あの頃とは、どこか違う空気が、静かに鳴谷の肺へと流れ込んでくる。朝のひんやりとした冷気が胸の奥まで満ちて、鳴谷はゆっくりと息を吐いた。
早朝。犬の散歩を終えたあと――約束通り、鳴谷は稔との時間を手に入れていた。半ば強引に押し切るような形ではあったけれど、それでも構わなかった。
新聞配達の手伝い、一日目。とはいえ、ずっと一緒にいられるわけではない。
ウェブ新聞が普及した今、配達件数そのものは決して多くない。だがその分、受け持つ区域は広がっている。とりわけ稔の担当区域は広く、ひとりで回るにはどうしても時間がかかるらしかった。
けれど、二人で並んで配るとなると、かえって足手まといになる。そう判断した鳴谷は、自分にも土地勘のある自宅周辺の一角だけを、ほんの数部だけ手伝うことにした。
ほんのわずかな量。それでも――少しでも、役に立てているのなら、それでよかった。
配達を終えたあとは、待ち合わせる。あの――出会った公園で。
「鳴谷くん、ありがとう! 助かったよ!」
ひと足遅れて、稔が姿を現した。すべての配達を終えたばかりのその顔には、疲労よりも、どこか晴れやかな達成感がにじんでいる。
「お疲れ様!」
そう言って差し出されたスポーツドリンク。受け取ると、容器の中が小さく揺れて、ちゃぽり、と涼やかな音を立てた。
「少ししか手伝えなかったが」
「ううん、すごく助かったよ! おかげで、こうして時間にも余裕ができたし!」
その言葉に、鳴谷は胸の奥で静かに息をつく。自分のわがままが、迷惑になっていなかった――その事実に、ほっと肩の力が抜けた。
「……そうだ、小野寺。これ」
そう言って、持っていた小さな袋を差し出す。中には、コンビニで買ったドーナツが入っていた。いちごジャムとホイップクリームを挟んだ新作だ。
ここへ来る前、少しだけ遠回りして買ってきたものだった。
「え? くれるの?!」
稔は嬉しそうに袋の中をのぞき込む。そして、それが自分の好物だと気づいた瞬間、ぱっと表情が明るくなった。
「えへへ、僕、ドーナツが一番好きなんだ」
幸せそうな笑顔が鳴谷に向けられた。
――そんなこと、知っている。
胸の内で小さく呟きながら、鳴谷は自然と口元を緩めた。目の前で無邪気に喜ぶその笑顔が、どうしようもなく愛おしい。
ほんの些細なことが、こんなにも心を満たす。それだけで、十分すぎるほどに幸せだった。
「なんか懐かしいなぁ。僕ね、ここの公園でドーナツ食べたことあるんだよ」
その言葉に、鳴谷の動きがぴたりと止まる。
――まさか。
胸の奥で、期待が小さく跳ねた。それに呼応するように、鼓動がわずかに速くなる。
「中学のときに、知らない子と一緒に食べたんだ。かなり前だし、暗い時間だったから、顔も曖昧で……どんな子だったか覚えてないんだけど」
胸の奥で、期待が小さく跳ねる。
「もしかしたら、鳴谷くんの同級生かもね」
何気ない思い出話。深い意味などないはずの言葉。
けれど――その無意識の一言が、鳴谷の胸を強く揺らした。
稔の、思ったことをそのまま口にする性格。それが今は、どうしようもなくありがたかった。
たとえ朧げでも、覚えていてくれた。その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かく満たされていく。
ふっと、自然に笑みがこぼれる。まるで、色を失っていた世界に、もう一度やわらかな光が灯るように。
あのとき。あの出会いがあったからこそ、今の自分がある。表情を、少しずつ外へと出せるようになったことも、この想いを知ったことも――すべてが、そこへと繋がっている。
稔は、あのときと同じように語り続ける。「あのときはこうだった」「ああだった」と、楽しそうに。
その姿を見ているだけで、満たされる。それだけでいいと、思ってしまいそうになる。
けれど――
この胸に溢れている想いは、そんな小さな箱に収めておけるほど、軽いものではなかった。
「……小野寺」
不意に、その名を呼ぶ。
あのとき、この場所で出会ったのは自分だと――そう伝えるつもりだった。
けれど、唇からこぼれたのは、それよりも先にあふれ出た、本当の気持ちだった。
「俺は、小野寺が好きだ」
一度、息を吸う。
逃げ場をなくすように、まっすぐに言葉を重ねる。
「俺と、付き合ってほしい」
飾りも、ためらいもない。ただ、真っ直ぐに。
鳴谷は、稔に告白した。
***
「どうしよう……」
ぽつりとこぼれた声は、情けないほどに弱々しかった。
取り返しのつかないことをしてしまった――そんな思いが、胸の内でぐるぐると渦を巻いている。高橋に言われた「傍から見た自分」を思い浮かべるたびに、自分の浅はかさが突きつけられて、思わずどこかへ逃げ出したくなる。
今朝、稔は鳴谷に真正面から告白された。
その答えは――まだ、保留にしてもらっている。
本当なら、すぐに言えたはずだった。「ごめん」の一言を。
それで全部、終わるのに。それで、楽になれるはずなのに。
どうしても、その言葉が喉の奥に引っかかって、出てこなかった。
この中途半端な性格が、また自分を苦しめる。
中学の頃もそうだった。話しすぎて、気づけば周りから人がいなくなっていた。
自分の歪んだ腐った思考が知られたときには、露骨に気味悪がられて――独りでいることが当たり前になった。
そんな中で、高橋だけが、変わらずそばにいてくれた。
けれど今は違う。高橋以外にも、自分を受け入れてくれる人がいる。
そのことが嬉しくて、浮かれていたのだと思う。
――だから。
この居心地のいい場所を、手放さなければならないのだと考えた瞬間。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いた。
まるで、ドーナツの中心みたいに――どうやっても埋まらない、空白が。
「どうしたの、稔くん?」
いつもの調子で、やわらかく声をかけてくる村井。
「具合悪いのか?」
続いて木津が、短く問いかけた。
二人の視線を同時に受け止めながら、稔は小さく息を整える。
この二人もまた、自分に好意を寄せてくれている相手だった。
そろそろ気持ちを整理して、答えを出さなければいけない。
もし「ごめん」と伝えれば、きっと二人は笑って受け入れる。
そして、今の関係を壊さないように、少しずつ距離を調整していくのだろう。
けれど――。鳴谷に同じ言葉を向けたとき、同じように済むとは思えなかった。あの静かな距離は、もっと決定的なかたちで途切れてしまう気がする。
そう考えるだけで、胸の奥が鈍く痛んだ。
三人の中で、いちばん関わりが多いわけではない。それでも、なぜかその存在だけが、うまく割り切れない。
考えがまとまらないまま、意識が沈みかけた、そのときだった。
「稔先輩! ごめん!」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。小鷹が息を切らしながら駆け寄ってきて、その場で足を止めた。
「先輩、俺、文化祭は先輩と回れない!」
唐突な言葉に、稔は一瞬反応が遅れる。そもそもそんな約束をしていたこと自体、すぐには思い出せなかった。
「え?……あ、うん」
わずかに間を置いて、ようやく言葉を返す。
「俺、運命の相手に出会ったんです!」
周囲に届く声量でそう告げられ、視線が集まる。木津が小さく肩をすくめているのが目に入った。
「そうなんだ……おめでとう」
状況を完全には飲み込めないまま、稔はそう答えるしかなかった。
「先輩のことも好きです。でも、その人を大事にしたいんです。だから、これからは友達でお願いします!」
まっすぐな言葉とともに、両手を取られる。押し切られるように、稔は小さく頷いた。
それを確認すると、小鷹は満足したように表情を緩め、足早に去っていった。
一瞬の出来事だった。
「もう次の恋かよ」
呆れたように呟きながら、木津がその背中を見送る。
「邪魔者が減ってよかったねぇ」
何気ない口調で、村井が言った。
その一言に、木津が視線を向ける。隣に立つ村井は、いつも通りの穏やかな表情をしていた。
「お前、知ってたの?」
「んー?」
「どっちだよ」
「まあ、惚れやすいってのは、扱いやすくて助かるね」
さらりとした言い方だった。
けれど、その言葉の内容に、わずかに空気が冷える。つまり小鷹の性格を利用して、何かをしたということだ。
何をどうしたのかは分からない。ただ、踏み込むべきではない領域があるのだと、自然と理解させられる。
「え?……こわ」
木津が小さく呟く。
「俺はお前と友人でよかったよ」
「え? 友人とか関係ないけど?」
淡々と返され、木津は二度目の「こっわ」と口にし、それ以上何も言わなかった。
そのやり取りの横で、稔は静かに思考を巡らせていた。
小鷹から向けられていた好意。それを、確かに嬉しいと思っていたはずなのに。
こうして離れていくことに、強い感情は残らなかった。
寂しさも、引き留めたいという気持ちもない。
ただ、少し賑やかだったものが、元に戻った――それだけだった。
自分の日常の一部になっていた存在。それでも、その重さは思っていたよりも軽い。
では、この感情を、他の二人に当てはめたらどうなるのか。
そう考えた、そのとき。
「稔くん。文化祭、誰と回る?」
村井の声が、静かに差し込んだ。
文化祭までに決めなければならない。その現実が、急にはっきりと輪郭を持つ。
「……少し、考えさせて」
すぐには答えを出せず、稔はそう返した。
早朝。犬の散歩を終えたあと――約束通り、鳴谷は稔との時間を手に入れていた。半ば強引に押し切るような形ではあったけれど、それでも構わなかった。
新聞配達の手伝い、一日目。とはいえ、ずっと一緒にいられるわけではない。
ウェブ新聞が普及した今、配達件数そのものは決して多くない。だがその分、受け持つ区域は広がっている。とりわけ稔の担当区域は広く、ひとりで回るにはどうしても時間がかかるらしかった。
けれど、二人で並んで配るとなると、かえって足手まといになる。そう判断した鳴谷は、自分にも土地勘のある自宅周辺の一角だけを、ほんの数部だけ手伝うことにした。
ほんのわずかな量。それでも――少しでも、役に立てているのなら、それでよかった。
配達を終えたあとは、待ち合わせる。あの――出会った公園で。
「鳴谷くん、ありがとう! 助かったよ!」
ひと足遅れて、稔が姿を現した。すべての配達を終えたばかりのその顔には、疲労よりも、どこか晴れやかな達成感がにじんでいる。
「お疲れ様!」
そう言って差し出されたスポーツドリンク。受け取ると、容器の中が小さく揺れて、ちゃぽり、と涼やかな音を立てた。
「少ししか手伝えなかったが」
「ううん、すごく助かったよ! おかげで、こうして時間にも余裕ができたし!」
その言葉に、鳴谷は胸の奥で静かに息をつく。自分のわがままが、迷惑になっていなかった――その事実に、ほっと肩の力が抜けた。
「……そうだ、小野寺。これ」
そう言って、持っていた小さな袋を差し出す。中には、コンビニで買ったドーナツが入っていた。いちごジャムとホイップクリームを挟んだ新作だ。
ここへ来る前、少しだけ遠回りして買ってきたものだった。
「え? くれるの?!」
稔は嬉しそうに袋の中をのぞき込む。そして、それが自分の好物だと気づいた瞬間、ぱっと表情が明るくなった。
「えへへ、僕、ドーナツが一番好きなんだ」
幸せそうな笑顔が鳴谷に向けられた。
――そんなこと、知っている。
胸の内で小さく呟きながら、鳴谷は自然と口元を緩めた。目の前で無邪気に喜ぶその笑顔が、どうしようもなく愛おしい。
ほんの些細なことが、こんなにも心を満たす。それだけで、十分すぎるほどに幸せだった。
「なんか懐かしいなぁ。僕ね、ここの公園でドーナツ食べたことあるんだよ」
その言葉に、鳴谷の動きがぴたりと止まる。
――まさか。
胸の奥で、期待が小さく跳ねた。それに呼応するように、鼓動がわずかに速くなる。
「中学のときに、知らない子と一緒に食べたんだ。かなり前だし、暗い時間だったから、顔も曖昧で……どんな子だったか覚えてないんだけど」
胸の奥で、期待が小さく跳ねる。
「もしかしたら、鳴谷くんの同級生かもね」
何気ない思い出話。深い意味などないはずの言葉。
けれど――その無意識の一言が、鳴谷の胸を強く揺らした。
稔の、思ったことをそのまま口にする性格。それが今は、どうしようもなくありがたかった。
たとえ朧げでも、覚えていてくれた。その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かく満たされていく。
ふっと、自然に笑みがこぼれる。まるで、色を失っていた世界に、もう一度やわらかな光が灯るように。
あのとき。あの出会いがあったからこそ、今の自分がある。表情を、少しずつ外へと出せるようになったことも、この想いを知ったことも――すべてが、そこへと繋がっている。
稔は、あのときと同じように語り続ける。「あのときはこうだった」「ああだった」と、楽しそうに。
その姿を見ているだけで、満たされる。それだけでいいと、思ってしまいそうになる。
けれど――
この胸に溢れている想いは、そんな小さな箱に収めておけるほど、軽いものではなかった。
「……小野寺」
不意に、その名を呼ぶ。
あのとき、この場所で出会ったのは自分だと――そう伝えるつもりだった。
けれど、唇からこぼれたのは、それよりも先にあふれ出た、本当の気持ちだった。
「俺は、小野寺が好きだ」
一度、息を吸う。
逃げ場をなくすように、まっすぐに言葉を重ねる。
「俺と、付き合ってほしい」
飾りも、ためらいもない。ただ、真っ直ぐに。
鳴谷は、稔に告白した。
***
「どうしよう……」
ぽつりとこぼれた声は、情けないほどに弱々しかった。
取り返しのつかないことをしてしまった――そんな思いが、胸の内でぐるぐると渦を巻いている。高橋に言われた「傍から見た自分」を思い浮かべるたびに、自分の浅はかさが突きつけられて、思わずどこかへ逃げ出したくなる。
今朝、稔は鳴谷に真正面から告白された。
その答えは――まだ、保留にしてもらっている。
本当なら、すぐに言えたはずだった。「ごめん」の一言を。
それで全部、終わるのに。それで、楽になれるはずなのに。
どうしても、その言葉が喉の奥に引っかかって、出てこなかった。
この中途半端な性格が、また自分を苦しめる。
中学の頃もそうだった。話しすぎて、気づけば周りから人がいなくなっていた。
自分の歪んだ腐った思考が知られたときには、露骨に気味悪がられて――独りでいることが当たり前になった。
そんな中で、高橋だけが、変わらずそばにいてくれた。
けれど今は違う。高橋以外にも、自分を受け入れてくれる人がいる。
そのことが嬉しくて、浮かれていたのだと思う。
――だから。
この居心地のいい場所を、手放さなければならないのだと考えた瞬間。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いた。
まるで、ドーナツの中心みたいに――どうやっても埋まらない、空白が。
「どうしたの、稔くん?」
いつもの調子で、やわらかく声をかけてくる村井。
「具合悪いのか?」
続いて木津が、短く問いかけた。
二人の視線を同時に受け止めながら、稔は小さく息を整える。
この二人もまた、自分に好意を寄せてくれている相手だった。
そろそろ気持ちを整理して、答えを出さなければいけない。
もし「ごめん」と伝えれば、きっと二人は笑って受け入れる。
そして、今の関係を壊さないように、少しずつ距離を調整していくのだろう。
けれど――。鳴谷に同じ言葉を向けたとき、同じように済むとは思えなかった。あの静かな距離は、もっと決定的なかたちで途切れてしまう気がする。
そう考えるだけで、胸の奥が鈍く痛んだ。
三人の中で、いちばん関わりが多いわけではない。それでも、なぜかその存在だけが、うまく割り切れない。
考えがまとまらないまま、意識が沈みかけた、そのときだった。
「稔先輩! ごめん!」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。小鷹が息を切らしながら駆け寄ってきて、その場で足を止めた。
「先輩、俺、文化祭は先輩と回れない!」
唐突な言葉に、稔は一瞬反応が遅れる。そもそもそんな約束をしていたこと自体、すぐには思い出せなかった。
「え?……あ、うん」
わずかに間を置いて、ようやく言葉を返す。
「俺、運命の相手に出会ったんです!」
周囲に届く声量でそう告げられ、視線が集まる。木津が小さく肩をすくめているのが目に入った。
「そうなんだ……おめでとう」
状況を完全には飲み込めないまま、稔はそう答えるしかなかった。
「先輩のことも好きです。でも、その人を大事にしたいんです。だから、これからは友達でお願いします!」
まっすぐな言葉とともに、両手を取られる。押し切られるように、稔は小さく頷いた。
それを確認すると、小鷹は満足したように表情を緩め、足早に去っていった。
一瞬の出来事だった。
「もう次の恋かよ」
呆れたように呟きながら、木津がその背中を見送る。
「邪魔者が減ってよかったねぇ」
何気ない口調で、村井が言った。
その一言に、木津が視線を向ける。隣に立つ村井は、いつも通りの穏やかな表情をしていた。
「お前、知ってたの?」
「んー?」
「どっちだよ」
「まあ、惚れやすいってのは、扱いやすくて助かるね」
さらりとした言い方だった。
けれど、その言葉の内容に、わずかに空気が冷える。つまり小鷹の性格を利用して、何かをしたということだ。
何をどうしたのかは分からない。ただ、踏み込むべきではない領域があるのだと、自然と理解させられる。
「え?……こわ」
木津が小さく呟く。
「俺はお前と友人でよかったよ」
「え? 友人とか関係ないけど?」
淡々と返され、木津は二度目の「こっわ」と口にし、それ以上何も言わなかった。
そのやり取りの横で、稔は静かに思考を巡らせていた。
小鷹から向けられていた好意。それを、確かに嬉しいと思っていたはずなのに。
こうして離れていくことに、強い感情は残らなかった。
寂しさも、引き留めたいという気持ちもない。
ただ、少し賑やかだったものが、元に戻った――それだけだった。
自分の日常の一部になっていた存在。それでも、その重さは思っていたよりも軽い。
では、この感情を、他の二人に当てはめたらどうなるのか。
そう考えた、そのとき。
「稔くん。文化祭、誰と回る?」
村井の声が、静かに差し込んだ。
文化祭までに決めなければならない。その現実が、急にはっきりと輪郭を持つ。
「……少し、考えさせて」
すぐには答えを出せず、稔はそう返した。

