月と陽を生きられる特別な王は、元捨て子の少女を慈しむ。

 翌日には、私はもう珀磨さまの屋敷で自室を頂いていた。
 日が沈み、月が昇る。白榔国の朝日のように、月光は銀榔国全体を明るく照らしてはくれない。それでも、静かに、そして見守るように、国全体を優しく包み込むのだ。
 ゆっくりと体を起こし、湯桶に水を溜める。昨日は忙しくて身を清める時間すらなかった。衣を捲れば、古傷から真新しい傷までびっしりと身体に根付いている。水に浸した手拭いで体を拭いていく。痛いなどの感情はもうどこかに置き忘れてしまった。任務で傷を負うことは多々あっても、朝から湯桶に水を溜められる生活を送れる日が来るとは思ってもみなかった。
 珀磨さまと同じ漆黒の着物に身を包んで、鏡台の前に立つ。今まで来たことのないような高級感溢れる着物。今まで身につけられる衣など、密偵用の身軽な服装しか考えられなかった。自身の姿を鏡に映したのもいつぶりだろうか。前に見た時より髪が痛み、頬がやつれているように感じる。
 そんなことに思考を巡らせていると、襖の奥から珀磨さまが私の名を呼んだ。

「志野、起きているか」
「起きております」

 私の返答を聞くと、襖がゆっくりと開く。現れた珀磨さまは昨日と同じく漆黒の袴を身につけ、麗しい見た目をしていた。

「おはよう」
「おはようございます」
「志野、早速だが仕事を頼みたい」

 珀磨さまは銀榔国でも、白榔国でも、生きられる人間。今までも起きていたのか、とても寝起きのような風貌には見えなかった。それだけで彼がどれほど貴重な人間かを再認識出来る。
 珀磨さまは私の元まで近づき、近くの椅子に腰掛けるよう促す。しかし、主を置いて私だけ椅子に腰掛ける気には毛頭なれなかった。

「このままで大丈夫です」
「そうか。では、本題に入る。今夜、この屋敷に刺客が訪れるという情報が入った」
「今夜……!?」

 今まで様々な任務を受けたことがあり、急な任務であることも多かったが、今夜ということは今すぐに刺客が訪れても何一つおかしくないということだ。しかし、珀磨さまは当たり前のことのように平然と情報を述べていく。

「またどこかから俺の血の情報を得たものがいたらしい。今回の刺客も生け取りが目標だろうが、多少の痛めつけは厭わないだろう。刺客の人数も四、五人と聞く。俺の異能だけでは対処しきれない」

 珀磨さまの異能は「自身に好意を持っているものを操れる」というもの。一対一では扱いやすいだろうが、多勢相手には扱いにくいことは容易に想像出来た。

「志野には俺の……」
「珀磨さまをお守りすれば良いのですね」

 珀磨さまの言葉に被せるように食い気味に返事をしてしまう。主の言葉を遮るなど、雇われ人である私に許されることではない。しかし、珀磨さまは嫌な顔をするどころか、何故か嬉しそうに口角を上げた。

「そうだ。よろしく頼む」
「……今夜の刺客は銀榔国のみなのですか?」
「どういう意味だ?」
「もし白榔国の護衛も本日から始めるのなら、珀磨さまの血を頂いた方が良いかと」

 珀磨さまの血を飲めば、銀榔国の住民である私ですら白榔国で生きられるようになる。まさに求める人からすれば、喉から手が出るほど欲しいものだろう。

「今日はまだ飲まなくて良い。夜に働くのだ。昼はゆっくり寝て休息を得るのも大切だ」

 当たり前のことのように彼はそう告げる。異能を使うために私に無理に優しく接していた昨晩とは全く違う雰囲気であるはずなのに、無愛想に告げる今の方がよほど警戒心を解いてしまいそうになる。しかし、まだ油断出来ない。私はそれほどまでに彼を知らない。彼の苦しみも、彼の異能も、まだ実感出来ないことばかりだ。だからこそ、知りたいと思ってしまう。

「珀磨さまは、いつお休みになるのですか……?」

 純粋な疑問だった。珀磨さまは銀榔国も白榔国も生きられる特別な人。沢山の刺客が訪れるこの屋敷で、彼はいつ休息をとっているのだろう。

「俺のことは心配しなくて良い」

 優しく、そしてどこか突き放すような拒絶だった。まだ相手を信頼出来ず、油断出来ないと思っているのは、珀磨さまも同じなのだろう。これは契約だ。私は命が惜しく、彼は忠誠心の固い人物を探していた。それだけのことなのだから。
 業務連絡以外は触れるな、ということだろう。私にとっても、それは好都合だった。

「刺客が来るまで、私はどこで待機すればよろしいですか?」
「俺は食事の後、自室に戻る。そのまま俺と同じ行動を取ってくれるとありがたい」
「珀磨さまの自室に入ってもよろしいのですか?」
「護衛なのだから当然だろう」

 そういうものなのだろうか。鏡心花は組織を狙う刺客がどれだけ来ようと一人で対処し、誰かを自室に入れることを嫌う人であった。誰も信用せず、実力だけで「響桜」の頭領まで上り詰めたお方だからだろうか。そんな誰も必要としない鏡心花の視界に入ることだけが、私の生きる意味だった。
 食事の準備も珀磨さまと共に行った。使用人のいないこの屋敷で、珀磨さまは毎日自分で食事の準備をしているようだった。

「誰か使用人を雇わないのですか?」
「銀榔国と白榔国の住人を別で雇うと金がかかるんだ。自分でこなした方が楽だしな」

 そう言いながら、珀磨さまは手際よく食事の準備を進める。彼も鏡心花とは別の意味で一人を好んでいるように見えた。
 共に準備を行うといっても、私は食事を運ぶくらいしか出来ることがなかった。準備を終え、珀磨さまと向かい合って食事を取る。温かな湯気の上がる出来立ての食事を取るのはいつぶりだろうか。少なくともここ数年の記憶にはない。

「いただきます」

 手を合わせ、珀磨さまと共に食事を取る。今まで食事は栄養供給のためのもので、味や温度などを気にしたことはなかった。

「美味しい……」

 気づけば、そう口から溢れていた。私の表情と呟きを見て、珀磨さまは少しだけ目を細め、箸を止めた。

「お前の主人は、温かな食事もくれなかったのか」
「…………」
「答えたくないのなら、答えなくて良い。その分、味わって食べろ」

 湯気の立っている白米にお味噌汁。何も変わったものじゃない。それでも、湯気に当てられて涙が溢れそうになる。こんな感覚を私は知らない。涙を堪え、どこかおかしな顔をしているであろう私を、珀磨さまは見もしない。いや、見ないでくれているのかもしれない。そんな不器用な優しさを感じて、私は僅かに(うつむ)いた。
 しかし、この食事の最中にも刺客は訪れる可能性がある。いくら衣に武器を忍ばせているとはいえ、油断は絶対に許されない。私は涙を無理やり拭い、すぐさま顔を上げた。
 食事を終え、食器の片付けを済ます。そのまま私たちは珀磨さまの自室に足を踏み入れた。珀磨さまの自室は良く言えば、無駄なものが一切なかった。どこか無機質で、本当にここで人が生活しているのか怪しいんでしまうほどだった。珀磨さまは蝋燭の元で、書物を読みながら静かに時間を過ごしている。私はその隣に立ち、辺りを警戒し続ける。

「志野、休まなくて良いのか。立ちっぱなしでは疲れるだろう」
「私の仕事は珀磨さまをお守りすることですので」
「……そうか。では、疲れたら休め」

 珀磨さまは私の意見を尊重する。今だって、自身の善性のために私に無理やり休息を取らせても良いのだ。しかし、彼はそれをしない。珀磨さまは座って書物を読んでいるにも関わらず、その身からは警戒心が漂っていた。彼こそ休むべきだ、と私はつい意見したくなってしまう。
 その時、突然ガシャンと何かが割れる音が屋敷に響いた。侵入者が入ってきたことを知らせる音だった。

「志野、向かおう」
「はい……!」

 侵入者はよほど自信があるのか、いや彼ほどの実力者に不意打ちは無駄だと悟っているのか。音の鳴った方へ足早に向かうと、情報通り五人の刺客が私たちを待ち構えていた。
 私たちを見るや否や刺客が一気に襲いかかってくる。私には目をくれずに、珀磨さまに向かって一気に五人で襲いかかった。すぐに私は珀磨さまの前に立ち、刺客と応戦する。それでも私が対処しているのは二人、珀磨さまが対処しているのは三人だった。珀磨さまは刀を使ってもお強い。しかし主より弱い護衛に価値はない、そんな考えが私の腕に力を込めた。ガシャンと相手の刀を一気に振り落とす。一人、また一人と刺客が倒れていく。二人の刺客が倒れたのを確認すると同時に、珀磨さまの援護に回る。

「志野、無茶をするな」
「護衛を心配をする暇があるなら命じて下さい。命懸けで守れ、と」
「……志野、俺を守れ。しかし、生きて守れ」

 そんな言葉を言われたのは初めてだった。今まで組織では怪我をすることも、命を落とすことも、指令をこなすことと比べれば些細なことだった。指令が全て。鏡心花の指令が全て。それこそが構成員の生きる意味だった。しかし、そんなことを考える暇もなく、刺客は手数を増やすように刃を振り回す。私と珀磨さまの力量を悟り、どこか自暴自棄になっているのかもしれない。
 そんな相手に珀磨さまは応戦しながら、昨晩と同じ微笑むを相手に向ける。

「怖がらなくて良い。君も誰かに命じられただけだろう」

 今まさに自分を襲い、命を狙っている相手に、微笑む。私はそんな珀磨さまが恐ろしかった。しかし、彼は今どんな気持ちなのだろう。自分の命を狙うことに心血を注ぎ、恐怖を与えてくる相手に、私なら微笑むこと出来るだろうか。
 刺客は、それでもこの状況で味方になってくれる珀磨さまに少し心が揺らいだようだった。珀磨さまの声色が変わる。

「動くな」

 次の瞬間。残る三人のうち二人の刺客の動きがピタッと止まり、刺客は理解の出来ない顔をしている。珀磨さまは動きの止まった二人の刺客を刀の柄でバタッ、バタッ、と突き飛ばした。そして、次に残る一人を正面から倒し、刀を(さや)に戻す。そして、こちらを振り向いた珀磨さまはまるで月光に照らされた狩人だった。その目には光が映らず、どこかこの世の絶望を映している。

「志野、よくやった」

 光のない目で、彼は私を労う。その表情があまりに痛々しくて、私は気づけば彼の頬にそっと指で触れていた。

「志野?」
「っ……申し訳ありません……! つい……!」
「……そんなに俺が心配だったか?」

 まるでどこか私を揶揄うように、それでいてどこか真剣な雰囲気で、彼はそう告げる。何と返すのが正しいのだろう。でも、ここで嘘をつけば、もう二度と彼の心に踏み入る隙などない気がした。

「はい……珀磨さまが、心配でした……」

 私がそう述べた時の珀磨さまの表情は、何と表現したら良いのだろうか。細めた瞳に、私だけが映っている。その瞳はまるで月光よりも私を映したい、そう伝えるように彼は私から視線を逸らさない。あれほど誰かの視界に入りたかった私を、彼は意図も容易く瞳に映してくれる。

「そんなことを言われたらもう逃してやれない」

 そう告げた珀磨さまは、私の髪をそっと手に絡める。任務に支障がないように、手入れが楽なように、短く切られた髪を愛おしそうに触れる。珀磨さまに触れられた髪が熱を帯びたように、どこかじんわりと頭まで熱くなっている。頭から頬へ、頬から首へ、首から全身へ。熱が広がっていく。広がっていく熱の対処法を知らないまま、私はただ今の状況に動揺して身が震えている。

「志野、よく生きて守った」

 生まれて初めての任務に対する労いの言葉だった。火照ったような全身は言うことを聞かず、勝手に瞳からは涙が溢れた。そんな私の涙を珀磨さまが優しく手で拭う。そして微笑んだ珀磨さまの笑みは、異能のための表向きの微笑みと似ているようでどこか違っていた。いや、私がそう願っているだけかもしれない。
 珀磨さまの後ろの窓からは月が見えている。真っ暗な夜空を照らす唯一無二の月。それは、久しぶりに見た満月だった。