鳴谷はあの日、雨に濡れて帰宅したせいで、風邪を引いた。
熱がようやく下がり、体調が戻りつつあったある朝のことだった。喉の渇きで目を覚ました鳴谷は、まだ熱の名残が身体の奥にわずかに残っているのを感じながら、ゆっくりと上体を起こす。
頭は完全には冴えていない。思考はどこか鈍く、現実との距離がわずかにずれているような感覚があった。
それでも、窓の外に目を向けると、そこにはいつも通りの朝が広がっている。
ちょうど母親が、犬のサクラの散歩から帰ってくる時間だった。見慣れているはずの光景なのに、その日はなぜか、ひどく遠くの出来事のように見える。
数日間、熱に閉じ込められていたせいかもしれない。日常というものが、一度手の届かない場所へ離れてしまったような、そんな感覚が残っていた。
そのまま、ぼんやりと庭の向こうへ視線を滑らせる。――そのときだった。
鳴谷は見つけた。
あのときの――新聞配達の少年、小野寺稔を。
一瞬、息が止まったような気がした。
自転車のかごには新聞が積まれ、少年は慣れた様子で一軒ずつ配っている。無駄のない動き。迷いのない足取り。
あの雨の日に出会った姿と、目の前の光景が、ゆっくりと重なっていく。
家が新聞販売店で手伝っている、という話は覚えていた。けれど、こうして朝の空気の中で働く姿を見ると、それが現実のものとして胸に落ちてくる。
曖昧になりかけていた記憶が、急に形を持ちはじめる。
胸の奥が、わずかに高鳴った。
あのときのお礼を言いたい。
そう思う。思うのに、身体は動かない。
窓越しの距離は、たったそれだけのはずなのに、どうしようもなく遠い。
声をかければいい。それだけのことなのに、その「それだけ」ができない。
何を言えばいいのか分からない。どう切り出せばいいのかも分からない。
ただ、見ていることしかできなかった。
そうしているうちに、あの時の少年の背中は、少しずつ小さくなっていった。
そして、体調が戻る頃には、一週間以上が過ぎていた。
その間にも何度か稔の姿を見かけた。けれど、結局一度も声をかけることはできなかった。
機会がなかったわけではない。ただ、自分が踏み出さなかっただけだ。
そしてその頃から、今度は成長痛が始まった。
脚の奥が、じんわりと痛む。何もしていなくても、身体の内側から引き延ばされているような感覚が続く。
どうしようもない、鈍い痛みだった。
サクラの散歩すら、思うようにできない日が続いた。
――そんなある日。
久しぶりに外へ出られるほどには痛みが引き、朝のサクラの散歩から帰ると、鳴谷は、自宅の前で稔と鉢合わせた。
心の準備はなかった。
視界に入った瞬間、心臓がわずかに跳ねる。
まず目に入ったのは、自転車のかごに残っている新聞だった。配達の途中なのだと分かる。
次に、腕の中。
小さな猫が、大事そうに抱えられていた。
(猫を拾ったまま、配っているのか)
その事実を理解するのに、ほんのわずかな時間がかかった。どうすればいいのか分からないまま、とりあえず抱えている。そんな不器用さが、そのまま形になっているようだった。
稔は鳴谷に気づき、視線を向ける。
その目は――初めて会う相手を見る目だった。
胸の奥が、静かに軋む。
(覚えていない)
言葉にされるよりも先に、それが分かってしまう。
あの時出会いは、稔にとっては、きっと数ある出来事のひとつでしかない。
(またね、って言ってくれたのに)
あのときの声が、やけに鮮明に蘇る。
自分にとっては確かに残っているものが、相手の中には残っていないかもしれない。その事実が、思っていたよりも深く胸に刺さったそのときだった。
腕の中の猫が、小さく鳴いた。か細く、今にも消えてしまいそうな声だった。
湿った空気の中に溶けるように、その鳴き声は頼りなく広がる。
それに反応するように、稔は困ったように眉を寄せ、視線を落とした。腕の中の小さな体をどう扱えばいいのか分からない――戸惑いが、その仕草の一つひとつに滲んでいる。
言葉にはならない迷いが、表情と沈黙の中にはっきりと現れていた。
その戸惑いが、まっすぐ伝わってくる。
気づけば鳴谷は、その猫を預かることになっていた。いつ、どう言葉を交わしたのか、細かなやり取りは思い出せない。
言葉にした記憶は曖昧なのに、流れだけははっきりとしている。まるで最初からそうなることが決まっていたかのように、出来事は淀みなく進んでいた。
その日から、我が家には一匹の猫が家族として加わった。見慣れたはずの空間に、小さな気配がひとつ増える。
たったそれだけの変化なのに、家の空気はわずかに変わった気がした。足音や気配、視線の向かう先――些細なものが、少しずつ変わっていく。
その変化に、母は気づいた。
息子が、ほんの少しだけ表情を表に出せるようになっていたことに。
猫のおかげだと喜ぶ両親を見て、本当は別のきっかけがあったことを告げようと思った。けれど、それを口にすることはできなかった。
稔との出来事を、誰かに話すのが嫌だった。自分の中だけに大切にしまっておきたい――そんな気持ちが、静かに胸の奥にあった。
それから数日後、鳴谷は再び成長痛で寝込んでしまう。
身体の奥からじわじわと広がる痛みは、日常の動きを容赦なく奪っていった。
猫は元気にしているよと、稔に会って話がしたかった。
その思いは届かぬまま、激しい成長痛のせいで、散歩どころか登校すらできない日が続いていた。思うように身体が動かない日々が、静かに積み重なっていく。
その代わりに、朝の早い時間、レースカーテンの隙間から外を眺めるのが、鳴谷の日課になった。まだ世界が完全には動き出していない時間帯に、意識だけが先に浮かび上がる。
静かな時間。音が少なく、空気だけがゆっくりと流れている。
世界がまだ動き出す前の、わずかな余白のような時間。一日の始まりと呼ぶにはまだ早い、境目のようなひととき。
鳴谷は、自然と窓の外を見るようになっていた。意識するまでもなく、視線は決まった場所へと向かう。
稔が新聞を配りに来る時間。そして、サクラや猫を見に来る時間。
その姿を、ただそっと眺める。
気づけば、朝の時間はそのためのものになっていた。
伸びていく身長とともに。身体が変わっていくのと同じように、内側にも変化が生まれていく。
胸の奥に芽生えた感情も、ゆっくりと、けれど確実に形を持ち始める。
鳴谷青史は、気づいていた。
自分が、静かに。
――小野寺稔に恋をしていることを。
熱がようやく下がり、体調が戻りつつあったある朝のことだった。喉の渇きで目を覚ました鳴谷は、まだ熱の名残が身体の奥にわずかに残っているのを感じながら、ゆっくりと上体を起こす。
頭は完全には冴えていない。思考はどこか鈍く、現実との距離がわずかにずれているような感覚があった。
それでも、窓の外に目を向けると、そこにはいつも通りの朝が広がっている。
ちょうど母親が、犬のサクラの散歩から帰ってくる時間だった。見慣れているはずの光景なのに、その日はなぜか、ひどく遠くの出来事のように見える。
数日間、熱に閉じ込められていたせいかもしれない。日常というものが、一度手の届かない場所へ離れてしまったような、そんな感覚が残っていた。
そのまま、ぼんやりと庭の向こうへ視線を滑らせる。――そのときだった。
鳴谷は見つけた。
あのときの――新聞配達の少年、小野寺稔を。
一瞬、息が止まったような気がした。
自転車のかごには新聞が積まれ、少年は慣れた様子で一軒ずつ配っている。無駄のない動き。迷いのない足取り。
あの雨の日に出会った姿と、目の前の光景が、ゆっくりと重なっていく。
家が新聞販売店で手伝っている、という話は覚えていた。けれど、こうして朝の空気の中で働く姿を見ると、それが現実のものとして胸に落ちてくる。
曖昧になりかけていた記憶が、急に形を持ちはじめる。
胸の奥が、わずかに高鳴った。
あのときのお礼を言いたい。
そう思う。思うのに、身体は動かない。
窓越しの距離は、たったそれだけのはずなのに、どうしようもなく遠い。
声をかければいい。それだけのことなのに、その「それだけ」ができない。
何を言えばいいのか分からない。どう切り出せばいいのかも分からない。
ただ、見ていることしかできなかった。
そうしているうちに、あの時の少年の背中は、少しずつ小さくなっていった。
そして、体調が戻る頃には、一週間以上が過ぎていた。
その間にも何度か稔の姿を見かけた。けれど、結局一度も声をかけることはできなかった。
機会がなかったわけではない。ただ、自分が踏み出さなかっただけだ。
そしてその頃から、今度は成長痛が始まった。
脚の奥が、じんわりと痛む。何もしていなくても、身体の内側から引き延ばされているような感覚が続く。
どうしようもない、鈍い痛みだった。
サクラの散歩すら、思うようにできない日が続いた。
――そんなある日。
久しぶりに外へ出られるほどには痛みが引き、朝のサクラの散歩から帰ると、鳴谷は、自宅の前で稔と鉢合わせた。
心の準備はなかった。
視界に入った瞬間、心臓がわずかに跳ねる。
まず目に入ったのは、自転車のかごに残っている新聞だった。配達の途中なのだと分かる。
次に、腕の中。
小さな猫が、大事そうに抱えられていた。
(猫を拾ったまま、配っているのか)
その事実を理解するのに、ほんのわずかな時間がかかった。どうすればいいのか分からないまま、とりあえず抱えている。そんな不器用さが、そのまま形になっているようだった。
稔は鳴谷に気づき、視線を向ける。
その目は――初めて会う相手を見る目だった。
胸の奥が、静かに軋む。
(覚えていない)
言葉にされるよりも先に、それが分かってしまう。
あの時出会いは、稔にとっては、きっと数ある出来事のひとつでしかない。
(またね、って言ってくれたのに)
あのときの声が、やけに鮮明に蘇る。
自分にとっては確かに残っているものが、相手の中には残っていないかもしれない。その事実が、思っていたよりも深く胸に刺さったそのときだった。
腕の中の猫が、小さく鳴いた。か細く、今にも消えてしまいそうな声だった。
湿った空気の中に溶けるように、その鳴き声は頼りなく広がる。
それに反応するように、稔は困ったように眉を寄せ、視線を落とした。腕の中の小さな体をどう扱えばいいのか分からない――戸惑いが、その仕草の一つひとつに滲んでいる。
言葉にはならない迷いが、表情と沈黙の中にはっきりと現れていた。
その戸惑いが、まっすぐ伝わってくる。
気づけば鳴谷は、その猫を預かることになっていた。いつ、どう言葉を交わしたのか、細かなやり取りは思い出せない。
言葉にした記憶は曖昧なのに、流れだけははっきりとしている。まるで最初からそうなることが決まっていたかのように、出来事は淀みなく進んでいた。
その日から、我が家には一匹の猫が家族として加わった。見慣れたはずの空間に、小さな気配がひとつ増える。
たったそれだけの変化なのに、家の空気はわずかに変わった気がした。足音や気配、視線の向かう先――些細なものが、少しずつ変わっていく。
その変化に、母は気づいた。
息子が、ほんの少しだけ表情を表に出せるようになっていたことに。
猫のおかげだと喜ぶ両親を見て、本当は別のきっかけがあったことを告げようと思った。けれど、それを口にすることはできなかった。
稔との出来事を、誰かに話すのが嫌だった。自分の中だけに大切にしまっておきたい――そんな気持ちが、静かに胸の奥にあった。
それから数日後、鳴谷は再び成長痛で寝込んでしまう。
身体の奥からじわじわと広がる痛みは、日常の動きを容赦なく奪っていった。
猫は元気にしているよと、稔に会って話がしたかった。
その思いは届かぬまま、激しい成長痛のせいで、散歩どころか登校すらできない日が続いていた。思うように身体が動かない日々が、静かに積み重なっていく。
その代わりに、朝の早い時間、レースカーテンの隙間から外を眺めるのが、鳴谷の日課になった。まだ世界が完全には動き出していない時間帯に、意識だけが先に浮かび上がる。
静かな時間。音が少なく、空気だけがゆっくりと流れている。
世界がまだ動き出す前の、わずかな余白のような時間。一日の始まりと呼ぶにはまだ早い、境目のようなひととき。
鳴谷は、自然と窓の外を見るようになっていた。意識するまでもなく、視線は決まった場所へと向かう。
稔が新聞を配りに来る時間。そして、サクラや猫を見に来る時間。
その姿を、ただそっと眺める。
気づけば、朝の時間はそのためのものになっていた。
伸びていく身長とともに。身体が変わっていくのと同じように、内側にも変化が生まれていく。
胸の奥に芽生えた感情も、ゆっくりと、けれど確実に形を持ち始める。
鳴谷青史は、気づいていた。
自分が、静かに。
――小野寺稔に恋をしていることを。

