる。――つもりだった。
寂しい。
それが、稔の本音だった。
三人とは付き合えないと断った手前、一緒に回ろうなんて言えるはずもない。賑やかな文化祭の中で、一人で歩いていると、その寂しさが余計に浮き上がってくる。
その矢先だった。
「稔先輩!」
元気な声が飛んできた。
振り向くと、小鷹がこちらに駆けてくる。ついさっきまで屋台でフランクフルトを焼いていたはずだ。
「あれ? 小鷹くん、さっきフランクフルト焼いてなかった?」
「焼いてました!丁度休憩なのと、先輩が見えたから!」
そう言って、小鷹は焼きたてのフランクフルトを差し出してくる。香ばしい匂いがふわりと漂った。
「え? いくら?」
「いらないですよ。その代わり、俺と回ってください。彼女に振られたんですよ~! やっぱり俺には先輩しかいない!」
調子のいい言葉だった。
惚れやすく、そして戻るのも早い。木津が言っていた通りだと、稔は思った。
「ごめんね。好意は嬉しいけど、友達止まりでお願いしたいかな」
稔ははっきりと断った。今までの自分の行動を反省し、律するかのように。
「そうですか……でも、友達からでも大丈夫です!」
まだ次の恋に出会っていないからだろう。小鷹は一瞬、しゅんとした表情を見せた。まるで犬の耳が垂れたかのようだった。けれどすぐに顔を上げ、諦めない声を上げる。
「一緒には回れますよね?」
「うん……まあ、それくらいなら」
誤解されないように、と思うものの。断るのは難しいと判断した稔は、しぶしぶ承諾した。
自分の行動がいかに軽率なのか――この前わかったばかりなのに。
稔の優しさは、時に残酷だった。
稔はドーナツを食べながら、小鷹と校内を歩く。いつもの学校らしい雰囲気はなく、見たことのない人であふれていた。
そこで目に入るのは、稔の妄想にぴったりな同性グループたち。見ているだけでも眼福だった。
(あの子はきっと、あの人が好きで……あー、あっちは執着攻めの当て馬様だ~!)
そんなことを、さらりと頭の中で組み立てる。
妄想が戻ってきたことが、稔には何よりの安心だった。
「あれ? 小鷹くん?」
ふと気づく。妄想に気を取られているうちに、小鷹が先を歩いていた。
それに遅れて気づいた小鷹が、慌てたように戻ってくる。
「すみません先輩。俺、足早かったですね」
「ううん。僕もよそ見してたから」
小鷹の歩く速さは、普通か、やや早めといったところだろう。普通の男子生徒なら、同じテンポで歩けるくらいの速さだ。
けれど稔は背が低い。他の男子生徒よりも一歩、いや二歩ほど遅くなる。
だから、いつもちょこちょこと小走りになるのが当たり前だった。
木津と歩いた時も。村井と帰った時も。
二人とも、合わせてくれようと少し速度を落としてくれていた。それでも稔にとっては、いつもより足早な速さだった。
ふと気づく。鳴谷は、ぎこちないながらも歩幅を合わせてくれていたのだ。
ただ速度を落としただけではない。稔に合わせた歩幅だった。
自分が無理に速度を上げなくてもいい、ちょうどいい足取り。
けれど、それが申し訳なくて少し足早になったとき――鳴谷は「時間が許すなら、もう少しゆっくり歩こう」と提案してくれたことを思い出す。
一緒にいたいという気持ちもあったのかもしれない。けれど今思えば、稔の歩幅に合わせた気遣いだったのだろう。
(鳴谷くんは、いつも優しい)
ふわっと温かい気持ちが胸に広がる。
三人の中で一番関わりが少なかったのは鳴谷だった。それなのに、なぜか一番印象に残っているのも鳴谷だった。
静かで、いつも聞き手で。たまにぐいっと踏み込んでくることはあるけれど、基本的には誰よりも相手を優先している。
同じクラスになってから、ずっと観察してきたのだから。
当時は、カップリングの攻め役としてしか見ていなかった。けれど思い返してみれば、鳴谷はいつも一歩引いて周りを助けるような人だった。
(提出物のノートを職員室に持って行くとき、手伝ってくれたことあったっけ)
二年に上がってすぐ。鳴谷と話したきっかけは、それだった。
そのときも、歩きやすかったのを覚えている。
歩幅が、楽だった。
今思えば、あのときはノートの重さばかり気にしていて、鳴谷の様子には目が向いていなかった。
きっと新聞配達のときのように、ぎこちない歩き方をしていたのだろう。
稔はくすっと笑みをこぼした。
(あれがきっかけで、鳴谷くんを見るようになったんだっけ)
そこから鳴谷を見ているうちに、木津や村井と幼馴染だと知り、妄想が広がった思い出。
きっかけがそれでなくても、いずれはあの三人を知れば妄想の糧になっていたのは間違いないだろう。
あの頃は、きっと適切な距離だった。けれど一度近くなってしまった距離が離れると、それは違う形になる。
その距離に名前をつけるなら――寂しさ。それに尽きる。
「先輩! 手、繋ぎましょ!」
離れないようにという意味で言ったのだろう。けれど稔は、その提案を断った。
なぜなら――
「この学校、文化祭で手を繋いで校内を一周すると永遠に結ばれるって噂じゃないですか!」
小鷹の発言に、稔は困ったような顔を浮かべた。
そう、それはこの高校の言い伝えだ。昔、カップルが手を繋いで文化祭を回り、今も幸せに暮らしているという話。
そして、途中で手を離した相手とは永遠に結ばれない――そんな噂もあった。
もちろん、偶然の一致が生んだ話だろう。けれどこういう類の話は、若者にとっては格好の話題だった。
小鷹も、それを知っていて軽い調子で提案したのだろう。
稔は噂を信じる方でも、信じない方でもない。自分の都合で解釈するタイプではある。
けれど――どうしてか、この手の願掛けのようなものには乗らない方がいい気がしてしまう。
これ以上考えると泥沼にはまりそうで。
「ダメですか?」
小鷹が不満そうに声を漏らす。
稔はその圧に負けじと、両手を後ろに回した。その気はない、と体で主張する。
すると小鷹は、残念そうに肩を落とした。
「とりあえず、人多いんで、あっち行きましょ。空いてそうですよ」
そう言って向かった先は、以前高橋と喧嘩をした裏校舎だった。
ちらほらと生徒の姿はあるものの、表の賑わいに比べれば人は少ない。どこか静かで、文化祭の喧騒から少しだけ切り離された場所だった。
「ここをスタート地点にして、手を繋いで歩くカップルが多いらしいですよ……」
そう言いながら、小鷹は周囲を見回す。
確かに、並んで歩く男女の姿がいくつか見える。
――自分たちもカップルみたいですね。
そんなことを言いたげな雰囲気が、手に取るように分かった。
さすがの稔でも分かるのだから、小鷹は稔よりずっと感情が表に出やすいタイプなのだろう。
ふと、そのときだった。
目の端に、見慣れた生徒の姿が入る。
鳴谷だった。
見たことない女子生徒と、何か話しているようだった。
微笑みながらも涙目になっている女子を、気遣うようにしている様子が目に入った。
――告白の場面なのかもしれない。
(あの子の表情……まさか、もう成立したの?)
自分が振ったせいで、鳴谷は他の誰かを好きになったのかもしれない――胸がぎゅっと締めつけられるように痛む。
その時だった。
女子生徒が、鳴谷の腕を引いたのが目に入る。
稔の心臓が、ドクンと重く鈍い音を立てた。
そのまま歩き出しそうな勢いだった。
「だめ……。
手を繋いで歩いたら、だめ」
思わず口からこぼれてしまった言葉だった。
声はあまりにも弱く、隣にいた小鷹ですら気づかないほど小さかった。
咄嗟だった。自分でも気づかないうちに、まっすぐ鳴谷のもとへ駆け寄っていた。
「だめ!」
自分でも驚くほど、声が張り上がっていた。
稔は鳴谷の腕を強く引っ張っていた。
「お……小野寺?」
鳴谷の驚いた声が耳に入る。いつも落ち着いている鳴谷からは、想像もつかない声だった。
彼はこれから、どれだけ稔の知らない顔を見せてくれるのだろう。
もっと知りたい――。
そんなことを考えている場合じゃないのに、稔の気持ちは追いつかない。
「どうした?」
そっと頬に、鳴谷の手が触れる。
裏校舎の冷たい空気に、どれくらいさらされていたのだろう。そう思った瞬間、鳴谷の隣にいる女子の存在が目に入る。
――憎い。
そんな感情が胸の奥から込み上げた。
冷静になれない。妄想もできない。不安だけが残っている。
怖い。苦しい。
息が吸えない。
「鳴谷くん! 学校の噂、知ってる⁈ 手を繋いじゃダメ!」
「おい、落ち着け小野寺。深呼吸しろ」
声が荒くなるのと同時に、呼吸がうまくできなくなる。
苦しそうに息をつく稔に気づき、鳴谷は正面から抱きかかえるようにして背中をさすった。
温かな体温が、稔を包む。
ゆっくりと呼吸を合わせるように撫でられる手は、不思議と心地よかった。
はっと、稔は我に返る。
――今、自分はとんでもない失態をしたのではないか。
気づけば、周りにはちらほらと人だかりができていた。
あれだけ大きな声を出したのだ。喧嘩でも起きたのかと、様子を見に来たのだろう。
「青史くん、その子、大丈夫?」
心配している色を混ぜた、花のように優しい声が稔の耳に届く。
稔はぞわりと背筋を凍らせる。この子に対して自分が抱いた感情を、稔は、はっきり覚えていた。
――明確な嫌悪だった。
「おい、青史どうした?」
騒ぎに気づいた木津が、人混みを縫って駆け寄ってくる。その中心にいるのが鳴谷だと気づいたのだろう。
「あれ? 稔?」
鳴谷の腕の中にいるのが誰なのか、木津はすぐに理解した。
「ちょっと、何騒ぎ起こしてんの?」
続けて姿を現したのは、ジャージ姿の村井だった。
「瑞穂、お前持ち場はどうした」
「俺にだって休憩くらい頂戴よ。稔くん探してたんだけど、見つからなくてさ。たけの所で休んでたら……なにこの騒ぎ」
鳴谷の問いに、村井は腕を組んだ。
まるで保護者か担任のように、これから説教でも始めそうな雰囲気だ。
しかし、鳴谷の腕の中にいるのが稔だと気づくと、眉をひそめた。
「なに? 稔くん独り占めする気?」
「おい、待て。今そんな状況じゃないだろ」
不機嫌な声を出し始めた村井を、木津が慌てて止める。
「あれ? 武紀~ここにいたの~!」
泣きそうな顔の女子が、木津に向かって駆け寄ってきた。
「母さん!」
その言葉に、稔は思わず振り向いた。
――いや、稔だけではない。その場にいた全員の視線が、彼女に集まったに違いない。
「聞いてぇ~。コンタクト落としちゃってさぁ」
「いやいや、コンタクトより何その格好」
「なんかね、上級生の催しで制服体験みたいなのやってて、着せてもらったの!母さん、とっても若返った気持ちになってはしゃいでたらコンタクト落としちゃって。父さん別行動だし~。そしたら青史くんが気づいてくれて、肩貸してくれるって言ってね~」
見た目からは想像できない、おばさん特有の、止まらぬおしゃべりが始まった。
「いや待って。親のミニスカ、まじで勘弁だわ」
「ちなみに父さんも制服着てるわ」
その言葉の直後だった。
遅れてやってきたのは、木津の父だった。
幼顔の母親とは違って渋みのある顔立ちだが、制服もなかなか似合っている。
「夫婦揃って何やってんだ!」
ワイワイと、木津家によるコントのような空気が広がった。
その様子を見て、周りの生徒たちもくすくすと笑っている。
「天使だ……」
その空気をあえて読まないのは、小鷹だった。
惚れやすいと名高い小鷹のハートは、すっかり木津母へ向けられていた。
「よければ俺と一緒に回りませんか⁈」
「あら~優しい!」
「おい、小鷹! こいつ俺の母さんだぞ!五十なるんだぞ⁈」
「初めまして! 中学から木津先輩の後輩の小鷹です!」
「あらあら~」
「母さんだめだ! こいつ惚れやすいんだから!」
「人妻でもいいかしら~?」
その言葉に驚いたのは木津の父親だった。
「母さん⁈」
木津父の驚いた声が、その場にさらに笑いを広げた。
天然なのか、それともからかって遊んでいるのか。掴みどころのない女性だということだけは、はっきり分かった。
稔は、内心ほっとしていた。
年齢など関係ない。けれど――何より既婚者だったことに、安堵していた。
鳴谷が、既婚者を選ぶはずがない。そんな、妙な安心だった。
(ん? なんで僕、安心してるんだ?)
そのとき、稔は気づく。
まだ鳴谷の腕の中にいることに。
「小野寺? 落ち着いたか?」
顔が近い。
あまりの距離の近さに、稔の体が一気に熱を帯びた。
顔も、耳も、手も、足も。何もかもが熱い。
(待って待って待って待って)
自分の行動を整理したいのに、鳴谷が近すぎてそれどころではない。
けれど――整理しなくても分かる。
単純な稔ですら、自分の気持ちを理解できた。
(どうしよう……僕――鳴谷くんが、好きなのかも……)
まだ、今は。かも、止まりだけれど。
ふと、手を握られていることに気づく。安心させるように、握ってくれていたのだろう。
「落ち着いたか。歩けそうか?」
そう言って手を離そうとした、そのときだった。
「ダメ!」
心よりも先に、身体と言葉が動いた。
「小野寺?」
「離したら……一生結ばれないって」
自分が何を口走っているのか、そのときの稔自身にも分かっていなかった。
鳴谷の動きが、ぴたりと止まる。
目を見開いて、驚いたように稔を見ていた。
そして稔の云ったその言葉は、村井の耳にも届いていた。
「あーもう、小鷹はダメだわ。親に丸投げしといた」
ようやく漫才から抜け出した木津が、村井の横に並ぶ。
「ん?どうした?」
「たけ、稔くんと青史、引き離すよ」
「あ?え?なに?」
「この学校ではね、文化祭で手を繋いで校内を回ると、一生添い遂げられるって知ってた?」
村井がびしっと指をさした先には――鳴谷と稔の、繋がった手。
それを剥がそう、とでも言いたげな悪魔の笑みが浮かんでいるようだった。
「あーね。そういうことね」
木津も気づいたようで、協力する気満々の顔だった。
ぎゅっと、稔は無意識に鳴谷の手を強く握る。
離れたくない。離しちゃいけない。
考えるより先に、身体が動いていた。
「ダメダメダメ!」
必死になって、稔が声を上げる。
――ああ、もうここまで来たら認めるしかない。
「鳴谷くんは僕のです!」
好きと言うより先に飛び出したのは、まるで当て馬のセリフみたいだった。
(言葉、間違えた……)
その言葉を聞いた三人は、揃って驚いた顔をする。
せっかくの告白なら、もっとゆっくり、もう少しドラマチックにしたかったのに。
当て馬みたいな言葉になってしまったけれど、気持ちはきっと伝わったはずだ。
「ちょっと、稔くん嘘でしょ⁈」
「おいおい、なんでそうなるんだよ?」
慌てる二人。
けれど、一人だけ、違う反応をしていた。
赤くなった顔。初めて見る表情。
鳴谷の、嬉しそうな顔だった。
「小野寺、逃げるぞ」
「へ?」
ひょい、と身体が宙に浮く。
夢みたいなお姫様抱っこではないけれど、手を離さなくてもいい抱き方だった。
「手、離しちゃいけないんだろ?」
そう言って、鳴谷が走り出す。
意外と足が速い。
「あ、待て青史!」
木津が声を上げる。
「ちょっと、俺たちだって諦めてないんだからね⁈」
続いて村井も追いかけてくる。
この体勢で校内一周は難しいのでは――そんな心のツッコミは、風と一緒にどこかへ消えた。
鳴谷が笑っていた。口元だけじゃない。目元までくしゃりと細めて。
揺れる腕の中で、稔はしっかりと手を握り返した。
その手だけは、絶対に離さないように。
外には青い空が広がっていた。冬を迎える時期とは思えないほど、空気はやわらかく暖かい。
何事かと驚く生徒たちの視線を横目に、鳴谷は走る。
鳴谷と、稔。その後ろを追いかける木津と村井。
どこかおかしなその光景は、いつの間にか校内の名物のようになっていた。
「なんだ、またあいつらか」「またなんかやってる」そんな声が聞こえてきそうな、楽しそうで甘い空気。
木津と村井が大声で叫ぶ。
「おい青史!」
「ちょっと!まだ告白成立してないでしょ!」
「えっ⁈」
稔の声が、校庭に響いた。
(告白したのに、成立してないの⁈)
「……俺はもう付き合ってると思ってるけど」
稔の不安を察したのか、鳴谷の声がさらっと続く。
まっすぐ稔の目を見て言う、稔への返事だった。
ドクン、と心拍が跳ね上がる。
走っているのは鳴谷のはずなのに、まるで自分が全力で走っているみたいだ。
息が切れそうなのに、意外にも鳴谷はまだ余裕そうだった。どこか楽しそうですらある。
かかとを潰してスリッパのように履いていた靴を、木津が慌てて履き直す。本気で追いかける気だ。
村井はジャージの袖をまくって、すぐ後ろから追いかけてくる。
ふっと鳴谷が笑う。
「小野寺」
「え?」
名前を呼ばれて顔を向ける。
「あー!」
「ちょっと!」
木津と村井の声が重なった、その瞬間。
稔の唇は塞がっていた。
走りながらのキスは、あまりにも短かったが、思った以上に甘かった。
……差し入れのドーナツ、同じの食べたでしょ。
そんなことを思ってしまう。
全身が沸騰するかのように火照る体も、胸がうるさいのも。
それを誤魔化すみたいに。
――どうやら、この学校には恋の神様がいるらしい。
新しく生まれたジンクスは、手を繋いだまま抱きかかえられて校内を走ると結ばれるとか。
追いかけられた人は、溺愛されるだとか。キスをすると永遠の愛が手に入るだとか。
そんな噂が広がるのも、時間の問題だろう。
そしてそれは、この学校の新たな名物になるに違いない。

