文化祭まで一週間を切った。ついこの前、球技大会が終わったばかりだというのに、月日の流れはあっという間だ。
さすが、この学校の「忙殺期」である。
夏から準備を進めてきたとはいえ、本番が近づくにつれて忙しさは増していく。歌声喫茶で張り切っているのは合唱部やカラオケ好きの一部の生徒だけで、他の生徒たちは提供する飲食や、いつ休憩に入って文化祭を回れるかばかりを気にしていた。
その温度差に苛立ったのか、業間休みになるや否や、ある生徒が教卓の前に立ち、熱を込めて意見をぶつけていた。
その様子をぼんやりと眺めながら、稔は机に広げたノートへと視線を落とした。高橋と続けている、妄想の交換日記。
今日も鳴谷や木津を見て、どんな妄想が浮かぶのか――自分でも分からない。それがむしろ楽しかったはずなのに。
ふと、二人の姿が目に入る。その瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。村井が教室に入ってくるのが見えた、そのときだった。
――書かなきゃ。
半ば反射のように、シャーペンを握る。
けれど。
(あれ……何も浮かばない)
先ほどまでの感覚が嘘のように、手が止まる。
いつもなら、三人の名前を見るだけで、言葉は勝手に溢れてきた。考えるよりも先に、妄想が形になっていたのに。
(待って、待って……。鳴谷くんが木津くんを……いや、違う。村井くんと……あれ……?)
思考を回そうとしても、何も引っかからない。
想像が、妄想が、ぴくりとも動かない。
まるで最初から何もなかったかのように。芽を出す種すら、どこにも残っていないみたいに。
(うそでしょ……)
中学の頃からずっと、妄想が自分の一部だった。好きな作品に出会ってから、一度だってこの頭の中が静かになったことなんてなかったのに。
楽しいはずの思考は、いつの間にか形を失って。代わりに残ったのは、拭いきれない不安だけだった。
賑やかだったはずの世界が、音もなく消えていく。
静寂が、怖い。
「どうしたの?」
顔色が悪いと気づいたのか、村井が声をかけてくる。
整った顔立ちは、稔の好みで――本来なら、いくらでも妄想が広がるはずの相手だった。それなのに、何も感じない。緊張すら湧かない。
その事実に、ぞっとする。
「おい、顔、青いぞ」
木津も心配そうに覗き込んでくる。けれど、何も起きない。
胸が高鳴ることも、頭の中で妄想が動き出すこともない。
二人が並べば、いつもなら都合のいい想像が勝手に広がっていったはずなのに。
今、稔の中を満たしているのは――静けさと、不安だけだった。
(助けて……怖い……)
声に出したつもりはないのに、内側で言葉だけが震える。
思ったことがすぐ口に出てしまう――そんな自分だったはずなのに。その感覚すら、どこかへ消えていた。
ふと、鳴谷に視線を向ける。鳴谷もまた、心配そうにこちらを見ていた。
近くに寄ってくることはない。けれど、少し離れた場所から、確かに稔を気にかけているのが分かる。
(……鳴谷くん、助けて)
なぜか、その距離がひどくもどかしくて――思わず、助けを求めてしまう。
声には、ならないまま。
「とりあえず、保健室行こう」
そう言い出したのは、木津だった。
「ほら」
身体を支えてくれたのは、村井だった。
「俺も行く」
そう言って立ち上がった鳴谷の姿を見て、胸の奥がわずかに緩む。
席を立った瞬間、ふらりと視界が揺れた。貧血のような眩暈。けれど、どこか熱っぽい。
風邪を引いたのかもしれない。
ここ数年、流行りの感染症にすらかかったことのない自分が――そんな考えが、頭の片隅をかすめる。
(……妄想が浮かばないのも、体調不良なのかな)
ぼんやりとそんなことを思いながら、稔は三人に支えられ、見守られ、保健室へと足を向けた。
***
その日は早退した。中学から遅刻も早退も欠席もなかった稔が、初めて。
親は珍しがって大騒ぎするし、兄妹は「人間なんだから当たり前だろ」と呆れていた。
熱はない。病院に行くほどでもないと親を説得し、帰宅してから夜までぐっすり眠った。そのおかげで、身体はすっきりしている。
けれど――いつも騒がしかった頭の中は、静かなままだった。
稔は、その静けさが怖い。
中学一年の半ば頃。まだ、ただの漫画好きで、頭に浮かんだことをそのまま言葉にしてしまうような、ごく普通の学生だった頃。
ある日、好きな女の子が読んでいる漫画のタイトルを偶然耳にした。気になって手に取ったのは、ボーイズラブというジャンルだった。
何気なく買った本――これが、始まりだった。
まだ中身も読んでいないが、帯に堂々と書かれたボーイズラブという文字。
そんなのを読むのかと男子生徒が稔の机の上にある本を見て、驚いていた。
こういうジャンルが毛嫌いされていることなど、稔は知らなかった。
これは興味あって今から読むのだと説明したが、男子たちは、気味が悪いと稔を避け始める。
「自分が恋愛対象にされたら困る」
そんな一言が、あっという間に広まった。
教科書は破かれ、靴は焼却炉に放り込まれ、席を外した隙にカバンはゴミ箱に捨てられていた。
幸い、身体に直接危害を加えられることはなかったが、廊下ですれ違うたびに罵声が飛んだ。
もともとよく話す性格だったこともあって、「前からうざかった」と、今さらのように不満をぶつけられることも増えた。
思ったことを口にしてしまうなら――何も考えなければいい。
そう思って、考えないようにした。自分じゃない自分を作ろうと、必死だった。
けれど。
考えないようにすればするほど、言葉にしないようにするほど、空いた場所に流れ込んでくるのは、他人の悪意ばかりだった。
それが、耐えられなかった。
そんな時だった。
クラスの女子たちが、稔をいじめている男子生徒のことを話しているのが耳に入る。
――あの二人、実は付き合ってるんじゃない?
軽い調子の、ただの噂話。
けれどその言葉に、稔は思わず耳を傾ける。
自分をいじめている理由は、二人の関係を隠すため――そんなふうに語られるのを聞いた瞬間、胸の奥に沈んでいたものが、すっと掬い上げられるような感覚があった。
その解釈は、あまりにも都合がよかった。
けれども、それは折れかけていた稔の心を支えるものになった。
それまでただの悪意だったものが、意味を持った出来事へと変わっていく。
(そっか……そういうことかもしれない)
そう思えた瞬間、胸の奥がすっと楽になる。
稔は、もう一度あの本を開いた。いじめのきっかけになった、あの一冊を。
この手のジャンルは読みたくない――そう思っていたはずなのに。
男同士の恋愛なんて、よくわからない。
だからこそ――知りたいと思った。
そうして手に取ったその本は、気づけばページをめくる手が止まらなくなっていた。
最初はただ、普通の恋愛ものより少し奥が深くて、面白いと思っただけだったのに。
けれど。読み進めるうちに、その魅力に、少しずつ引き込まれていく。
そして、気づく。
現実は変えられないけれど――妄想は、自分の都合でいくらでも形を変えられるのだと。
そこから、歯止めがきかないほどに妄想をするようになった。嫌なことが入ってこないように。
やがて、いじめは終わりを迎えた。諦めた、という方が正しいのかもしれない。
同性愛者を擁護する世の中の風潮もあって、そういう本が好きというだけの稔をいじめる理由にはなりにくくなっていった。
その後、高橋という友達もできて、稔は少しずつ、いつもの明るさを取り戻していった。
そんなことを、稔はふと思い出す。
騒がしかった頭の中が静まり返ったことで、押し込めていたはずの過去が、蘇ってしまった。
静寂という恐怖を抱えたまま、稔は窓の外を見る。明日は雨が降りそうな、重く沈んだ空だった。
さすが、この学校の「忙殺期」である。
夏から準備を進めてきたとはいえ、本番が近づくにつれて忙しさは増していく。歌声喫茶で張り切っているのは合唱部やカラオケ好きの一部の生徒だけで、他の生徒たちは提供する飲食や、いつ休憩に入って文化祭を回れるかばかりを気にしていた。
その温度差に苛立ったのか、業間休みになるや否や、ある生徒が教卓の前に立ち、熱を込めて意見をぶつけていた。
その様子をぼんやりと眺めながら、稔は机に広げたノートへと視線を落とした。高橋と続けている、妄想の交換日記。
今日も鳴谷や木津を見て、どんな妄想が浮かぶのか――自分でも分からない。それがむしろ楽しかったはずなのに。
ふと、二人の姿が目に入る。その瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。村井が教室に入ってくるのが見えた、そのときだった。
――書かなきゃ。
半ば反射のように、シャーペンを握る。
けれど。
(あれ……何も浮かばない)
先ほどまでの感覚が嘘のように、手が止まる。
いつもなら、三人の名前を見るだけで、言葉は勝手に溢れてきた。考えるよりも先に、妄想が形になっていたのに。
(待って、待って……。鳴谷くんが木津くんを……いや、違う。村井くんと……あれ……?)
思考を回そうとしても、何も引っかからない。
想像が、妄想が、ぴくりとも動かない。
まるで最初から何もなかったかのように。芽を出す種すら、どこにも残っていないみたいに。
(うそでしょ……)
中学の頃からずっと、妄想が自分の一部だった。好きな作品に出会ってから、一度だってこの頭の中が静かになったことなんてなかったのに。
楽しいはずの思考は、いつの間にか形を失って。代わりに残ったのは、拭いきれない不安だけだった。
賑やかだったはずの世界が、音もなく消えていく。
静寂が、怖い。
「どうしたの?」
顔色が悪いと気づいたのか、村井が声をかけてくる。
整った顔立ちは、稔の好みで――本来なら、いくらでも妄想が広がるはずの相手だった。それなのに、何も感じない。緊張すら湧かない。
その事実に、ぞっとする。
「おい、顔、青いぞ」
木津も心配そうに覗き込んでくる。けれど、何も起きない。
胸が高鳴ることも、頭の中で妄想が動き出すこともない。
二人が並べば、いつもなら都合のいい想像が勝手に広がっていったはずなのに。
今、稔の中を満たしているのは――静けさと、不安だけだった。
(助けて……怖い……)
声に出したつもりはないのに、内側で言葉だけが震える。
思ったことがすぐ口に出てしまう――そんな自分だったはずなのに。その感覚すら、どこかへ消えていた。
ふと、鳴谷に視線を向ける。鳴谷もまた、心配そうにこちらを見ていた。
近くに寄ってくることはない。けれど、少し離れた場所から、確かに稔を気にかけているのが分かる。
(……鳴谷くん、助けて)
なぜか、その距離がひどくもどかしくて――思わず、助けを求めてしまう。
声には、ならないまま。
「とりあえず、保健室行こう」
そう言い出したのは、木津だった。
「ほら」
身体を支えてくれたのは、村井だった。
「俺も行く」
そう言って立ち上がった鳴谷の姿を見て、胸の奥がわずかに緩む。
席を立った瞬間、ふらりと視界が揺れた。貧血のような眩暈。けれど、どこか熱っぽい。
風邪を引いたのかもしれない。
ここ数年、流行りの感染症にすらかかったことのない自分が――そんな考えが、頭の片隅をかすめる。
(……妄想が浮かばないのも、体調不良なのかな)
ぼんやりとそんなことを思いながら、稔は三人に支えられ、見守られ、保健室へと足を向けた。
***
その日は早退した。中学から遅刻も早退も欠席もなかった稔が、初めて。
親は珍しがって大騒ぎするし、兄妹は「人間なんだから当たり前だろ」と呆れていた。
熱はない。病院に行くほどでもないと親を説得し、帰宅してから夜までぐっすり眠った。そのおかげで、身体はすっきりしている。
けれど――いつも騒がしかった頭の中は、静かなままだった。
稔は、その静けさが怖い。
中学一年の半ば頃。まだ、ただの漫画好きで、頭に浮かんだことをそのまま言葉にしてしまうような、ごく普通の学生だった頃。
ある日、好きな女の子が読んでいる漫画のタイトルを偶然耳にした。気になって手に取ったのは、ボーイズラブというジャンルだった。
何気なく買った本――これが、始まりだった。
まだ中身も読んでいないが、帯に堂々と書かれたボーイズラブという文字。
そんなのを読むのかと男子生徒が稔の机の上にある本を見て、驚いていた。
こういうジャンルが毛嫌いされていることなど、稔は知らなかった。
これは興味あって今から読むのだと説明したが、男子たちは、気味が悪いと稔を避け始める。
「自分が恋愛対象にされたら困る」
そんな一言が、あっという間に広まった。
教科書は破かれ、靴は焼却炉に放り込まれ、席を外した隙にカバンはゴミ箱に捨てられていた。
幸い、身体に直接危害を加えられることはなかったが、廊下ですれ違うたびに罵声が飛んだ。
もともとよく話す性格だったこともあって、「前からうざかった」と、今さらのように不満をぶつけられることも増えた。
思ったことを口にしてしまうなら――何も考えなければいい。
そう思って、考えないようにした。自分じゃない自分を作ろうと、必死だった。
けれど。
考えないようにすればするほど、言葉にしないようにするほど、空いた場所に流れ込んでくるのは、他人の悪意ばかりだった。
それが、耐えられなかった。
そんな時だった。
クラスの女子たちが、稔をいじめている男子生徒のことを話しているのが耳に入る。
――あの二人、実は付き合ってるんじゃない?
軽い調子の、ただの噂話。
けれどその言葉に、稔は思わず耳を傾ける。
自分をいじめている理由は、二人の関係を隠すため――そんなふうに語られるのを聞いた瞬間、胸の奥に沈んでいたものが、すっと掬い上げられるような感覚があった。
その解釈は、あまりにも都合がよかった。
けれども、それは折れかけていた稔の心を支えるものになった。
それまでただの悪意だったものが、意味を持った出来事へと変わっていく。
(そっか……そういうことかもしれない)
そう思えた瞬間、胸の奥がすっと楽になる。
稔は、もう一度あの本を開いた。いじめのきっかけになった、あの一冊を。
この手のジャンルは読みたくない――そう思っていたはずなのに。
男同士の恋愛なんて、よくわからない。
だからこそ――知りたいと思った。
そうして手に取ったその本は、気づけばページをめくる手が止まらなくなっていた。
最初はただ、普通の恋愛ものより少し奥が深くて、面白いと思っただけだったのに。
けれど。読み進めるうちに、その魅力に、少しずつ引き込まれていく。
そして、気づく。
現実は変えられないけれど――妄想は、自分の都合でいくらでも形を変えられるのだと。
そこから、歯止めがきかないほどに妄想をするようになった。嫌なことが入ってこないように。
やがて、いじめは終わりを迎えた。諦めた、という方が正しいのかもしれない。
同性愛者を擁護する世の中の風潮もあって、そういう本が好きというだけの稔をいじめる理由にはなりにくくなっていった。
その後、高橋という友達もできて、稔は少しずつ、いつもの明るさを取り戻していった。
そんなことを、稔はふと思い出す。
騒がしかった頭の中が静まり返ったことで、押し込めていたはずの過去が、蘇ってしまった。
静寂という恐怖を抱えたまま、稔は窓の外を見る。明日は雨が降りそうな、重く沈んだ空だった。

