腐男子くんは三人の溺愛から逃げられない~推しカプ観察してたら本人たちにバレました~

 稔の頭の中は、昨日の木津の行動でいっぱいだった。
 布団に入ってからも、あの場面が何度も何度も脳内で再生される。普段なら都合のいい妄想で花を咲かせているはずの頭の中は、今日は落ち着きなく騒ぐだけだ。
 そのせいで、なかなか寝つけなかった。
 気づけば、外はうっすら明るくなり始めている。
 ――あ、これ、今から眠くなるやつだ。
 ようやく眠気がやってきそうな気配を感じたその頃には、すでに起床の時間が迫っていた。人生というものは、だいたいこういうタイミングで眠気をよこしてくる。なんとも意地が悪い。
 だが、朝の新聞配達は今日もある。
 眠いからといって休めるほど、社会は甘くない。

 稔の実家は新聞販売店だ。
その関係で、稔は中学の頃から毎朝、隣町の地区を配達している。世間の大体の学生がまだ夢の中で平和に寝返りを打っている時間帯に、彼はすでに自転車で町を走り回っていた。
 それゆえ、体力にはそれなりに自信がある。残念なことに、運動神経はそこそこしかないが。
体力と運動神経は、どうやら別の生き物らしい。稔の中では特に仲が悪い。
 そんなことをぼんやり考えながら、稔は最後の配達先の家の前にたどり着いた。
普通より、少しだけ大きめの家だ。

 少し効率は悪いが、稔があえてこの家を最後にしている理由が一つある。
 犬である。
 この家には、アイリッシュ・ウルフハウンドがいる。世界でもっとも大きい犬種の一つと言われる巨大な犬だ。
耳は小さく、目は深く穏やかだ。全身を覆う長い毛は灰色で、霧の中に立っていたら、そのまま景色に溶け込んでしまいそうな色をしている。
名前はサクラ。首輪のドッグタグに刻まれていた。
普段は室内飼いらしいのだが、なぜか毎朝、新聞配達の時間になると玄関を自分で開けて出てくる。
そして、当然のような顔で新聞を受け取りに来るのだ。
 いや、正確には新聞ではない。
稔に会いに来ている。――と、稔は勝手に思っている。
 実際には、新聞のついでに撫でてもらっているだけかもしれないが、それでもいい。かれこれ五年。配達の最後にこの犬を撫でると、「今日も仕事をやりきった」という妙な達成感が生まれるのだった。
 そして、この家にはもう一匹住人がいる。
キジ白の猫だ。
少しぽってりした体型の、いかにも平和そうな顔をした猫で、いつも二階の窓から外を眺めている。

 ――あの猫を拾ったのは、稔だった。

 まだ中学一年の頃だ。
新聞配達の途中、道端で弱っている子猫を見つけた。
小さくて、軽くて、そして驚くほど頼りなかった。ミーミーと細い声で鳴くその姿を見て、稔は思った。
――あ、これ、放っておいたら死ぬやつだ。
だが、その時点で配達はまだ半分も終わっていなかった。この地区は朝が早い家庭が多く、新聞を遅らせるわけにはいかない。
かといって、ここに置いていくこともできない。
悩んだ末、稔は上着を脱ぎ、震える子猫をそっと包んだ。
 まだ肌寒い早朝の空気の中、稔は上着を脱いで子猫を温めながら、自転車で新聞を配り続けた。
 配達が終わったら、家に帰って親に頼もう。
 病院に連れていってもらおう。
 そう考えていた、その途中だった。
 配達先の家の前。
いつもなら、大きな犬だけが出迎えてくれる家。
その日は珍しく、人の姿があった。
犬の散歩から帰ってきたところだったのだろう。
稔と背丈の変わらない、同い年くらいの男の子が、大きな犬のリードを握って立っていた。
朝の空気の中、その姿だけが妙にくっきりと見えた。

「……おはようございます」

 少年は慣れた手つきで犬の頭を撫でながら、稔に声をかけてきた。
その声は、不思議なくらい透き通っていた。だが、鉢合わせたことへのわずかな戸惑いも混じっているようだった。

「あれ……その子」

 少年はすぐに、上着の中で鳴いている子猫に気づいた。
 ミーミー、と小さな声が朝の静けさに溶ける。

「決して虐めたりしていた訳では!弱ってたのを見つけて、すぐに連れて帰りんだけど、配達がまだあって……」

 稔は事情を説明した。
すると少年は、少しだけ考えてから、あっさりと言った。

「じゃあ、うちで預かるよ」

 まるで、落ちている鉛筆を拾うくらい当たり前の調子だった。
少年は稔の上着から子猫をそっと受け取ると、大きな犬の隣で優しく抱き上げた。
その姿は、妙に絵になっていた。
巨大な犬と、細い声で鳴く子猫と、朝の光の中に立つ少年。
今思えば、あの光景は少し不思議だった。
まるで最初から、そこに全部そろっていたみたいだったからだ。
 結局、その少年とはそれっきり会っていない。
 猫を少年に頼んでから、数日後。
二階の窓から外を眺めるキジ白の猫の姿を、稔は見つけた。
どうやら、元気にやっているらしい。
日に日に縦にも横にも大きくなり、幸せそうに太っていくその猫の様子を見るのが、稔は少し嬉しかった。
 助けてやった恩など知るはずもなく、猫と一度も目が合ったことはない。
だが、二階の窓から外を眺めているその姿を、配達の途中でちらりと見るだけでも悪くなかった。

「あれ? 今日はいないぞ?」

 いつも二階の窓から顔を出している猫の姿が、その日は見えなかった。
それだけではない。
犬のサクラも、いつものように玄関の扉を開けて新聞を受け取りに来ない。
珍しいこともあるものだ、と稔が首をかしげた、その時だった。
 ガチャッ、と玄関の扉が開いた。
 サクラがようやく出てきたのかと思った。 だが、そこに立っていたのは――
 見覚えのある人物だった。

「な……鳴谷くん⁈」
「……小野寺……」

 鳴谷は特に驚く様子もなく、静かな顔でこちらを見ていた。
 片手にはサクラのリード。
もう片方の手には、持ち運び用のペットゲージ。背中には大きなカバンまで背負っている。
どう見ても、今からどこかへ出かける格好だった。
 その荷物を見た瞬間、稔の頭の中で一つの可能性が浮かぶ。

(まさか……)

「ペット泥棒⁈」

 思わず叫んでいた。
 だが、言った直後に自分でも思った。
 冷静に考えると、だいぶ無理がある。

「そんなわけないだろ」

 鳴谷が、ほんの少しだけため息を混ぜて言った。

「ここはウチだ」

 しかし、稔は納得できない。

「だって、名前違うよ! 表札!」

 この家の表札は、鳴谷ではない苗字のはずだ。

「ここは母親の実家なんだ。父親は転勤が多くてな、母親と俺はついて行かずに、ずっとこの家に住んでる」

 鳴谷は簡単にそう説明すると、尻尾を振っているサクラの頭を、リードを持った手で器用に撫でた。
その仕草は、ずいぶん慣れている。
そして、もう片方の手に持っているペットゲージの中から――ミャア、と小さな声が聞こえた。
 稔の目が見開かれる。

「え、どうしたの? まさか……」

 一瞬の沈黙。

「捨てる気じゃないよね⁈」

「小野寺。さっきから思考が極端だぞ」

 鳴谷が、静かに言った。
 呆れたような口調だったが、不思議と嫌味はない。 むしろ、少しだけ笑いをこらえているようにも聞こえた。

「父方の祖母が危篤なんだ。今日、東北に行かなければならなくてな。いつ帰ってこられるかも分からない。だから今からサクラを……犬を、たけ……あー……木津に、猫を瑞穂に預けに行くところだ」

 鳴谷は少し言葉を詰まらせながら説明した。

「え? おばあさん危篤なの⁈ それは心配だね!」
「……ああ」

 鳴谷は短くうなずく。
 そして、ふと思い出したように言った。

「小野寺は毎日、新聞配達お疲れ様」
「え、あ……うん。って、知ってたの?」
「ああ。小野寺が配達を始めた頃から知ってた」
「え……うそ」

 稔の頭の中が一瞬止まる。
 ――え、ちょっと待って。つまりそれって、ずっと見られてたってこと?
 だが鳴谷はそんな稔の混乱など気にした様子もなく、

「悪いが時間がない。またな」

 そう言うと、挨拶もそこそこに足早にその場を去っていった。
 サクラが嬉しそうに尻尾を振りながら、その後ろをついていく。
ペットゲージの中からは、猫の小さな鳴き声が聞こえていた。
 そして、静寂だけが残る。

「え?」

 数秒後。

「え? ってことは……」

 稔の脳内で、点と点がようやくつながり始める。

「……あの時の子が、鳴谷くん⁈」

 稔は驚きと衝撃で、しばらくその場に立ち尽くした。
まるで道端に置かれた地蔵のように、ぴくりとも動かなかった。

 ***

「いや、もしかしたら弟とか? 従弟とか?」

 稔は今朝の衝撃的な出来事を、頭の中で必死に整理していた。
もちろん、その中にはだいぶ都合のいい妄想も混ざっている。兄弟がいるという話は聞いたことがないが、兄弟とか、あるいは従弟と一つ屋根の下というそんな美味しいシチュエーションも悪くない――などと、腐った思考は相変わらず健在だ。
だが、本人はいたって真剣だった。

「だーれの話ー?」
「わっ、村井くん!」

 突然、背後から声をかけられ、稔の心臓が跳ね上がった。

(神出鬼没すぎる!)

 ただでさえ驚きやすいのに、不意打ちは本当にやめてほしい。
ドキドキと心拍数を上げながら振り返ると、そこにはいつもの爽やかな笑顔の村井が立っていた。

「もしかして、青史のことー?」

 ――そうだ。
 幼なじみに聞けばいいのだ。
その瞬間、稔の頭の中で電球が光った。
今さら気づいた、という顔である。

「あ、あの……鳴谷くんって、兄弟とか同居してる男の子とか……いたりするんですかね?」
「え? いないよ?」

(そうですよねぇぇぇ……)

 稔の心の中で、何かが静かに崩れ落ちた。
妄想していた都合のいい条件なんて、そう簡単に揃うわけがない。

「いや、その……新聞配達してる先が鳴谷くんの家で、そこで話したことある子がいたんですけどね……なんか、見た目が違うなぁと思いまして……」

 稔はなぜか村井には敬語だった。
 気さくで距離感の近い木津とは違い、村井はどこか“王子様”っぽい。
その雰囲気のせいで、どうしても気軽に言葉を崩すことができないのだ。

「ああ。青史、急に成長したからね。別人でしょ」

 村井は、思い出したようにスマホを操作し始めた。
 不思議なことに、新聞配達の話にも、鳴谷の家に配達していたことにも、まったく触れてこない。 

むしろ――
(え? まさか知ってた? え? こわ……)

 一瞬、背筋がひやりとした。

(……いや、でも。犬と猫を預けに行ったときに聞いたのかも?)

 稔は、後からゆっくりと自分を納得させた。

「ほら」

 村井がスマホの画面をこちらに向ける。

「面影、皆無でしょ」

 差し出された画面には、一枚の写真が映っていた。
 そこには、あの時に話したことのある少年の姿があった。
両隣には、木津と村井の幼い頃と思われる二人の姿も写っている。今よりずっと幼いのに、不思議と面影はしっかり残っていた。

「うわ、尊いっ!……じゃなかった……」

 思わず本音が出た。

「本当にこれ、鳴谷くん?」
「そう。青史だよ」

 村井はあっさり答える。

「中一までは小さくてさ。可愛い顔してたから、よく女の子に間違えられてたんだよ。でも中二になったら急に成長して、ああなった」
「なんて素晴らしい遺伝子をお持ちで!」
「なーにそれ」

 村井が、くすっと笑う。
稔のよく分からない感想がツボに入ったらしい。
そして、ふと思い出したように言った。

「今日はさ、青史が担当だけど、しばらく休みだからさ。今日は俺が相手ね」
「おい待てよ」

 その言葉を聞いた瞬間、横から木津が割って入った。

「なんでお前なんだよ」
「だって青史、しばらく休みだって言ってたし」
「だからって、なんでお前なんだよ」
「昨日はタケだったでしょ。二日連続はまず無しでしょ。青史が戻ってくるまで交互にするのが普通じゃない?」

(いやいやいや、何勝手に決めてるんですか二人して)

 当の本人を完全に置き去りにして、話が進んでいる。

「そもそも青史が不利じゃねぇか。青史がいない日は、稔の解放日だ」

(それ、僕もいい提案だと思います! 木津くんナイス!)

「それでもいいけどさ」

 村井が、さらっと言う。

「稔くんと距離をぐんと縮められる、いい機会だよ? 休んでる青史は、帰ってきたら順番を多めに回してあげればいいだけのことだし。
それにさ、もたもたしてると、俺らじゃない誰かに取られるかもって心配じゃない?」

(いやいや、こんなモブを相手にするなんて希少価値すぎますから。むしろ、あなたたちが希少生物なんですよ)

 稔は内心で盛大に首を振った。

「……それは、まぁ……」

 木津が一瞬だけ言葉を詰まらせる。
村井は、どこか楽しそうに笑った。まるで簡単な提案をしているだけ、という顔で。

「それに、チャンスは掴めるやつが掴むもんだよ」

(何その理屈! 屁理屈すぎる!)

 だが木津は、はっとした表情を見せた。
そして一瞬だけ真剣に考え――悔しそうな顔で、一歩引いた。

(納得するんかい! なんでー!? 木津くーん!おーい!意志を強く持ってー!)

 稔の心のツッコミは、すでにフル回転していた。

「と、いうわけで」

 村井が楽しそうに目を細める。
そして兎のようにぴょんと軽い調子で、稔に言った。

「今日は俺の番ね」

 悪戯っぽい笑顔だった。
王子様のように整った顔でそんな表情をされると、余計にたちが悪い。
どこか小悪魔のようにも見えて、稔の背中にじわりと冷たい汗がにじんだ。