鳴谷青史という男は、感情を表に出すのが苦手な子供だった。
嬉しい、痛い、悲しい。そうした感情は確かに胸の奥に生まれているはずなのに、それを顔や言葉に変換する術を、彼はうまく持っていなかった。
嬉しいはずの場面でも笑顔は浮かばず、転んで膝を擦りむいても泣き声は出ない。叱られても、ただ黙ってその場に立ち尽くすだけだった。
その様子を見て、周囲の大人たちは戸惑い、ときには薄気味悪さすら覚えた。
幼い頃、両親が青史の前で涙を流していたこともある。
どうして笑わないのだろう。
どうして泣かないのだろう。
そんな不安に突き動かされ、両親は青史を連れていくつもの病院を回った。だが、検査の結果に異常はなく、精神的な疾患すらも見つからない。医者は困ったようにカルテを閉じ、「感情表現が少し苦手なだけでしょう。おとなしい子ですよ」と、どこか曖昧な結論を口にした。
結局、それ以上の答えは出なかった。
父は転勤の多い仕事をしていて、全国を転々とする生活の中で、この子を何度も環境ごと振り回すのは負担になるだろうと考え、単身赴任という形を選んだ。
夫婦仲が悪いわけではなかった。少なくとも、青史の記憶の中にある二人は、穏やかに笑い合う普通の夫婦だった。
けれど、離れて暮らす時間は、目に見えないまま、少しずつ二人の間に溝を刻んでいった。
それがはっきりと形を持って現れたのは、青史が中学生になった頃だった。
久しぶりに父が帰ってきた日のことだ。
祖父母は敬老会の旅行で不在。父も半日で仕事を終え、久しぶりに三人で夕食を囲む予定――ただそれだけのことが、青史にはわずかに楽しみだった。
けれど、そのささやかな期待は、父の何気ない一言であっさりと崩れた。
「そろそろ、弟か妹が欲しいんじゃないか」
軽い調子だった。だが、その一言で母の表情は瞬時に強張った。
「青史ひとり育てるだけでも大変なのに!」
鋭い声が、静かな部屋に突き刺さる。
母はずっと実家で暮らしている。父の実家で気を遣うより、自分の実家の方が楽だろうという父の判断だった。
だが父は時折、それを「楽をしている」と口にすることがあった。
その積み重ねが、母の中に静かに溜まっていたのだろう。
「笑いもしない子供を、こっちは必死で育ててきたのよ!」
その言葉は、空気を一瞬で凍らせた。
青史は理解してしまった。
母にとって、自分は負担なのだと。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。けれど、それをどう表せばいいのか分からない。悲しいのか、苦しいのか、自分でも整理のつかない感情が胸の中に溜まっていくばかりだった。
両親は、青史がその場にいることに気づくと、慌てて弁明を始めた。
「違うのよ、青史。今のはそういう意味じゃなくて――」
けれど青史は、何も言えなかった。
何かを言わなければいけない気がするのに、言葉が出てこない。顔も変わらない。いつもと同じ無表情のままだ。
その顔を見た瞬間、両親の表情がわずかに引きつった。
子供ながらに分かった。自分は、どこか普通とは違うのだと。
そしてその違いが、両親を困らせているのだと。
胸の奥に溜まった重たい感情から逃げるように、青史はその場を飛び出した。
椅子の擦れる音や、呼び止める気配を振り切るようにして、足を動かす。
気づけば、外へ走り出していた。
外へ飛び出したころには、空はすっかり夕暮れ色に沈み始めていた。今にも雨が降り出しそうな、低く重たい空。冷たい夜の空気が頬を打つ。それでも足は止まらない。
家の灯りが遠ざかっていく。振り返る余裕もなく、ただ前へと進み続ける。
胸の奥に溜まったものは消えないままだったが、それでもあの場所にいるよりはマシだった。
青史は、ただ黙って走り続けた。
春の気配が漂い始めた頃だというのに、湿った重い空気が街を包み込み、やわらかな香りをどこか遠くへ押し流してしまっている。季節の移ろいさえも、どこか鈍く感じられた。
行き着いた先は、近くの小さな公園だった。
日が長くなってきたとはいえ、分厚い雨雲に覆われた空はすでに暗く、街灯の明かりがぼんやりと地面を照らしている。
誰もいない遊具が、静かに並んでいた。
胸の奥に、じわりと寂しさが広がる。
サクラを連れてくればよかった。
ふと、そんな考えが浮かぶ。けれどすぐに首を振った。こんな空模様の中、犬を連れ回すのはさすがに可哀想だろう。
勢いのまま家を飛び出してきたものの、これからどうすればいいのかは何も考えていなかった。
帰る気にもなれず、かといって幼馴染の二人どちらかを頼って迷惑をかけたくない。そうすると、行く当てもない。
とりあえず頭を冷やそうと思い、青史は誰もいない公園のブランコに腰を下ろした。
ぎい、と鎖が軋む。
わずかに体重を預けるだけで、古びた金属は鈍い音を返し、ブランコはゆっくりと揺れ始めた。
空は低く沈み込み、雨をこらえているようだった。
湿った空気が肌にまとわりつき、呼吸のたびに胸の内側まで重くなる気がする。
どうして自分は、こうなのだろう。
考えようとするほど、胸の奥に重たいものが沈んでいく。
それは痛みというほどはっきりしたものではないのに、確かにそこにあって、じわりと内側を圧迫してくる。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
そのときだった。
「あれ? きみ、大丈夫?」
不意に声がかかった。
雨はまだ落ちていない。それなのに、この公園に自分以外の誰かがいるとは思っていなかった。
青史は、ゆっくりと顔を上げる。そして、声のした方へ視線を向けた。
そこに立っていたのは、同じくらいの年頃の男の子だった。
レインコートを羽織っている。
「もうすぐ雨、降るよ? さっき、少し先のほう、もう降ってたから」
軽い調子でそう言う。
その言葉につられるように、青史は少年の姿をあらためて見る。レインコートの表面は、ところどころ色が濃くなっていた。すでにいくらか雨に打たれてきたのだろう。
さらに目についたのは、大きなカバンだった。
肩にかけられたそれは、少年の体格には少し不釣り合いに見える。青史はすぐに察した。両手を空けるために、傘ではなくレインコートを選んだのだろう。あの中には、運ばなければならない何かが入っている。
「もしかして、君……家出?」
問いかけたのは、レインコートの少年だった。
青史は答えなかった。頭を冷やすために外に出ているだけで、家出などではない。ただ静かに一人になりたかった。それだけのことだ。心の中で繰り返すだけで、言葉にはできない複雑な感情が胸の奥でじっと沈んでいた。
「よいしょ」
軽い掛け声とともに、少年は隣のブランコに腰を下ろした。鎖がわずかにきしみ、静まり返った公園に金属音が小さく響く。
青史は何も言わず、その様子を見ていた。空は厚い雲に覆われ、街灯の光もどこか鈍い。湿った風が頬を撫で、遠くで木の葉が擦れる音がした。今にも雨が落ちてきそうな、重たい空気だった。
「これ、食べる?」
少年は大きなカバンを膝の上に引き寄せ、ガサゴソと中を探り始める。やがて取り出されたのは、光沢のあるチョコレートで覆われたドーナツだった。袋を開けた瞬間、甘い香りがふわりと広がり、冷えた空気の中に溶けていく。
「僕ね、家が新聞配達してるんだけど、今日、夕刊の人がどうしても出られないって言うからさ。僕が代わりに配ったんだ」
少年はそう言いながら、差し出したドーナツを少し揺らす。
「雨降りそうだから歩けって言われてさ。もうヘトヘト。そしたらね、配達先のお年寄りがくれたの」
ずい、とドーナツが差し出された。
青史は思わず視線を落とす。目の前の少年の瞳は、驚くほどまっすぐだった。打算も遠慮もない、ただ「どうぞ」と言っているだけの目だった。
「ドーナツ大好きなんだ、僕。世界で一番好きな食べ物!」
少年はもう一つのドーナツを自分の手に取り、嬉しそうに眺める。
「二つ入ってるんだけど、一個あげる。夕方から甘いもの食べるなって言われてるから、証拠隠滅、手伝ってよ」
にっこりと笑う。
その笑顔はあまりにも屈託がなくて、青史は一瞬、言葉を失った。
空模様の重さに沈んでいた心が、ほんの少しだけ緩む。雨はまだ落ちていない。だが、静まり返っていた公園の空気が、わずかに柔らいだ気がした。
「ねえ、君、名前は?」
少年は何気ない調子で尋ねた。
青史は答えなかった。
答えたところで、もう二度と会うことのない相手かもしれない。そう思うと、わざわざ名乗る意味があるようには思えなかった。
「無口だなぁ。僕はね、小野寺稔。西中の」
名前と学校を教えられても、青史は答えなかった。
ただ、隣町の学校だなと、ぼんやりと思うだけだった。
返事がないことに気を悪くした様子もなく、稔と名乗った少年は軽く肩をすくめる。
そして、あっさりと諦めたように、手にしていたドーナツを頬張った。
「僕はジャムアンドクリーム系が好きなんだよね」
もぐもぐと咀嚼しながら、聞かれてもいない話を続ける。配達のこと、甘いもののこと、最近食べたパンのこと。思いつくままに言葉が出てくるらしい。
自分で話題を出し、自分で納得し、また次の話に移る。
そのあいだにも表情はころころと変わり、忙しそうに笑ったり考え込んだりしている。
青史はその様子を、少し離れた場所から眺めるような気持ちで見ていた。
まるで別の生き物のようだった。
同じ学校にも、表情が豊かな人間はたくさんいる。だが目の前にいる彼は、それをさらに越えている。
静かな公園の中で、彼だけが妙に生き生きとしている。「忙しそう」という言葉が、これほど似合う人間を青史は知らなかった。
ふと、稔の視線が鳴谷の手元に落ちた。
「あれ?」
眉が心配そうに寄る。
「苦手だった? それともアレルギーとか?」
青史は小さく首を横に振った。
「なんだ、反応できるじゃん、君」
稔はぱっと顔を明るくする。
たったそれだけの仕草を、まるで大きな返事でももらったかのように喜んだ。
「表情の返事だけじゃなくてさ、言葉とか動作で返事くれると、もっと嬉しいんだけど」
いつ、自分が表情で返事をしたのだろう。青史は少しだけ心の中で眉をひそめる。
「そんな不思議そうな顔してどうしたの?」
稔ははすぐに言った。
青史は思わず口を開く。
「え? ……表情、出てる?」
「うん、出てるよ?」
稔は迷いなく即答した。
「嘘だ……」
青史の言葉に、少年はきょとんと目を丸くする。
「表情に出すのが苦手なの? けっこう出てると思うけど」
少し考えるように首をかしげてから、あっさり言った。
「まぁ、周りが分かってくれないなら、言葉に出せばいいじゃない」
(君は出しすぎじゃないか)
青史は、心の中でそう思った。それと同時に、そんな簡単なものでもないと言いたくもなった。
稔は残りのドーナツをかじりながら、青史の手元を指さす。
「とりあえず、食べなよ。甘いものを食べるとね、悲しい気持ちが少しは楽になるから」
にこっと、屈託のない笑顔が向けられる。
その笑顔に押されるように、青史はドーナツを口にした。
砂糖の香りと、小麦の優しい甘みが口の中に広がる。チョコレートの下に隠れていたクリームが、甘さをやわらかくほどいていく。
「ね?甘いの食べると気持ちが少し楽になるでしょ?」
ドーナツの甘みなのか稔の優しさに触れてなのか、青史は本当に気持ちが少し軽くなったような気がした。
何をそんなに悩んでいたのか。そんな考えになるほどには、冷めた心が少し暖かくなってきていた。
「あ、笑えるじゃない!」
ニコッと笑みを浮かべられ、青史は最初何を言われたのか分からなかった。
気づけば少し口角が上がっている感覚が自分でもわかる。
「君は大丈夫だよ。ちゃんと笑えるもん」
稔はそう言って、当たり前のことのように笑った。
その瞬間、青史は自分の顔に、今まで感じたことのない感覚を覚えた。
言葉を発するときや瞬きをするときとは違う、顔の奥の筋肉がゆっくりと動く感覚。
普段ほとんど意識することのない筋肉に、確かに力が入っているのがわかった。
――これが、表情。
青史は小さく息を呑む。
笑うという表情が、初めて自分の表に現れた気がした。
「もしかしたらさ、無意識に緊張してるんじゃない?」
稔は空を見上げながら、気軽な口調で言う。
「失敗しちゃいけないとか、こうしなきゃいけないって。そう思いすぎて、表情が出なくなってるとか。いるもん、そういう子」
まるで、今まで自分が抱えてきた悩みなど大したことではない、とでも言うように。稔はあっさりと、鳴谷の在り方をそのまま認めた。
「無理に笑わなきゃって思わなくてもいいじゃない?人間、言葉だってあるんだし」
そう言うと、稔は「人間っていうのはね――」と、また長々と話し始める。
青史はそれを、ぼんやりと聞いていた。不思議と、さっきまで胸の奥に重く沈んでいたものが、また少しだけ軽くなっている。
やがて稔はふと空を見上げた。
「あ、そろそろ帰ろう。雨、ひどくなる前に」
そう言って、ひょいと立ち上がる。散々好き勝手に話しておいて、あっさり帰ろうとする。
けれど青史は、ふと気づいた。
稔の大きな鞄の口から、まだ数部の新聞が覗いている。
――配達の途中だったのか。
それなのに、ここにいた。
一人でいる自分を見かけて、気になったのかもしれない。
そう思うと、不思議と嫌ではなかった。
胸の奥の重たさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「……ありがとう……」
青史は、言葉にした。
言葉にしなければいけない――そう思えたから。
稔は、振り返る。
「うん!」
そう言って、気さくに笑った。
その瞬間、青史の心臓が、ドキリと跳ねた気がした。
「今度また、ドーナツ一緒に食べよ!」
そう言うと、稔は足早に公園を出ていった。稔の背中を見送った、その時だった。
ぽつり、と。
一滴の雨が地面に落ちる。
それを合図にしたかのように、空から一気に雨粒が降り始めた。
まるで、彼が去るのを待っていたかのように。
――それが、小野寺稔との出会いだった。
嬉しい、痛い、悲しい。そうした感情は確かに胸の奥に生まれているはずなのに、それを顔や言葉に変換する術を、彼はうまく持っていなかった。
嬉しいはずの場面でも笑顔は浮かばず、転んで膝を擦りむいても泣き声は出ない。叱られても、ただ黙ってその場に立ち尽くすだけだった。
その様子を見て、周囲の大人たちは戸惑い、ときには薄気味悪さすら覚えた。
幼い頃、両親が青史の前で涙を流していたこともある。
どうして笑わないのだろう。
どうして泣かないのだろう。
そんな不安に突き動かされ、両親は青史を連れていくつもの病院を回った。だが、検査の結果に異常はなく、精神的な疾患すらも見つからない。医者は困ったようにカルテを閉じ、「感情表現が少し苦手なだけでしょう。おとなしい子ですよ」と、どこか曖昧な結論を口にした。
結局、それ以上の答えは出なかった。
父は転勤の多い仕事をしていて、全国を転々とする生活の中で、この子を何度も環境ごと振り回すのは負担になるだろうと考え、単身赴任という形を選んだ。
夫婦仲が悪いわけではなかった。少なくとも、青史の記憶の中にある二人は、穏やかに笑い合う普通の夫婦だった。
けれど、離れて暮らす時間は、目に見えないまま、少しずつ二人の間に溝を刻んでいった。
それがはっきりと形を持って現れたのは、青史が中学生になった頃だった。
久しぶりに父が帰ってきた日のことだ。
祖父母は敬老会の旅行で不在。父も半日で仕事を終え、久しぶりに三人で夕食を囲む予定――ただそれだけのことが、青史にはわずかに楽しみだった。
けれど、そのささやかな期待は、父の何気ない一言であっさりと崩れた。
「そろそろ、弟か妹が欲しいんじゃないか」
軽い調子だった。だが、その一言で母の表情は瞬時に強張った。
「青史ひとり育てるだけでも大変なのに!」
鋭い声が、静かな部屋に突き刺さる。
母はずっと実家で暮らしている。父の実家で気を遣うより、自分の実家の方が楽だろうという父の判断だった。
だが父は時折、それを「楽をしている」と口にすることがあった。
その積み重ねが、母の中に静かに溜まっていたのだろう。
「笑いもしない子供を、こっちは必死で育ててきたのよ!」
その言葉は、空気を一瞬で凍らせた。
青史は理解してしまった。
母にとって、自分は負担なのだと。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。けれど、それをどう表せばいいのか分からない。悲しいのか、苦しいのか、自分でも整理のつかない感情が胸の中に溜まっていくばかりだった。
両親は、青史がその場にいることに気づくと、慌てて弁明を始めた。
「違うのよ、青史。今のはそういう意味じゃなくて――」
けれど青史は、何も言えなかった。
何かを言わなければいけない気がするのに、言葉が出てこない。顔も変わらない。いつもと同じ無表情のままだ。
その顔を見た瞬間、両親の表情がわずかに引きつった。
子供ながらに分かった。自分は、どこか普通とは違うのだと。
そしてその違いが、両親を困らせているのだと。
胸の奥に溜まった重たい感情から逃げるように、青史はその場を飛び出した。
椅子の擦れる音や、呼び止める気配を振り切るようにして、足を動かす。
気づけば、外へ走り出していた。
外へ飛び出したころには、空はすっかり夕暮れ色に沈み始めていた。今にも雨が降り出しそうな、低く重たい空。冷たい夜の空気が頬を打つ。それでも足は止まらない。
家の灯りが遠ざかっていく。振り返る余裕もなく、ただ前へと進み続ける。
胸の奥に溜まったものは消えないままだったが、それでもあの場所にいるよりはマシだった。
青史は、ただ黙って走り続けた。
春の気配が漂い始めた頃だというのに、湿った重い空気が街を包み込み、やわらかな香りをどこか遠くへ押し流してしまっている。季節の移ろいさえも、どこか鈍く感じられた。
行き着いた先は、近くの小さな公園だった。
日が長くなってきたとはいえ、分厚い雨雲に覆われた空はすでに暗く、街灯の明かりがぼんやりと地面を照らしている。
誰もいない遊具が、静かに並んでいた。
胸の奥に、じわりと寂しさが広がる。
サクラを連れてくればよかった。
ふと、そんな考えが浮かぶ。けれどすぐに首を振った。こんな空模様の中、犬を連れ回すのはさすがに可哀想だろう。
勢いのまま家を飛び出してきたものの、これからどうすればいいのかは何も考えていなかった。
帰る気にもなれず、かといって幼馴染の二人どちらかを頼って迷惑をかけたくない。そうすると、行く当てもない。
とりあえず頭を冷やそうと思い、青史は誰もいない公園のブランコに腰を下ろした。
ぎい、と鎖が軋む。
わずかに体重を預けるだけで、古びた金属は鈍い音を返し、ブランコはゆっくりと揺れ始めた。
空は低く沈み込み、雨をこらえているようだった。
湿った空気が肌にまとわりつき、呼吸のたびに胸の内側まで重くなる気がする。
どうして自分は、こうなのだろう。
考えようとするほど、胸の奥に重たいものが沈んでいく。
それは痛みというほどはっきりしたものではないのに、確かにそこにあって、じわりと内側を圧迫してくる。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
そのときだった。
「あれ? きみ、大丈夫?」
不意に声がかかった。
雨はまだ落ちていない。それなのに、この公園に自分以外の誰かがいるとは思っていなかった。
青史は、ゆっくりと顔を上げる。そして、声のした方へ視線を向けた。
そこに立っていたのは、同じくらいの年頃の男の子だった。
レインコートを羽織っている。
「もうすぐ雨、降るよ? さっき、少し先のほう、もう降ってたから」
軽い調子でそう言う。
その言葉につられるように、青史は少年の姿をあらためて見る。レインコートの表面は、ところどころ色が濃くなっていた。すでにいくらか雨に打たれてきたのだろう。
さらに目についたのは、大きなカバンだった。
肩にかけられたそれは、少年の体格には少し不釣り合いに見える。青史はすぐに察した。両手を空けるために、傘ではなくレインコートを選んだのだろう。あの中には、運ばなければならない何かが入っている。
「もしかして、君……家出?」
問いかけたのは、レインコートの少年だった。
青史は答えなかった。頭を冷やすために外に出ているだけで、家出などではない。ただ静かに一人になりたかった。それだけのことだ。心の中で繰り返すだけで、言葉にはできない複雑な感情が胸の奥でじっと沈んでいた。
「よいしょ」
軽い掛け声とともに、少年は隣のブランコに腰を下ろした。鎖がわずかにきしみ、静まり返った公園に金属音が小さく響く。
青史は何も言わず、その様子を見ていた。空は厚い雲に覆われ、街灯の光もどこか鈍い。湿った風が頬を撫で、遠くで木の葉が擦れる音がした。今にも雨が落ちてきそうな、重たい空気だった。
「これ、食べる?」
少年は大きなカバンを膝の上に引き寄せ、ガサゴソと中を探り始める。やがて取り出されたのは、光沢のあるチョコレートで覆われたドーナツだった。袋を開けた瞬間、甘い香りがふわりと広がり、冷えた空気の中に溶けていく。
「僕ね、家が新聞配達してるんだけど、今日、夕刊の人がどうしても出られないって言うからさ。僕が代わりに配ったんだ」
少年はそう言いながら、差し出したドーナツを少し揺らす。
「雨降りそうだから歩けって言われてさ。もうヘトヘト。そしたらね、配達先のお年寄りがくれたの」
ずい、とドーナツが差し出された。
青史は思わず視線を落とす。目の前の少年の瞳は、驚くほどまっすぐだった。打算も遠慮もない、ただ「どうぞ」と言っているだけの目だった。
「ドーナツ大好きなんだ、僕。世界で一番好きな食べ物!」
少年はもう一つのドーナツを自分の手に取り、嬉しそうに眺める。
「二つ入ってるんだけど、一個あげる。夕方から甘いもの食べるなって言われてるから、証拠隠滅、手伝ってよ」
にっこりと笑う。
その笑顔はあまりにも屈託がなくて、青史は一瞬、言葉を失った。
空模様の重さに沈んでいた心が、ほんの少しだけ緩む。雨はまだ落ちていない。だが、静まり返っていた公園の空気が、わずかに柔らいだ気がした。
「ねえ、君、名前は?」
少年は何気ない調子で尋ねた。
青史は答えなかった。
答えたところで、もう二度と会うことのない相手かもしれない。そう思うと、わざわざ名乗る意味があるようには思えなかった。
「無口だなぁ。僕はね、小野寺稔。西中の」
名前と学校を教えられても、青史は答えなかった。
ただ、隣町の学校だなと、ぼんやりと思うだけだった。
返事がないことに気を悪くした様子もなく、稔と名乗った少年は軽く肩をすくめる。
そして、あっさりと諦めたように、手にしていたドーナツを頬張った。
「僕はジャムアンドクリーム系が好きなんだよね」
もぐもぐと咀嚼しながら、聞かれてもいない話を続ける。配達のこと、甘いもののこと、最近食べたパンのこと。思いつくままに言葉が出てくるらしい。
自分で話題を出し、自分で納得し、また次の話に移る。
そのあいだにも表情はころころと変わり、忙しそうに笑ったり考え込んだりしている。
青史はその様子を、少し離れた場所から眺めるような気持ちで見ていた。
まるで別の生き物のようだった。
同じ学校にも、表情が豊かな人間はたくさんいる。だが目の前にいる彼は、それをさらに越えている。
静かな公園の中で、彼だけが妙に生き生きとしている。「忙しそう」という言葉が、これほど似合う人間を青史は知らなかった。
ふと、稔の視線が鳴谷の手元に落ちた。
「あれ?」
眉が心配そうに寄る。
「苦手だった? それともアレルギーとか?」
青史は小さく首を横に振った。
「なんだ、反応できるじゃん、君」
稔はぱっと顔を明るくする。
たったそれだけの仕草を、まるで大きな返事でももらったかのように喜んだ。
「表情の返事だけじゃなくてさ、言葉とか動作で返事くれると、もっと嬉しいんだけど」
いつ、自分が表情で返事をしたのだろう。青史は少しだけ心の中で眉をひそめる。
「そんな不思議そうな顔してどうしたの?」
稔ははすぐに言った。
青史は思わず口を開く。
「え? ……表情、出てる?」
「うん、出てるよ?」
稔は迷いなく即答した。
「嘘だ……」
青史の言葉に、少年はきょとんと目を丸くする。
「表情に出すのが苦手なの? けっこう出てると思うけど」
少し考えるように首をかしげてから、あっさり言った。
「まぁ、周りが分かってくれないなら、言葉に出せばいいじゃない」
(君は出しすぎじゃないか)
青史は、心の中でそう思った。それと同時に、そんな簡単なものでもないと言いたくもなった。
稔は残りのドーナツをかじりながら、青史の手元を指さす。
「とりあえず、食べなよ。甘いものを食べるとね、悲しい気持ちが少しは楽になるから」
にこっと、屈託のない笑顔が向けられる。
その笑顔に押されるように、青史はドーナツを口にした。
砂糖の香りと、小麦の優しい甘みが口の中に広がる。チョコレートの下に隠れていたクリームが、甘さをやわらかくほどいていく。
「ね?甘いの食べると気持ちが少し楽になるでしょ?」
ドーナツの甘みなのか稔の優しさに触れてなのか、青史は本当に気持ちが少し軽くなったような気がした。
何をそんなに悩んでいたのか。そんな考えになるほどには、冷めた心が少し暖かくなってきていた。
「あ、笑えるじゃない!」
ニコッと笑みを浮かべられ、青史は最初何を言われたのか分からなかった。
気づけば少し口角が上がっている感覚が自分でもわかる。
「君は大丈夫だよ。ちゃんと笑えるもん」
稔はそう言って、当たり前のことのように笑った。
その瞬間、青史は自分の顔に、今まで感じたことのない感覚を覚えた。
言葉を発するときや瞬きをするときとは違う、顔の奥の筋肉がゆっくりと動く感覚。
普段ほとんど意識することのない筋肉に、確かに力が入っているのがわかった。
――これが、表情。
青史は小さく息を呑む。
笑うという表情が、初めて自分の表に現れた気がした。
「もしかしたらさ、無意識に緊張してるんじゃない?」
稔は空を見上げながら、気軽な口調で言う。
「失敗しちゃいけないとか、こうしなきゃいけないって。そう思いすぎて、表情が出なくなってるとか。いるもん、そういう子」
まるで、今まで自分が抱えてきた悩みなど大したことではない、とでも言うように。稔はあっさりと、鳴谷の在り方をそのまま認めた。
「無理に笑わなきゃって思わなくてもいいじゃない?人間、言葉だってあるんだし」
そう言うと、稔は「人間っていうのはね――」と、また長々と話し始める。
青史はそれを、ぼんやりと聞いていた。不思議と、さっきまで胸の奥に重く沈んでいたものが、また少しだけ軽くなっている。
やがて稔はふと空を見上げた。
「あ、そろそろ帰ろう。雨、ひどくなる前に」
そう言って、ひょいと立ち上がる。散々好き勝手に話しておいて、あっさり帰ろうとする。
けれど青史は、ふと気づいた。
稔の大きな鞄の口から、まだ数部の新聞が覗いている。
――配達の途中だったのか。
それなのに、ここにいた。
一人でいる自分を見かけて、気になったのかもしれない。
そう思うと、不思議と嫌ではなかった。
胸の奥の重たさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「……ありがとう……」
青史は、言葉にした。
言葉にしなければいけない――そう思えたから。
稔は、振り返る。
「うん!」
そう言って、気さくに笑った。
その瞬間、青史の心臓が、ドキリと跳ねた気がした。
「今度また、ドーナツ一緒に食べよ!」
そう言うと、稔は足早に公園を出ていった。稔の背中を見送った、その時だった。
ぽつり、と。
一滴の雨が地面に落ちる。
それを合図にしたかのように、空から一気に雨粒が降り始めた。
まるで、彼が去るのを待っていたかのように。
――それが、小野寺稔との出会いだった。

