村井と稔の二人は駅へ向かって歩いていた。歩きながら、男同士の恋愛について話題が出た。――いや、話を出させた。
話を振った途端、稔は蛇口をひねったように次々と語り出す。
その勢いに、村井は思わず笑ってしまった。
腐男子であることがバレて、タガが外れたのだろう。最後には、村井を含む三人のカップリングまで、本人の目の前で熱弁し始めた。だが、当の本人を前にしていることに気づいた瞬間、稔はみるみる青ざめた。
表情がコロコロと変わる様子を見ているのは、なかなか面白い。
(この子、頭おかしい)
思ったことが口に出てしまう稔は、もはやそれが小野寺稔という人物の定番のようだった。
なのに、不思議と嫌な感じはしない。
稔が自分をさらけ出して語ったせいだろうか。
村井は、やけに正直な気持ちになっていた。
「あのね、稔くん」
村井は静かに、ゆっくりと名前を呼ぶ。
「俺ね、君が大嫌いなんだよ」
その言葉に、稔は唖然としていた。
悲しい顔をするかと思ったが、ただ驚いたように目を丸くし、その場で固まっている。
「やっぱり!」
次の瞬間、稔はむしろ嬉しそうに声を上げた。
その反応に、村井は少し引っかかる。
きっと、先ほどまで語っていた妄想のどれかに当てはめているのだろう。そう思うと、胸の奥にほんのわずかな寂しさが生まれた。
「……正確には、大嫌いだった。かな」
村井は小さく言い直す。
そして、自分がなぜ稔に近づいたのかを、正直に話した。
最初は好意などなく、ただ目的のために近づいたこと。稔を騙そうとしていたことも、隠さずに。
きっと、村井瑞穂という人間を、嫌いになるだろう。
それでもいいと思った。稔には正直に話すべきだと、きちんと向き合わなければならないと――そう感じたのだ。
「ごめんね」
話し終えたあと、村井は困ったように笑った。
どこか寂しさの滲む、複雑な笑みだった。
「謝ることなんてないですよ! むしろ、ご褒美でしかなく!」
稔は即座にそう言い切る。
どうやら村井の行動は、稔の妄想にとって格好のスパイスになったらしい。「いいネタをありがとうございます」とでも言いたげな顔で、妙に分かりやすかった。
「今まで、二人のために凄く頑張ってたんですね!」
稔は目を輝かせながら、まっすぐにそう言った。
その声音には、心の底から感心しているような明るさがあった。
「え……」
村井は思わず言葉に詰まる。
そんな言葉を向けられるとは、まったく思っていなかった。
「尊敬です!」
迷いのない即答だった。
まるで、それが当然の結論であるかのように。
「何言って……君を騙そうとしたんだよ?」
村井は苦笑混じりに言う。
自分のしてきたことは、そんな風に褒められるようなものではないはずだった。
「うーん、でも、二人を僕から守ろうとする村井くん、王子様ですよ!」
屈託のない笑顔で、稔はそう言った。
からかっている様子はない。ただ思ったことを、そのまま言葉にしているだけの顔だった。
だからこそ、余計に否定しづらい。
そして稔は、ふいに少し真面目な笑顔になる。
さっきまでの無邪気さとは違う、やわらかく落ち着いた表情だった。
「お疲れさまでした」
村井は聞き慣れた言葉を耳にしただけだった。何を意図し、何を思い、何を理解したのかは分からない。それでも、言葉に深みや特別さを感じる。
村井瑞穂という男の人生は、常に「当たり前」を求められてきた。努力も、優しさも、何もかも――やって当たり前、できて当たり前。だからこそ、稔の並べた軽い言葉は嫌いだったはずだ。
それでも――その言葉は、まっすぐ心の奥に届いた。
稔の笑顔が、眩しかった。夕日の光のように柔らかく、温かい。
「もう肩の力ぬきましょ! 素直な村井くん、すごく素敵だったんで!」
ふんわりとした、ありふれた言葉だった。それなのに。村井の胸の奥を、静かにあたたかくする。
下心も毒もない、その正直な言葉に救われた気がした。
「……何言ってんの」
村井の頬が、少し熱を帯びる。本当の自分を見てもらえた感覚に心が波立つ。しかし、その揺らぐ波は不思議と心地よかった。
――ああ。この感覚は。
村井の中で芽生えた何かが、確かにそれなのだと気づく。
――俺、稔くんのこと、好きだ。
心の中でそう言葉にした瞬間、村井はどうしようもない衝動にかられた。
誰にも取られる前に、はやく、はやく――。
「ねえ、俺も稔くんを本気で落としに行っていい?」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
村井は返事を待たなかった。
そっと稔の手を取る。
突然のことに、稔の指先がわずかに強張ったのが分かった。
その手を逃がさないように包み込み、村井はゆっくりと身をかがめる。
そして、指先にそっと唇を寄せた。
まるで王子様が姫にするような、芝居じみた仕草だった。けれど今の村井には、それが一番しっくりくる気がした。
彼のための――
彼だけの王子様になろう。
そう、心に決めて。
「え? なんで⁈ どうして⁈」
稔は目を見開き、慌てたように声を上げた。
どこにそんな要素があったのか――。
そんな心の叫びが、今にも聞こえてきそうだった。
***
「瑞穂! 話が違う! 今日は俺の番だ!」
木津の朝の第一声は挨拶ではなく、多少の怒り混じりの言葉だった。
「知ってるけど離れられない~」
「ダメだ!」
「えー? ダメ?」
「ダメ!」
昨日のデート――もといドーナツ事件から、どこか距離があったはずの村井が、もはやゼロ距離にいる。稔に抱き着くように、背中から、ぴったりと腕を回している。
まるで、独占欲の強い兎。
周囲がひそひそと、誰にでも平等だった村井のイメージ崩壊を噂していた。
(どうしてこうなったか、僕にもわかりません!)
稔は焦りと戸惑いと、推しの急激な距離の詰め方に動揺を隠せなかった。
「そういえば、球技大会の種目決め、今日からだっけ?」
村井が何気なく話題を変え、木津の抗議をさらりと無視する。
「稔くん、種目何? 一緒に出よ?」
耳元で声がする。
近い。近すぎる。
「村井くんはクラスが違うのでは……」
「そんな冷たいこと言わないでさ」
綺麗な顔がすり寄ってくる。頬に柔らかい髪が触れ、稔は気絶しそうだった。
「離れろ瑞穂!」
「やーだよ」
引き離そうとする木津に抵抗する村井。
いつも穏やかな二人の関係が崩れていくことに、稔は申し訳なさを感じていた。
(僕は空気! 空気空気空気! ああでも僕はきっと大気汚染物質かもしれない)
バクバクと走る心音を落ち着かせようと、稔は必死に心の中で唱えた。
そして、ふと思う。
「村井くんの息に比べたら、僕は二酸化炭素なのに」
「え? なにそれ」
村井が笑いを漏らした。
それは、いつもの作り込まれた完璧な笑顔ではなかった。
くしゃっと、無防備に崩れる笑顔。
その瞬間、稔の胸が強く跳ねる。
(やっぱり村井くんは存在するだけで清浄機。もはや一人で森林! マイナスイオン! 木津くん吸って! 村井くんの呼吸だよ!)
稔にとって、推しの吐く空気すら尊い。そして当然のように、それはカップリング妄想のネタにもなっていた。
***
二週間――それだけの準備期間で、球技大会は慌ただしく開催された。
鳴谷は葬儀や手続きで学校を休んでおり、球技大会初日が久しぶりの登校日だった。
そのため、競技は「いてもいなくても大丈夫」という扱いの、サッカーの補欠組に回されていた。できるだけ競技に出たくなかった稔も、その補欠組。応援するだけなら好都合だった。
「……鳴谷くん、大丈夫?」
連日多忙だっただろう。身内を亡くした悲しみだけでも心は疲れるのに、鳴谷はしっかり登校してきた。目の下にはうっすらクマがあり、顔色もいつもより少し血の気がない。
「大丈夫だ」
――明らかに、大丈夫ではなさそうだった。
鳴谷は眉間に皺を寄せ、試合を睨むように見ていた。サッカーでは、木津と村井が対戦している。
村井は「稔と同じ競技に出る」という目的だけで出たはずだった。だが――軽やかなドリブル、迷いのない動き。女子だけでなく男子生徒からも歓声が上がる。
「村井くん、スポーツもできるんだね」
「たけには敵わないがな」
腕を組む鳴谷は、今にも眠りそうな顔をしていた。
「スポーツができるやつが好きか?」
「え? そういうわけでもないよ」
「そうか」
珍しく話しかけてくる鳴谷は、きっと眠気を振り払おうとしているのだろう。
なんとかしてあげたい。
そう思った瞬間、稔の口はもう動いていた。
「鳴谷くん!」
稔は意を決したような顔で鳴谷を見る。
「肩貸すよ! 試合終わるまで、ちょっと休んでていいよ!」
ぽんぽん、と自分の肩を軽く叩く。
「……小野寺、何言ってるかわかってるのか?」
低い声。
自分が稔にどんな感情を抱いているのか、知っているはずだろう――
そう言われている気がした。
「わかってますけど、わかってません」
「どっちだよ」
ふっと鳴谷が笑った。口角が緩んだ顔を見るのは、珍しい。
そして次の瞬間、鳴谷は静かに稔の肩へ頭を預けた。ふわりと、体重がかかる。
「今日だけ……少しだけ、頼む」
その声は、思ったよりずっと弱かった。鳴谷はまるで電気のスイッチを切ったように、静かに眠りにつき、すぅすぅと、無防備な寝息が耳に届く。
(わ……わわわわっ)
肩に伝わる重み、耳元で聞こえる寝息、触れそうな距離の体温。稔の心臓は――どういうわけか、やけにうるさく鳴った。
しばらく動けずにいると、周囲の声や歓声が意識に入ってくる。試合の熱気、仲間たちの声援、ボールの蹴られる音――現実が少しずつ戻ってきた。
サッカーの試合は、木津の活躍で稔たちのクラスが勝利した。部活の生徒たちの中でも頭ひとつ抜け、ボールを奪って走り、迷わずゴールへ向かう木津。その決定的なシュートに歓声が沸き、荒い息を吐きながら手を軽く上げる姿は、文句なしに格好良かった。
一方、村井も全力で走り回る。額から汗が流れ、髪が少し額に貼りついている。普段の整った王子様の姿とは違う、必死な表情。それでも――いや、だからこそ、驚くほど様になっていた。
歓声の中、村井は手の甲で汗を拭う。その何気ない仕草すら、絵になる。
王子様というイメージは、確固たるものになった。それは稔も同じ気持ちだ。
(わぁぁぁ……汗まみれの村井くんが眩しい!)
稔の心の中で盛大な拍手が巻き起こる。
肩には、鳴谷の頭が乗っている。静かな寝息が耳元で規則正しく響く。それでも稔の視線は、グラウンドの村井と木津に釘付けだ。
(木津くんもかっこよッッ!)
ゴールを決め、仲間に肩を叩かれる木津を見て、稔のテンションはさらに上がる。
(どっちが受けでも攻めでも、ありがたすぎるッッ!)
稔の中で、二人はただの男子生徒ではない。推しであり――尊いカップリングだった。
だが、その妄想はあっさり崩れる。
試合に勝った勢いのまま、木津の視線がまっすぐ稔に向かう。息を弾ませ、一直線に迫るその姿。
言わずともわかる。自分が、この人に想われていることを。
「稔! 勝った! 約束!」
(あ、そうだった……すっかり忘れてた……)
稔は現実に引き戻され、身体が硬直した。
「約束って、なに?」
その声と同時に、村井が追いつく。汗に濡れた髪をかき上げ、試合の余韻をそのまま纏って木津を見つめる。
「試合で勝ったら、俺たちは付き合うことになってんだ」
木津は迷いなく、言い切った。
完全に自分の中では決定事項らしい。
「え? なにそれ⁈ 聞いてない!」
村井が目を見開き、木津の肩を掴む。また小競り合いが始まりそうな空気。稔は完全に言葉を失った。
その間に挟まれている稔の肩に頭を乗せていた鳴谷が、ゆっくり目を覚ました。
「……それは、お前の勝手な押し付け条件だろ」
いつもより重く、低い声。寝起きか、機嫌が悪いのか。棘のように空気を刺す声に、場の空気がぴたりと止まった。
(あ、やばい。 これは……)
稔の背中に冷たい汗が流れた。推したちに囲まれ、稔は自分だけの危機を、はっきりと感じ取っていた。
話を振った途端、稔は蛇口をひねったように次々と語り出す。
その勢いに、村井は思わず笑ってしまった。
腐男子であることがバレて、タガが外れたのだろう。最後には、村井を含む三人のカップリングまで、本人の目の前で熱弁し始めた。だが、当の本人を前にしていることに気づいた瞬間、稔はみるみる青ざめた。
表情がコロコロと変わる様子を見ているのは、なかなか面白い。
(この子、頭おかしい)
思ったことが口に出てしまう稔は、もはやそれが小野寺稔という人物の定番のようだった。
なのに、不思議と嫌な感じはしない。
稔が自分をさらけ出して語ったせいだろうか。
村井は、やけに正直な気持ちになっていた。
「あのね、稔くん」
村井は静かに、ゆっくりと名前を呼ぶ。
「俺ね、君が大嫌いなんだよ」
その言葉に、稔は唖然としていた。
悲しい顔をするかと思ったが、ただ驚いたように目を丸くし、その場で固まっている。
「やっぱり!」
次の瞬間、稔はむしろ嬉しそうに声を上げた。
その反応に、村井は少し引っかかる。
きっと、先ほどまで語っていた妄想のどれかに当てはめているのだろう。そう思うと、胸の奥にほんのわずかな寂しさが生まれた。
「……正確には、大嫌いだった。かな」
村井は小さく言い直す。
そして、自分がなぜ稔に近づいたのかを、正直に話した。
最初は好意などなく、ただ目的のために近づいたこと。稔を騙そうとしていたことも、隠さずに。
きっと、村井瑞穂という人間を、嫌いになるだろう。
それでもいいと思った。稔には正直に話すべきだと、きちんと向き合わなければならないと――そう感じたのだ。
「ごめんね」
話し終えたあと、村井は困ったように笑った。
どこか寂しさの滲む、複雑な笑みだった。
「謝ることなんてないですよ! むしろ、ご褒美でしかなく!」
稔は即座にそう言い切る。
どうやら村井の行動は、稔の妄想にとって格好のスパイスになったらしい。「いいネタをありがとうございます」とでも言いたげな顔で、妙に分かりやすかった。
「今まで、二人のために凄く頑張ってたんですね!」
稔は目を輝かせながら、まっすぐにそう言った。
その声音には、心の底から感心しているような明るさがあった。
「え……」
村井は思わず言葉に詰まる。
そんな言葉を向けられるとは、まったく思っていなかった。
「尊敬です!」
迷いのない即答だった。
まるで、それが当然の結論であるかのように。
「何言って……君を騙そうとしたんだよ?」
村井は苦笑混じりに言う。
自分のしてきたことは、そんな風に褒められるようなものではないはずだった。
「うーん、でも、二人を僕から守ろうとする村井くん、王子様ですよ!」
屈託のない笑顔で、稔はそう言った。
からかっている様子はない。ただ思ったことを、そのまま言葉にしているだけの顔だった。
だからこそ、余計に否定しづらい。
そして稔は、ふいに少し真面目な笑顔になる。
さっきまでの無邪気さとは違う、やわらかく落ち着いた表情だった。
「お疲れさまでした」
村井は聞き慣れた言葉を耳にしただけだった。何を意図し、何を思い、何を理解したのかは分からない。それでも、言葉に深みや特別さを感じる。
村井瑞穂という男の人生は、常に「当たり前」を求められてきた。努力も、優しさも、何もかも――やって当たり前、できて当たり前。だからこそ、稔の並べた軽い言葉は嫌いだったはずだ。
それでも――その言葉は、まっすぐ心の奥に届いた。
稔の笑顔が、眩しかった。夕日の光のように柔らかく、温かい。
「もう肩の力ぬきましょ! 素直な村井くん、すごく素敵だったんで!」
ふんわりとした、ありふれた言葉だった。それなのに。村井の胸の奥を、静かにあたたかくする。
下心も毒もない、その正直な言葉に救われた気がした。
「……何言ってんの」
村井の頬が、少し熱を帯びる。本当の自分を見てもらえた感覚に心が波立つ。しかし、その揺らぐ波は不思議と心地よかった。
――ああ。この感覚は。
村井の中で芽生えた何かが、確かにそれなのだと気づく。
――俺、稔くんのこと、好きだ。
心の中でそう言葉にした瞬間、村井はどうしようもない衝動にかられた。
誰にも取られる前に、はやく、はやく――。
「ねえ、俺も稔くんを本気で落としに行っていい?」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
村井は返事を待たなかった。
そっと稔の手を取る。
突然のことに、稔の指先がわずかに強張ったのが分かった。
その手を逃がさないように包み込み、村井はゆっくりと身をかがめる。
そして、指先にそっと唇を寄せた。
まるで王子様が姫にするような、芝居じみた仕草だった。けれど今の村井には、それが一番しっくりくる気がした。
彼のための――
彼だけの王子様になろう。
そう、心に決めて。
「え? なんで⁈ どうして⁈」
稔は目を見開き、慌てたように声を上げた。
どこにそんな要素があったのか――。
そんな心の叫びが、今にも聞こえてきそうだった。
***
「瑞穂! 話が違う! 今日は俺の番だ!」
木津の朝の第一声は挨拶ではなく、多少の怒り混じりの言葉だった。
「知ってるけど離れられない~」
「ダメだ!」
「えー? ダメ?」
「ダメ!」
昨日のデート――もといドーナツ事件から、どこか距離があったはずの村井が、もはやゼロ距離にいる。稔に抱き着くように、背中から、ぴったりと腕を回している。
まるで、独占欲の強い兎。
周囲がひそひそと、誰にでも平等だった村井のイメージ崩壊を噂していた。
(どうしてこうなったか、僕にもわかりません!)
稔は焦りと戸惑いと、推しの急激な距離の詰め方に動揺を隠せなかった。
「そういえば、球技大会の種目決め、今日からだっけ?」
村井が何気なく話題を変え、木津の抗議をさらりと無視する。
「稔くん、種目何? 一緒に出よ?」
耳元で声がする。
近い。近すぎる。
「村井くんはクラスが違うのでは……」
「そんな冷たいこと言わないでさ」
綺麗な顔がすり寄ってくる。頬に柔らかい髪が触れ、稔は気絶しそうだった。
「離れろ瑞穂!」
「やーだよ」
引き離そうとする木津に抵抗する村井。
いつも穏やかな二人の関係が崩れていくことに、稔は申し訳なさを感じていた。
(僕は空気! 空気空気空気! ああでも僕はきっと大気汚染物質かもしれない)
バクバクと走る心音を落ち着かせようと、稔は必死に心の中で唱えた。
そして、ふと思う。
「村井くんの息に比べたら、僕は二酸化炭素なのに」
「え? なにそれ」
村井が笑いを漏らした。
それは、いつもの作り込まれた完璧な笑顔ではなかった。
くしゃっと、無防備に崩れる笑顔。
その瞬間、稔の胸が強く跳ねる。
(やっぱり村井くんは存在するだけで清浄機。もはや一人で森林! マイナスイオン! 木津くん吸って! 村井くんの呼吸だよ!)
稔にとって、推しの吐く空気すら尊い。そして当然のように、それはカップリング妄想のネタにもなっていた。
***
二週間――それだけの準備期間で、球技大会は慌ただしく開催された。
鳴谷は葬儀や手続きで学校を休んでおり、球技大会初日が久しぶりの登校日だった。
そのため、競技は「いてもいなくても大丈夫」という扱いの、サッカーの補欠組に回されていた。できるだけ競技に出たくなかった稔も、その補欠組。応援するだけなら好都合だった。
「……鳴谷くん、大丈夫?」
連日多忙だっただろう。身内を亡くした悲しみだけでも心は疲れるのに、鳴谷はしっかり登校してきた。目の下にはうっすらクマがあり、顔色もいつもより少し血の気がない。
「大丈夫だ」
――明らかに、大丈夫ではなさそうだった。
鳴谷は眉間に皺を寄せ、試合を睨むように見ていた。サッカーでは、木津と村井が対戦している。
村井は「稔と同じ競技に出る」という目的だけで出たはずだった。だが――軽やかなドリブル、迷いのない動き。女子だけでなく男子生徒からも歓声が上がる。
「村井くん、スポーツもできるんだね」
「たけには敵わないがな」
腕を組む鳴谷は、今にも眠りそうな顔をしていた。
「スポーツができるやつが好きか?」
「え? そういうわけでもないよ」
「そうか」
珍しく話しかけてくる鳴谷は、きっと眠気を振り払おうとしているのだろう。
なんとかしてあげたい。
そう思った瞬間、稔の口はもう動いていた。
「鳴谷くん!」
稔は意を決したような顔で鳴谷を見る。
「肩貸すよ! 試合終わるまで、ちょっと休んでていいよ!」
ぽんぽん、と自分の肩を軽く叩く。
「……小野寺、何言ってるかわかってるのか?」
低い声。
自分が稔にどんな感情を抱いているのか、知っているはずだろう――
そう言われている気がした。
「わかってますけど、わかってません」
「どっちだよ」
ふっと鳴谷が笑った。口角が緩んだ顔を見るのは、珍しい。
そして次の瞬間、鳴谷は静かに稔の肩へ頭を預けた。ふわりと、体重がかかる。
「今日だけ……少しだけ、頼む」
その声は、思ったよりずっと弱かった。鳴谷はまるで電気のスイッチを切ったように、静かに眠りにつき、すぅすぅと、無防備な寝息が耳に届く。
(わ……わわわわっ)
肩に伝わる重み、耳元で聞こえる寝息、触れそうな距離の体温。稔の心臓は――どういうわけか、やけにうるさく鳴った。
しばらく動けずにいると、周囲の声や歓声が意識に入ってくる。試合の熱気、仲間たちの声援、ボールの蹴られる音――現実が少しずつ戻ってきた。
サッカーの試合は、木津の活躍で稔たちのクラスが勝利した。部活の生徒たちの中でも頭ひとつ抜け、ボールを奪って走り、迷わずゴールへ向かう木津。その決定的なシュートに歓声が沸き、荒い息を吐きながら手を軽く上げる姿は、文句なしに格好良かった。
一方、村井も全力で走り回る。額から汗が流れ、髪が少し額に貼りついている。普段の整った王子様の姿とは違う、必死な表情。それでも――いや、だからこそ、驚くほど様になっていた。
歓声の中、村井は手の甲で汗を拭う。その何気ない仕草すら、絵になる。
王子様というイメージは、確固たるものになった。それは稔も同じ気持ちだ。
(わぁぁぁ……汗まみれの村井くんが眩しい!)
稔の心の中で盛大な拍手が巻き起こる。
肩には、鳴谷の頭が乗っている。静かな寝息が耳元で規則正しく響く。それでも稔の視線は、グラウンドの村井と木津に釘付けだ。
(木津くんもかっこよッッ!)
ゴールを決め、仲間に肩を叩かれる木津を見て、稔のテンションはさらに上がる。
(どっちが受けでも攻めでも、ありがたすぎるッッ!)
稔の中で、二人はただの男子生徒ではない。推しであり――尊いカップリングだった。
だが、その妄想はあっさり崩れる。
試合に勝った勢いのまま、木津の視線がまっすぐ稔に向かう。息を弾ませ、一直線に迫るその姿。
言わずともわかる。自分が、この人に想われていることを。
「稔! 勝った! 約束!」
(あ、そうだった……すっかり忘れてた……)
稔は現実に引き戻され、身体が硬直した。
「約束って、なに?」
その声と同時に、村井が追いつく。汗に濡れた髪をかき上げ、試合の余韻をそのまま纏って木津を見つめる。
「試合で勝ったら、俺たちは付き合うことになってんだ」
木津は迷いなく、言い切った。
完全に自分の中では決定事項らしい。
「え? なにそれ⁈ 聞いてない!」
村井が目を見開き、木津の肩を掴む。また小競り合いが始まりそうな空気。稔は完全に言葉を失った。
その間に挟まれている稔の肩に頭を乗せていた鳴谷が、ゆっくり目を覚ました。
「……それは、お前の勝手な押し付け条件だろ」
いつもより重く、低い声。寝起きか、機嫌が悪いのか。棘のように空気を刺す声に、場の空気がぴたりと止まった。
(あ、やばい。 これは……)
稔の背中に冷たい汗が流れた。推したちに囲まれ、稔は自分だけの危機を、はっきりと感じ取っていた。

