稔は、自分のこれまでの行動を改めようと決意した。
思い返してみれば、自分はなんて不誠実な行動を取っていたのだろうと深く反省する。好意を寄せてくれる人に甘え、その心地よさに浸っていた。
中学時代は日陰で生きてきた、発芽前の種のような人間だった。それなのに、一度光を浴びて芽を出した期待は、どんどん欲張りになって伸びていたのだと実感する。
そして今は、枯れる時期を今か今かと運命が待っているようで、絶望すら感じていた。
今の楽しい時間を失う覚悟を、しなければならない。
稔の胸が、きゅっと痛んだ。見ているだけだった存在が近くまで来て、そしてまた離れていく。その寂しさを、今になって思い知る。
このまま仲良くしていたい。そう思う。
けれど、彼らの好意は恋愛として向けられているものだ。無意識であれ、それを近くで楽しんでいる自分がいる。
彼らの好意を利用する形で、自分が楽しんでいたのだと気づいたとき、稔は思った。
――自分は、なんて最低な人間なんだろう。
そう思いながら、稔は自転車をこいでいた。
いつもの新聞配達だ。
もう息も白くなる早朝のこの時期。稔の浅はかな行動を咎めるように、冷たい空気が肌に刺さっていた。
最後の配達先の家。ここは鳴谷の住んでいる家だ。
いつもより少し早く着いたからだろうか。今日はサクラが出迎えに出てこない。
玄関先に自転車を止め、稔は何となく家の方を見上げた。
二階の窓辺では、いつもの猫が外を眺めている。
窓枠にちょこんと腰を下ろし、薄っすら明るくなり始めた空をじっと見上げていた。どうやら飛び交うスズメを観察しているらしい。
「サクラー?」
小さく呼んでみるが、姿は現れない。
いつもなら、配達の気配に気づくとすぐ駆け寄ってくるのに。稔は少し首をかしげた。体調でも悪いのだろうか、と一瞬心配になる。
けれど、それを確かめるすべは今の稔にはない。
その時だった。
「小野寺。今日は早いんだな」
背後から、聞き慣れた低い声が届いた。
振り向くと、そこには鳴谷が立っていた。その足元には、大きな犬――サクラの姿もある。
「鳴谷くん! あ、サクラ!」
次の瞬間。
ワンッ!と勢いよく吠えながら、サクラが稔に飛びついた。
大きな体がどん、とぶつかってくる。二本足で立ち上がれば、稔を覆うほどの大きさになる大型犬だ。
普通の人なら、思わず身を引いてしまうだろう。
「わっ……!」
勢いに押され、稔はそのまま地面に転がった。
「すまない! 小野寺、大丈夫か⁈」
慌てて鳴谷が声を上げる。
「大丈夫だよ!」
地面に座り込んだまま、稔は笑った。
「サクラは、やっぱり大きいね!」
そう言いながら、稔はサクラの耳の後ろをわしゃわしゃと撫でる。
嬉しそうに犬とじゃれ合う様子を見て、鳴谷はほっとしたように肩の力を抜いた。
「鳴谷くん、この時間に散歩? 早いね」
「ああ。サクラは体が大きいからな。他の人に会わないよう、早めに散歩に出るんだ」
「え? でも配達のとき会わないよね?」
「河川敷まで行くからな。小野寺の配達とは真逆の方向だ。それに、ここに配達に来てくれる頃には、いつももう帰ってきている」
「え? じゃあ僕より早く散歩してるの⁈」
思わず稔は声を上げた。
それは相当早い時間だ。新聞配達をしている稔より早いとなれば、まだ夜が明けきらない頃だろう。
今日は、無心で自転車をこいでいたせいか、配達がいつもよりずいぶん早く進んでいた。
気づけば、普段より十分以上も早い。
鳴谷に会えたのは、そのおかげなのかもしれない。
「すごい早起きなんだね」
「散歩が終わったら、また寝るけどな」
「僕なら寝過ごして遅刻しちゃいそう」
鳴谷とこうして他愛のない話をすることは、これまであまりなかった。
なのに、不思議と居心地がいい。
冷たい朝の空気とは裏腹に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
鳴谷の落ち着いた声は、耳だけでなく、心まで溶かしてくれるような気がした。
「僕もサクラと一緒に散歩しようかな~」
ぽろりと、軽い言葉が口からこぼれた。
動物が好きなのもある。けれど、それだけではない。
鳴谷とこうして他愛のない話をしている時間が、思いのほか心地よかったのだ。
考えるよりも先に、言葉が口をついて出ていた。
早朝の空気はまだ冷たい。吐いた息が白く広がり、ゆっくりと空へ溶けていく。
静まり返った住宅街の中で、二人と一匹だけがそこにいるような感覚だった。
「相当早いぞ」
落ち着いた声が返ってきて、稔はハッと我に返った。
「え、あ……言ってみただけ!」
慌てて手を振る。
――何を言っているんだ、僕は。
ついさっきまで、距離を取らなくてはと決めたばかりだというのに。
軽率な自分の言葉に、思わず内心で頭を抱えた。
稔はごまかすように視線を逸らす。
足元ではサクラが尻尾を大きく振りながら、楽しそうに二人の周りをうろうろしていた。
「……俺が新聞配達を手伝おうか」
不意に鳴谷が言った。
思いがけない言葉に、稔は目を瞬かせる。
「え? バイト代出せないよ?」
「サクラの散歩のついでだから、いらない」
さらりとした口調だった。
まるで大したことではないと言わんばかりの言い方だ。
けれど、稔は小さく首を横に振った。
「そういうわけには……っていうか、時間が合わないんじゃないかな? そっちの方が早いでしょ」
少し笑いながらそう言う。
鳴谷が朝早く起きているのは分かった。けれど、散歩の時間を新聞配達に合わせるのは、さすがに無理がある気がする。
大型犬だからこそ、鳴谷は人の少ない時間を選んで散歩に出ているのだろう。もしその時間をずらせば、今までのように周囲へ気を配ることも難しくなる。
かといって、散歩を終えてから新聞配達を手伝うとするなら――今度は鳴谷の睡眠時間を削ることになる。
鳴谷がサクラの散歩に出る時間は、まだ夜の名残が残るほど早い。そこからさらに配達を手伝うとなれば、さすがに負担が大きすぎる。
どう考えても、現実的ではなかった。
「……そうだな。でも」
鳴谷は一度言葉を切った。
そして、ゆっくりと稔を見つめる。
朝の淡い光の中で、その視線だけが妙に真っ直ぐだった。
静かなのに、逃げ場のない強さを感じる。
稔は一瞬、息を止めた。
サクラが足元で小さく鼻を鳴らす。
けれど、稔の意識はもう鳴谷に引き寄せられていた。
「小野寺との時間、俺も欲しい」
静かな声だった。
けれど、その言葉はまっすぐに稔の胸へ落ちてきた。
まるで逃げ場を塞がれたみたいに、じんわりと熱が広がる。
胸が、どくりと大きく鳴った。
冷たいはずの朝の空気が、急に熱を帯びたように感じる。
うまく息が吸えない。
視線を逸らそうとしても、体が思うように動かなかった。
鳴谷の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
朝の静けさの中で、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
思い返してみれば、自分はなんて不誠実な行動を取っていたのだろうと深く反省する。好意を寄せてくれる人に甘え、その心地よさに浸っていた。
中学時代は日陰で生きてきた、発芽前の種のような人間だった。それなのに、一度光を浴びて芽を出した期待は、どんどん欲張りになって伸びていたのだと実感する。
そして今は、枯れる時期を今か今かと運命が待っているようで、絶望すら感じていた。
今の楽しい時間を失う覚悟を、しなければならない。
稔の胸が、きゅっと痛んだ。見ているだけだった存在が近くまで来て、そしてまた離れていく。その寂しさを、今になって思い知る。
このまま仲良くしていたい。そう思う。
けれど、彼らの好意は恋愛として向けられているものだ。無意識であれ、それを近くで楽しんでいる自分がいる。
彼らの好意を利用する形で、自分が楽しんでいたのだと気づいたとき、稔は思った。
――自分は、なんて最低な人間なんだろう。
そう思いながら、稔は自転車をこいでいた。
いつもの新聞配達だ。
もう息も白くなる早朝のこの時期。稔の浅はかな行動を咎めるように、冷たい空気が肌に刺さっていた。
最後の配達先の家。ここは鳴谷の住んでいる家だ。
いつもより少し早く着いたからだろうか。今日はサクラが出迎えに出てこない。
玄関先に自転車を止め、稔は何となく家の方を見上げた。
二階の窓辺では、いつもの猫が外を眺めている。
窓枠にちょこんと腰を下ろし、薄っすら明るくなり始めた空をじっと見上げていた。どうやら飛び交うスズメを観察しているらしい。
「サクラー?」
小さく呼んでみるが、姿は現れない。
いつもなら、配達の気配に気づくとすぐ駆け寄ってくるのに。稔は少し首をかしげた。体調でも悪いのだろうか、と一瞬心配になる。
けれど、それを確かめるすべは今の稔にはない。
その時だった。
「小野寺。今日は早いんだな」
背後から、聞き慣れた低い声が届いた。
振り向くと、そこには鳴谷が立っていた。その足元には、大きな犬――サクラの姿もある。
「鳴谷くん! あ、サクラ!」
次の瞬間。
ワンッ!と勢いよく吠えながら、サクラが稔に飛びついた。
大きな体がどん、とぶつかってくる。二本足で立ち上がれば、稔を覆うほどの大きさになる大型犬だ。
普通の人なら、思わず身を引いてしまうだろう。
「わっ……!」
勢いに押され、稔はそのまま地面に転がった。
「すまない! 小野寺、大丈夫か⁈」
慌てて鳴谷が声を上げる。
「大丈夫だよ!」
地面に座り込んだまま、稔は笑った。
「サクラは、やっぱり大きいね!」
そう言いながら、稔はサクラの耳の後ろをわしゃわしゃと撫でる。
嬉しそうに犬とじゃれ合う様子を見て、鳴谷はほっとしたように肩の力を抜いた。
「鳴谷くん、この時間に散歩? 早いね」
「ああ。サクラは体が大きいからな。他の人に会わないよう、早めに散歩に出るんだ」
「え? でも配達のとき会わないよね?」
「河川敷まで行くからな。小野寺の配達とは真逆の方向だ。それに、ここに配達に来てくれる頃には、いつももう帰ってきている」
「え? じゃあ僕より早く散歩してるの⁈」
思わず稔は声を上げた。
それは相当早い時間だ。新聞配達をしている稔より早いとなれば、まだ夜が明けきらない頃だろう。
今日は、無心で自転車をこいでいたせいか、配達がいつもよりずいぶん早く進んでいた。
気づけば、普段より十分以上も早い。
鳴谷に会えたのは、そのおかげなのかもしれない。
「すごい早起きなんだね」
「散歩が終わったら、また寝るけどな」
「僕なら寝過ごして遅刻しちゃいそう」
鳴谷とこうして他愛のない話をすることは、これまであまりなかった。
なのに、不思議と居心地がいい。
冷たい朝の空気とは裏腹に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
鳴谷の落ち着いた声は、耳だけでなく、心まで溶かしてくれるような気がした。
「僕もサクラと一緒に散歩しようかな~」
ぽろりと、軽い言葉が口からこぼれた。
動物が好きなのもある。けれど、それだけではない。
鳴谷とこうして他愛のない話をしている時間が、思いのほか心地よかったのだ。
考えるよりも先に、言葉が口をついて出ていた。
早朝の空気はまだ冷たい。吐いた息が白く広がり、ゆっくりと空へ溶けていく。
静まり返った住宅街の中で、二人と一匹だけがそこにいるような感覚だった。
「相当早いぞ」
落ち着いた声が返ってきて、稔はハッと我に返った。
「え、あ……言ってみただけ!」
慌てて手を振る。
――何を言っているんだ、僕は。
ついさっきまで、距離を取らなくてはと決めたばかりだというのに。
軽率な自分の言葉に、思わず内心で頭を抱えた。
稔はごまかすように視線を逸らす。
足元ではサクラが尻尾を大きく振りながら、楽しそうに二人の周りをうろうろしていた。
「……俺が新聞配達を手伝おうか」
不意に鳴谷が言った。
思いがけない言葉に、稔は目を瞬かせる。
「え? バイト代出せないよ?」
「サクラの散歩のついでだから、いらない」
さらりとした口調だった。
まるで大したことではないと言わんばかりの言い方だ。
けれど、稔は小さく首を横に振った。
「そういうわけには……っていうか、時間が合わないんじゃないかな? そっちの方が早いでしょ」
少し笑いながらそう言う。
鳴谷が朝早く起きているのは分かった。けれど、散歩の時間を新聞配達に合わせるのは、さすがに無理がある気がする。
大型犬だからこそ、鳴谷は人の少ない時間を選んで散歩に出ているのだろう。もしその時間をずらせば、今までのように周囲へ気を配ることも難しくなる。
かといって、散歩を終えてから新聞配達を手伝うとするなら――今度は鳴谷の睡眠時間を削ることになる。
鳴谷がサクラの散歩に出る時間は、まだ夜の名残が残るほど早い。そこからさらに配達を手伝うとなれば、さすがに負担が大きすぎる。
どう考えても、現実的ではなかった。
「……そうだな。でも」
鳴谷は一度言葉を切った。
そして、ゆっくりと稔を見つめる。
朝の淡い光の中で、その視線だけが妙に真っ直ぐだった。
静かなのに、逃げ場のない強さを感じる。
稔は一瞬、息を止めた。
サクラが足元で小さく鼻を鳴らす。
けれど、稔の意識はもう鳴谷に引き寄せられていた。
「小野寺との時間、俺も欲しい」
静かな声だった。
けれど、その言葉はまっすぐに稔の胸へ落ちてきた。
まるで逃げ場を塞がれたみたいに、じんわりと熱が広がる。
胸が、どくりと大きく鳴った。
冷たいはずの朝の空気が、急に熱を帯びたように感じる。
うまく息が吸えない。
視線を逸らそうとしても、体が思うように動かなかった。
鳴谷の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
朝の静けさの中で、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。

