腐男子くんは三人の溺愛から逃げられない~推しカプ観察してたら本人たちにバレました~

 稔は一日、学校を休んだ。新聞配達も同じく休みだった。
両親が「今日は休め」と頑なに言ったからだ。過保護というよりも、これまで一度も体調を崩さなかったのだから、心配するのも無理はない。
雨は途切れることなく降り続いていた。ざあざあと音を立てながら、世界の輪郭をぼやかしていく。
冷たい湿気が肌にまとわりつき、季節の終わりを告げるように、景色から色を奪っていた。
そんな外を、ぼんやりと眺めていたときだった。

「お前、同級生が心配してたぞ」

 代わりに新聞配達から帰ってきた兄が、そう言った。
配達の途中で高校生に話しかけられ、稔の体調を聞かれたのだという。
――鳴谷だ。
稔はすぐに分かった。
雨の中、傘をさして待っていたと兄から聞き、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

「念のため今日は休むって伝えといたぞ。明日には戻れそうだってのも。……つーか、お前、連絡先交換してなかったのか? すげぇ心配してたぞ」

 そう言って、兄は「ほれ」と一枚の紙切れを差し出した。

「お前の番号も教えといたけど、その子の番号も聞いてきた。ここから電話あったら、その子だからな」

 湿気を含んだその紙は、やけに重く感じられた。わずかに滲んだ十一桁の数字が、まるで稔を呼んでいるように見える。
稔はそれを机の上にそっと置くと、布団の中に潜り込んだ。――そのときだった。
軽快な音が、耳に飛び込んでくる。
スマホの着信音。購入してから一度も変えていない、単調な音だった。
ゆっくりと起き上がり、手に取る。
画面に並んだ数字は、さっきの紙に書かれていたものと同じだった。それが、鳴谷からの電話であることを、はっきりと告げている。
出る気にはなれなかった。今は、誰かと話すのが怖い。
けれど――雨の中、待たせてしまっていたことを思い出すと、胸の奥に罪悪感にも似た申し訳なさが滲む。
重たい気持ちを引きずるようにして、稔は画面の応答ボタンに指を滑らせた。

「もしもし?」

 声は届いているはずだった。けれど、返事はない。
もともと鳴谷は、多くを話す方ではない。そう思えば、不思議なことではなかった。
けれど、顔も見えず、声もないままでは――電話の意味がない。

「……鳴谷くん?」

 小さく呼びかける。

「急に……すまない」

 ようやく返ってきた声は、どこかほっとしたような、やわらかな温もりを含んでいた。

「ごめんね、今日、待っててくれたみたいで」
「いや、勝手に待ってただけだ。気にするな」

 鳴谷の低い声は、今の稔の心に静かに染み込んでくる。まるで「大丈夫だ」と言われているような、そんな温かさがあった。

「今日は、休むんだってな」

 珍しく自分から話題を振るその声は、姿が見えなくても、心配と――どこか寂しさを含んでいるように感じられた。

「……うん」

 小さく返事をすると、鳴谷は「ゆっくり休め」とやわらかく告げた。
それから、数秒の沈黙が落ちる。
今の稔は、自分から言葉を紡げる状態ではなかった。だからこそ生まれてしまう、何もない時間。

「……じゃあ、また」

 鳴谷にそう告げられ、通話が切れた。スマホの画面がホームへと戻る。
まるで、さっきまでの時間が夢だったかのように――静かに、暗くなっていった。

 ***

「稔、本当に大丈夫なの?」

 母親が心配そうに、自転車の籠へ新聞を積んでいる稔を見ながら言った。

「大丈夫だよ」

 体調を崩すこともなく、どんなことがあっても学校を休まなかった稔にとって、「心配をかけないこと」は唯一の親孝行だと思っている。忙しく働く両親に、これ以上余計な心配をさせたくなかった。
だからこそ稔は、何もなかったかのように明るく振る舞う。

「無理しないでよ? つらかったら連絡しなさい」
「はーい」

 そう返事をして、稔は自転車をこぎ始めた。
昨日の雨が嘘のように静まり、空には雲一つない。夜明けを待つ星が、まだ静かに瞬いている。
冷え込んだ空気の中で、吐く息は白く染まる。まだ雪の降らないこの時期でも、冬の気配は確かに近づいていた。

自転車をこぎ、最初の配達区域を終える。まだ朝の気配も薄い道は静まり返り、タイヤの回る音だけがやけに大きく響いていた。
ときおり、水たまりに張った薄い氷が、パリン、と乾いた音を立てて割れる。冬の入り口の朝は、空気まで澄みきっているようだった。
一区域を終えると、次は鳴谷の家がある区域になる。あの角を曲がれば、鳴谷が待っているかもしれない。
約束はしていない。来ると決まっているわけでもない。
それでも、なぜか――そんな気がしていた。
 稔はサドルから腰を浮かせ、立ちこぎでスピードを上げた。冷たい空気が頬を刺し、自転車が左右にわずかに揺れる。
角を曲がって数秒、自転車をこぎ進めた。
東の空が、ほんのわずかに白み始めている。まだ夜の名残を残した薄暗い街の中で、公園の入口だけがぼんやりと形を浮かび上がらせていた。

その前に、ひとつの人影が立っている。
静かに、動かずに。
鳴谷は――やはり、そこにいた。

「鳴谷くん!」

 咄嗟に声をかける。静まり返った住宅街の朝に、稔の声は澄んだ空気をまっすぐに通っていった。
夜明け前の街はまだ薄暗く、家々の屋根の上には淡い白み始めた空が広がっている。

「……小野寺」

 低い声が返ってくる。
稔はそのまま自転車をこぎ、鳴谷のそばまで走り抜けた。冷たい風が頬をなぞり、タイヤが乾いたアスファルトを軽く鳴らす。
ブレーキを握り、きゅっと音を立てて止まった自転車の向こうに、鳴谷の姿がはっきりと見えた。
鼻を赤くしている。肩をすくめるようにして立っている姿から、長い時間ここで待っていたのがすぐに分かった。

 公園の入口には誰もいない。朝露に濡れた遊具が薄い光を受けて静かに佇んでいる。
秋とも冬ともつかない曖昧な季節。けれど空気の冷たさは、もうすっかり冬のものだった。
そんな中で待っていてくれたのだと思うと、稔の胸はきゅっと締めつけられる。

「おはよう。昨日はごめんね」

 挨拶と謝罪。稔は伝えたかった言葉を先に口にした。

「気にしないでくれ。それより、体調はもう大丈夫なのか?」

 鳴谷の声は低く落ち着いていて、朝の冷たい空気の中でもどこか温かかった。

「うん! いっぱい寝て元気だよ!」

 心配させまいと、めいっぱいの笑顔を向ける。
白い息がふっとこぼれる。それは、この冷たい朝の空気には似合わない、花のように明るい笑顔だった。

「今日も少し手伝いたい」
「あ……うん」

 鳴谷のそれは、無理強いではない静かなお願いだった。稔は頷き、束の中から十部にも満たない新聞を取り出して鳴谷に渡す。
鳴谷の自宅の近くの区域。徒歩でも回れる距離で、部数も多くない。

「じゃあ、また後で」

 そう言うと、鳴谷は足早に配達へ向かっていった。冷たい朝の空気の中を、長い影を引きながら遠ざかっていく。
その背中を少しだけ見送ってから、稔も自転車にまたがり、配達を再開した。
住宅地とはいえ、新聞を取っている家はまばらだ。一軒一軒の距離が思ったよりも遠い。
 最初の区域も合わせると、一時間半ほどの仕事になる。空はすっかり白み始め、時刻はもうすぐ五時四十分を迎えようとしていた。
本来なら、この時間は鳴谷の家へ新聞を届け、そのあと庭先で鳴谷の家の犬――サクラと少し遊ぶのがいつもの流れだった。

けれど、鳴谷が手伝うと言ってくれたことで、サクラと会う機会はなくなってしまった。稔は、ほんの少しだけ寂しい気持ちを抱える。
東の空はようやく白み始め、街の屋根の向こうから淡い光が滲み出していた。

「サクラは元気?」

 公園で待っていた鳴谷にそう尋ねる。鳴谷は白い息を吐きながら、「ああ」と短く答えた。
吐き出された息はすぐに冷たい空気に溶けて消える。言葉数の少ない鳴谷と会話を続けるのは難しい。特に、今の稔にとっては、語るということ自体がうまくできなかった。
本来なら、話しすぎるくらいの性格なのに。
言葉に詰まっていることに気づいたのか、鳴谷のほうから声がかかった。

「これ、小野寺に」

 そう言って差し出されたのは、コンビニの袋だった。中にはドーナツがひとつ入っている。
稔は袋の中をしばらく見つめてから、小さな声で「ありがとう」と言った。
いつもの元気がないことに気づいたのか、鳴谷の声にはわずかに心配が滲んでいた。

「まだ、本調子じゃないのか?」
「あ……いや。えっと、大丈夫! ……猫は? 猫は元気?」
「ああ。小野寺が拾ってきた猫。あれから病気もせず、元気だ」
「あ、やっぱりあの時の子、鳴谷くんだったんだ! 雰囲気違うから別の子だと思ってたよ」

 稔はあの時のことを思い出す。
同じくらいの背丈だった、どこか可愛らしい少年。それが今では、すっかり背も伸びて、大人びた雰囲気になっている。

「名前は、ミケだ」
「……あれサバトラだよね?」

 出会った頃を思い出し、懐かしさを噛みしめながら鳴谷から聞いた猫の名前に驚いた。
ミケという名前だが、三毛猫ではない。ミケの要素がないサバトラなのだ。

「最初はネコって名前だった」
「まんま過ぎる」

 最早それは名前ではなく、分類体系名称だった。

「名前を考えるのが苦手なんだ」

 そう言われ、稔は鳴谷はきっとゲームで主人公の名前を”A”とか”あ”とかにするタイプだなと察する。

「サクラは誰が付けたの? お母さん?」
「そうだな。俺の妹として付けられた名前だな」
「ふーん」

 冷たい朝の空気の中で、二人の白い息がゆっくりとほどけていく。

「俺の名前の青と桜の時期である春で、青春なんだ」
「わ! すごい!」
「こじつけだけどな。ハルは近所の子供がハルだから付けられないから無理やり」
「お母さん面白いね」

 静かな公園に、稔の笑い声が小さく広がった。
そんな静かな朝の中で、二人の会話だけがぽつりぽつりと続いていく。
 時間はあっという間に過ぎていた。そろそろ帰って、学校へ行く準備をしなければならない。
稔が帰ろうと促すと、鳴谷は何も言わず頷き、分かれ道になるところまで一緒に歩き出した。
 ふと稔は気づく。さっきから、鳴谷が自分の歩幅に合わせて歩いてくれていることに。
普段よりも歩くリズムが少しぎこちない。慣れない歩幅なのだろう。それでも鳴谷は、何事もないかのような顔で隣を歩いていた。
何気ない優しさに触れ、きゅっと稔の胸が甘く捩れた。
 会話はほとんどなく、静かな朝の道を、二人で並んで歩く。
遠くで車の走る音がかすかに聞こえ、どこかの家の玄関が開く気配がした。そんな生活の音の中で、二人の足音だけがゆっくりと続いていく。
稔が自分から進んで話さなくなっていることに、気づいているのだろうか。時折、鳴谷の方からぽつりと言葉が落ちた。
その会話の中で、鳴谷が甘いもの好きだと知った。稔と同じで、特にドーナツが好きなのだという。
見た目とは違って、少し可愛いところがあるんだな――そんなことを思う。
いつもの稔なら、それだけで妄想の種になっていただろう。けれども今は妄想は空っぽだ。
ふと、稔は鳴谷の横顔を見た。朝の光が、鳴谷の頬をかすかに照らしている。表情を大きく出さない、不器用な横顔。
けれどその口元だけが、ほんのわずかに緩んでいる。
それを見た瞬間、稔の胸の奥にひとつの光景がよみがえった。
公園のベンチ。隣に座ってドーナツを食べていた少年。ほとんど表情を変えないくせに、ドーナツを口にするときだけ、少しだけ口元が緩んでいた。

(あれ……?)

 稔は思わず鳴谷の顔を見直した。
手にぶら下げられたコンビニの袋が、かさりと揺れる。中には、さっき渡されたドーナツ。
記憶の中の少年と、目の前の横顔がゆっくりと重なっていく。

「ねえ、鳴谷くん。もしかして」

 稔は歩きながら言った。

「僕と会ったの、猫の時が初めてじゃないよね?」

 鳴谷の足が、ぴたりと止まる。
少しの沈黙のあと、意味を含ませるように小さく答えた。

「ああ」

 稔の胸が、ドクリと鳴る。

「ドーナツ、一緒に食べた子……鳴谷くん?」
「……そうだ」

 鳴谷はそう言うと、まっすぐに稔を見た。
朝の光が、二人の間に静かに落ちていた。
どうして今まで言ってくれなかったのか。
その疑問が形になるよりも早く、鳴谷の言葉が稔に向けられた。

「俺は――あの時から、稔が好きだ」

 真正面から伝えられた好意だった。

稔の胸が、大きく鳴った。
次の瞬間、心臓を掴まれたような痛みが胸の奥を走る。

――ああ。……きっと鳴谷くんは、この優しさの温もりを、恋だと勘違いしている。

 そんな冷静な思考が、ふいに稔の中へ入り込んできた。
いつもの自分なら、きっと違う。嬉しいと素直に受け取り、都合のいい妄想で意味を膨らませていただろう。
そして、はっきりさせないまま、曖昧な関係を続けていたはずだ。

 ふと、高橋の言葉が脳裏をよぎる。
胸の奥が、ズキリと痛んだ。今までの自分の行動が、急に恥ずかしく思えてくる。
稔は小さく息を吸った。冷たい空気が胸の奥まで入り込み、頭がわずかに冴える。

「鳴谷くん」

 名前を呼ぶ声が、静かな道に落ちた。
稔は思った。覚悟を決めた。
このままではいけない。鳴谷を解放してあげなくては――。

「……ごめんね」

 稔はそう告げた。
それは、鳴谷の気持ちに応えられないという――彼の恋への、静かな終止符だった。