『月光に照らされた銀榔国、太陽昇る国とは異なる理を持つ』
赤い額縁の中に荒く流れるように描かれた文字。その前に立つのは、密偵組織「響桜」の頭領 鏡心花。
「鏡心花、次の指令を」
漆黒の長髪を結紐で纏め、切れ長の目は鋭く月夜を映している。鏡心花は私に一瞥もくれなかった。しかし、銀榔国ではその対応が当たり前である。鏡心花は女性でありながら僅か齢三十にも満たず、銀榔国随一の密偵組織「響桜」の長に上り詰めた。密偵組織という呼び名ながら、我が組織は暗殺や情報操作など様々な仕事を担っている。一介の構成員ならば、鏡心花の視界に入ることすら不可能だろう。
「天王寺 珀磨の片腕を落とせ」
鏡心花が軽く右腕を上げ、一枚の丸められた半紙を私に投げた。その作業で、指令伝達は終わりを告げる。
「御意」
直ちに私は鏡心花の前から退き、重い扉を開けて灯りのない部屋を出る。部屋の外の通路は僅かに蝋燭が置かれており、仄かに道を照らしている。
「はぁ、緊張した……」
私の名は志野。鏡心花に拾われた元捨て子である。志野という名も鏡心花に頂いた。生きる道はこれしかない、この国ではよくある話である。
我が銀榔国は、月が昇っている時間……つまり夜しか存在しない。日が昇っている間は白榔国に名を変える。いや、白榔国こそ正しい姿なのだ。
白榔国に住む人々は、昼に活動し夜は深く眠りにつく。日が昇るまで目が覚めることはない。しかし、稀にその理を覆す人間が生まれてくる。白榔国の人々と真逆の生活を送る人間だ。白榔国の住民が殆どを占める中で、銀榔国の人々は数少ない仕事を取り合うように生きている。裏稼業のような仕事でも頂けるだけありがたいのだ。
「今回の指令は……天王寺 珀磨の片腕を落とせ、か」
指令について書かれた半紙には、天王寺 珀磨の住む家の場所が書かれている。しかし、私は天王寺 珀磨の家を元より知っている。いや、銀榔国に住む人間ならば……もっと言えば白榔国に住む人間ですら、その名を知らない者はいない。
天王寺 珀磨は、白榔国と銀榔国の両国を生きられる人間。両国唯一の特別な人間である。
そんな人間を傷つければ、私は生きることなど許されない。何より天王寺 珀磨は強い異能を持ち、数多なる刺客を打ち殺してきたと聞く。
「鏡心花、私は用無しということですか」
まるで自問自答のようにそう口に出してしまう。この指令は私が命を落とすことを望んでいる。
蝋燭の灯りに照らされた廊下は、それでも尚薄暗く、まるで私の心の絶望を表している様だった。しかし、まだ蝋燭は灯っている。指令をこなせば良いのだ。指令をこなせば、もうもう一度鏡心花の部屋を訪れることが出来る。その後殺されようと、罰せられようと、指令を無事にこなせば、鏡心花の視界に入れて貰える。あの瞬間だけ、鏡心花は私を瞳に映す。誰にも必要とされなかった私が唯一誰かに必要とされていることを実感出来る時間なのだ。
それからすぐに私は隠密用の衣に着替え、天王寺 珀磨の屋敷に向かった。大きく豪勢に作られた屋敷は、この国ではどこか浮世離れしている様にも見える。日が昇っている間に見たら、ちゃんと綺麗に見えるのだろうか。
これでも、私は鏡心花に拾われてから長い。自分の実力を過信しているわけではないが、天王寺 珀磨の屋敷に忍び込むのは想像以上に簡単だった。いや、簡単すぎた。
「まるで誰もいないみたい……」
そんな感情のまま、最奥の部屋まで辿り着き、そっと様子を伺う。そして、やっとこの屋敷に誰も用心棒がいない理由を悟るのだ。
天王寺 珀磨は一目見て私が敵わないと察するほどに強すぎた。黒色の短髪を無造作にかきあげ、髪色を合わせたように漆黒の袴を身につけている天王寺 珀磨は、まさに夜の王だった。彼が白榔国でも生きられるなど考えられないほどに、彼は月夜に愛されているように見えた。
そして、私は気付かれた。足音ひとつ立てていない、何ひとつ間違えていないはずなのに、私は気付かれたのだ。
「君、何をしているの?」
飄々と、そして淡々と。天王寺 珀磨は一歩、一歩、と私に近づいてくる。彼は刀を鞘から出すこともしなかった。
私の足が勝手に一歩後ろに退いた。早く逃げろと本能が叫んでいるのに、足は一歩だけ後ろに動いたのち、全く動いてはくれないのだ。
「そんなに怯えなくても大丈夫」
そう述べて微笑む天王寺 珀磨はまるで異国の貴公子の様だった。浮世離れした顔の造形と、細身の長身。表情を映えさせるように煌めく黒髪。漆黒の袴すら、どこか煌めいて見えてくる。
月光を背に、彼は私の前までやってくる。美しいのに恐ろしい、とはまさにこのことだろう。逆光で彼の表情がよく見えないことだけがせめてもの救いだろうか。もし彼の表情までよく見えてしまったら、彼の瞳に射抜かれてしまったら、そのまま私は心臓を矢で貫かれたように命を落としてしまいそうな危機感すら覚える。あんなにも誰かの視界に入りたくて、そのために自分の命すら捨てるつもりだったのに、今は彼の瞳に自分が映ることすら怖い。
「どうしたの? ここに迷い込んでしまった?」
そんなはずはない、と彼も分かっているはずだ。それでも、優しい微笑みを崩さない。
そのまま彼は私は壁まで追い詰め、そっと私の腰に右手を当てる。
「逃げないで。大丈夫だから」
私の腰を優しく引き寄せて、微笑む。何故、侵入者である私にこんなに親切に接するのか理解が出来ない。理解出来ないからこそ、怖いのだ。体がガタガタと震え、唇は小刻みに動いてしまう。全身がまるで壊れたぜんまいのように勝手にガチガチと予定外に動いていく。今の私が急須で茶を入れようものなら、茶は全て畳にこぼしてしまうことだろう。
このままではダメだ、早く逃げないと。でも、逃げるってどこへ? どこに逃げたって、任務に失敗した私の居場所はありはしないのに。その事実を認識した瞬間、私の身体の震えは突然止まった。
幸い標的は今、私の腰に右手を当てている。このまま懐に隠した刃で彼の右手を傷つけられれば……という思考がやっと頭に戻ってくる。そうだ。私の任務は、生きる意味はそれだけしかないのだから。刃を取り出したと同時、私は体制を変えずにそのまま左手だけを振り下ろし、天王寺 珀磨の右手へと振り下ろした。
次の瞬間。カシャンッ、という音と共に刃が床に落ちる。
そして、気付いた時には私は床に押さえつけられていた。何が起きたか今になってやっと理解出来たほど、天王寺 珀磨の身の捌きは常軌を逸脱していた。
「変わってるね、君」
その瞳には月光は一切反射していなかった。先ほどまでの優しい微笑みも、声色も、まるで面影を感じさせない。今、天王寺 珀磨に宿るのは私への不信感だけだ。先ほどの刃は床に飛ばされ、まだ僅かに飛ばされた余波で動いている。
その刃の動きすら止まった瞬間、天王寺 珀磨は私に問いかけた。
「誰に命じられた?」
答えるはずがなかった。我が命は鏡心花のもの。
どれだけ恐怖で身体が思うように動かなくても、それだけは心の奥に根付いている。
「答えろ」
キュッ、と下唇を噛む。優しい噛み方じゃない、口の中にはもう血の味が広がり始めていた。そんな私の決意を前にして、彼は「ふぅ」とため息を吐いた。
「やっぱり変わってるな」
先ほどから天王寺 珀磨は「変わっている」と私に向けて述べる。しかし、今の状況で私の行動の何が変わっているのか理解出来ない。
そんな私の感情を感じ取ったように、彼は私を押さえつける手の力を緩めた。
「両手を上げろ」
突然、そんなことを言われても私の体も心も天王寺 珀磨の命令を聞くはずがなかった。しかし、彼は今の状況で何かを理解したように頷いた。まるでもう逃さないとでも言うように、彼の瞳が私が映して離さない。しかし、今はそんなことは関係ない。とりあえず、今の状況を打破しなければ、私の命はここで終わる。それでも良いと思いながら、体はまだ諦めていないとでもいうように、飛ばされた刃の方へ手を伸ばそうとする。そんな私の腕をもう一度彼は思いきり押さえつけた。圧倒的な力の差、それでやっと私の体も逃げられないことを理解したようだった。
「……殺したければ、ご自由に」
「やっと口を開いたか。誰の命令だ?」
「…………」
「言えないか。では言えるようにするか」
そう述べて、天王寺 珀磨は腕を伸ばし、私が喉から手が出るほど取り戻したかった刃を軽々と手に入れた。そして、私の喉元に突きつける。
「言え」
「…………」
ここで口を開かなかったのだ。殺される覚悟は出来ている。私は目を閉じ、心の中で鏡心花に謝罪する。
天王寺 珀磨が刃を振り上げ……そして、振り下ろすと思っていた。しかし、そのまま刃をもう一度遠くへ投げ捨てる。今度は手を伸ばしても届かない距離まで投げ捨てた。
「死ぬ前のお前に、ある選択肢をやる。俺の異能を知り、協力者になれ」
意味が分からない、が正直な感想だった。しかし頭の理解より早く、私の返答より早く、天王寺 珀磨は自身の異能を明かした。
「俺は自分に好意を持っている者を操ることが出来る。親近感や善意の感情も含めてだ。操れる量は、好意の量に比例する。先ほど侵入したお前に優しく接したのは、そういう理由だ。お前が少しでも警戒心を解いたら、腕や足の拘束くらいなら出来るからな」
やっと先ほどの言動の意味が分かった。「変わっている」というのは、天王寺 珀磨が優しく接しても少しも警戒心を解かなかったことに対して述べたのだ。
「その異能を持っていて、私に何を助けろと? 私に出来ることは何もないかと」
「好意を持つ者を操っても、ずっとそいつの理想のままを演技できる訳じゃない。限りがある。だからこそ、忠誠心の熱いやつを探していたんだ」
天王寺 珀磨が左の口角を少しだけ上げた。まるで獲物を見つけた狩人のように。
その笑みを見て、私の心はざわつき始める。先ほどの胡散臭い微笑みより、よほど信頼出来ると思ってしまったからだ。
「しかし、私は銀榔国のものです。日が昇り、白榔国になれば貴方を守ることは出来ない」
「それは関係ない。俺の血を飲めば、両国で生きられるようになる。だだし一回につき、効力は一日。つまり毎日飲み続けなければいけない」
やっと天王寺 珀磨が強い理由が分かった。やっと天王寺 珀磨に数多なる刺客が送られている理由が分かった。彼の血には価値があり、そして彼は自身を守るために強くなったのだ。指令が彼の命を奪うものではなかった理由も今なら頷ける。
彼の事情は分かった。私の残された道は、彼の協力者になるか、ここで死ぬかだ。もう鏡心花の元に戻ることは二度と出来ない。それだけはしっかりと分かっていた。この後に及んでも死にたくない、と本能は足掻くもので、人間の生存本能はそんな風に出来ている。しかし、そんな私でも譲れないものが一つだけある。
「貴方の元についても、私の雇い主を傷つける手伝いだけは出来ません。貴方をその方の次、二番目に大切にするという約束なら協力します。それが不服であれば、この場で私を殺して下さい」
「……それで良い。それくらい忠誠心が固い人間を探していた」
天王寺 珀磨は私を拘束していた手から力を抜いた。起き上がった私に合わせるように屈んで、問いかける。
「お前、名は?」
「志野です」
「志野、か。良い名だ」
その日、初めて鏡心花から頂いた名前を褒められた。胸がギュッと締まり、どこか呼吸が苦しくなるような感覚だった。
「俺のことは珀磨と呼べ。これから頼んだ、志野」
「珀磨、さま……」
「ははっ、それで良い」
異能上、表向きは相手に笑顔を見せるしかないその方は、私に真剣な顔でそう述べた。しかし、笑顔じゃないからこそ信頼出来た。組織では、フルネームで呼ぶことにより敬意を示す。これから珀磨さまは私の第二の主になる。突然下の名前を呼ぶことを許可されても、私には「珀磨さま」と呼ぶことが限度だった。
後ろを振り返った珀磨さまの瞳にようやく月光が反射する。私はやっとその姿を綺麗だと思うことが出来た。
赤い額縁の中に荒く流れるように描かれた文字。その前に立つのは、密偵組織「響桜」の頭領 鏡心花。
「鏡心花、次の指令を」
漆黒の長髪を結紐で纏め、切れ長の目は鋭く月夜を映している。鏡心花は私に一瞥もくれなかった。しかし、銀榔国ではその対応が当たり前である。鏡心花は女性でありながら僅か齢三十にも満たず、銀榔国随一の密偵組織「響桜」の長に上り詰めた。密偵組織という呼び名ながら、我が組織は暗殺や情報操作など様々な仕事を担っている。一介の構成員ならば、鏡心花の視界に入ることすら不可能だろう。
「天王寺 珀磨の片腕を落とせ」
鏡心花が軽く右腕を上げ、一枚の丸められた半紙を私に投げた。その作業で、指令伝達は終わりを告げる。
「御意」
直ちに私は鏡心花の前から退き、重い扉を開けて灯りのない部屋を出る。部屋の外の通路は僅かに蝋燭が置かれており、仄かに道を照らしている。
「はぁ、緊張した……」
私の名は志野。鏡心花に拾われた元捨て子である。志野という名も鏡心花に頂いた。生きる道はこれしかない、この国ではよくある話である。
我が銀榔国は、月が昇っている時間……つまり夜しか存在しない。日が昇っている間は白榔国に名を変える。いや、白榔国こそ正しい姿なのだ。
白榔国に住む人々は、昼に活動し夜は深く眠りにつく。日が昇るまで目が覚めることはない。しかし、稀にその理を覆す人間が生まれてくる。白榔国の人々と真逆の生活を送る人間だ。白榔国の住民が殆どを占める中で、銀榔国の人々は数少ない仕事を取り合うように生きている。裏稼業のような仕事でも頂けるだけありがたいのだ。
「今回の指令は……天王寺 珀磨の片腕を落とせ、か」
指令について書かれた半紙には、天王寺 珀磨の住む家の場所が書かれている。しかし、私は天王寺 珀磨の家を元より知っている。いや、銀榔国に住む人間ならば……もっと言えば白榔国に住む人間ですら、その名を知らない者はいない。
天王寺 珀磨は、白榔国と銀榔国の両国を生きられる人間。両国唯一の特別な人間である。
そんな人間を傷つければ、私は生きることなど許されない。何より天王寺 珀磨は強い異能を持ち、数多なる刺客を打ち殺してきたと聞く。
「鏡心花、私は用無しということですか」
まるで自問自答のようにそう口に出してしまう。この指令は私が命を落とすことを望んでいる。
蝋燭の灯りに照らされた廊下は、それでも尚薄暗く、まるで私の心の絶望を表している様だった。しかし、まだ蝋燭は灯っている。指令をこなせば良いのだ。指令をこなせば、もうもう一度鏡心花の部屋を訪れることが出来る。その後殺されようと、罰せられようと、指令を無事にこなせば、鏡心花の視界に入れて貰える。あの瞬間だけ、鏡心花は私を瞳に映す。誰にも必要とされなかった私が唯一誰かに必要とされていることを実感出来る時間なのだ。
それからすぐに私は隠密用の衣に着替え、天王寺 珀磨の屋敷に向かった。大きく豪勢に作られた屋敷は、この国ではどこか浮世離れしている様にも見える。日が昇っている間に見たら、ちゃんと綺麗に見えるのだろうか。
これでも、私は鏡心花に拾われてから長い。自分の実力を過信しているわけではないが、天王寺 珀磨の屋敷に忍び込むのは想像以上に簡単だった。いや、簡単すぎた。
「まるで誰もいないみたい……」
そんな感情のまま、最奥の部屋まで辿り着き、そっと様子を伺う。そして、やっとこの屋敷に誰も用心棒がいない理由を悟るのだ。
天王寺 珀磨は一目見て私が敵わないと察するほどに強すぎた。黒色の短髪を無造作にかきあげ、髪色を合わせたように漆黒の袴を身につけている天王寺 珀磨は、まさに夜の王だった。彼が白榔国でも生きられるなど考えられないほどに、彼は月夜に愛されているように見えた。
そして、私は気付かれた。足音ひとつ立てていない、何ひとつ間違えていないはずなのに、私は気付かれたのだ。
「君、何をしているの?」
飄々と、そして淡々と。天王寺 珀磨は一歩、一歩、と私に近づいてくる。彼は刀を鞘から出すこともしなかった。
私の足が勝手に一歩後ろに退いた。早く逃げろと本能が叫んでいるのに、足は一歩だけ後ろに動いたのち、全く動いてはくれないのだ。
「そんなに怯えなくても大丈夫」
そう述べて微笑む天王寺 珀磨はまるで異国の貴公子の様だった。浮世離れした顔の造形と、細身の長身。表情を映えさせるように煌めく黒髪。漆黒の袴すら、どこか煌めいて見えてくる。
月光を背に、彼は私の前までやってくる。美しいのに恐ろしい、とはまさにこのことだろう。逆光で彼の表情がよく見えないことだけがせめてもの救いだろうか。もし彼の表情までよく見えてしまったら、彼の瞳に射抜かれてしまったら、そのまま私は心臓を矢で貫かれたように命を落としてしまいそうな危機感すら覚える。あんなにも誰かの視界に入りたくて、そのために自分の命すら捨てるつもりだったのに、今は彼の瞳に自分が映ることすら怖い。
「どうしたの? ここに迷い込んでしまった?」
そんなはずはない、と彼も分かっているはずだ。それでも、優しい微笑みを崩さない。
そのまま彼は私は壁まで追い詰め、そっと私の腰に右手を当てる。
「逃げないで。大丈夫だから」
私の腰を優しく引き寄せて、微笑む。何故、侵入者である私にこんなに親切に接するのか理解が出来ない。理解出来ないからこそ、怖いのだ。体がガタガタと震え、唇は小刻みに動いてしまう。全身がまるで壊れたぜんまいのように勝手にガチガチと予定外に動いていく。今の私が急須で茶を入れようものなら、茶は全て畳にこぼしてしまうことだろう。
このままではダメだ、早く逃げないと。でも、逃げるってどこへ? どこに逃げたって、任務に失敗した私の居場所はありはしないのに。その事実を認識した瞬間、私の身体の震えは突然止まった。
幸い標的は今、私の腰に右手を当てている。このまま懐に隠した刃で彼の右手を傷つけられれば……という思考がやっと頭に戻ってくる。そうだ。私の任務は、生きる意味はそれだけしかないのだから。刃を取り出したと同時、私は体制を変えずにそのまま左手だけを振り下ろし、天王寺 珀磨の右手へと振り下ろした。
次の瞬間。カシャンッ、という音と共に刃が床に落ちる。
そして、気付いた時には私は床に押さえつけられていた。何が起きたか今になってやっと理解出来たほど、天王寺 珀磨の身の捌きは常軌を逸脱していた。
「変わってるね、君」
その瞳には月光は一切反射していなかった。先ほどまでの優しい微笑みも、声色も、まるで面影を感じさせない。今、天王寺 珀磨に宿るのは私への不信感だけだ。先ほどの刃は床に飛ばされ、まだ僅かに飛ばされた余波で動いている。
その刃の動きすら止まった瞬間、天王寺 珀磨は私に問いかけた。
「誰に命じられた?」
答えるはずがなかった。我が命は鏡心花のもの。
どれだけ恐怖で身体が思うように動かなくても、それだけは心の奥に根付いている。
「答えろ」
キュッ、と下唇を噛む。優しい噛み方じゃない、口の中にはもう血の味が広がり始めていた。そんな私の決意を前にして、彼は「ふぅ」とため息を吐いた。
「やっぱり変わってるな」
先ほどから天王寺 珀磨は「変わっている」と私に向けて述べる。しかし、今の状況で私の行動の何が変わっているのか理解出来ない。
そんな私の感情を感じ取ったように、彼は私を押さえつける手の力を緩めた。
「両手を上げろ」
突然、そんなことを言われても私の体も心も天王寺 珀磨の命令を聞くはずがなかった。しかし、彼は今の状況で何かを理解したように頷いた。まるでもう逃さないとでも言うように、彼の瞳が私が映して離さない。しかし、今はそんなことは関係ない。とりあえず、今の状況を打破しなければ、私の命はここで終わる。それでも良いと思いながら、体はまだ諦めていないとでもいうように、飛ばされた刃の方へ手を伸ばそうとする。そんな私の腕をもう一度彼は思いきり押さえつけた。圧倒的な力の差、それでやっと私の体も逃げられないことを理解したようだった。
「……殺したければ、ご自由に」
「やっと口を開いたか。誰の命令だ?」
「…………」
「言えないか。では言えるようにするか」
そう述べて、天王寺 珀磨は腕を伸ばし、私が喉から手が出るほど取り戻したかった刃を軽々と手に入れた。そして、私の喉元に突きつける。
「言え」
「…………」
ここで口を開かなかったのだ。殺される覚悟は出来ている。私は目を閉じ、心の中で鏡心花に謝罪する。
天王寺 珀磨が刃を振り上げ……そして、振り下ろすと思っていた。しかし、そのまま刃をもう一度遠くへ投げ捨てる。今度は手を伸ばしても届かない距離まで投げ捨てた。
「死ぬ前のお前に、ある選択肢をやる。俺の異能を知り、協力者になれ」
意味が分からない、が正直な感想だった。しかし頭の理解より早く、私の返答より早く、天王寺 珀磨は自身の異能を明かした。
「俺は自分に好意を持っている者を操ることが出来る。親近感や善意の感情も含めてだ。操れる量は、好意の量に比例する。先ほど侵入したお前に優しく接したのは、そういう理由だ。お前が少しでも警戒心を解いたら、腕や足の拘束くらいなら出来るからな」
やっと先ほどの言動の意味が分かった。「変わっている」というのは、天王寺 珀磨が優しく接しても少しも警戒心を解かなかったことに対して述べたのだ。
「その異能を持っていて、私に何を助けろと? 私に出来ることは何もないかと」
「好意を持つ者を操っても、ずっとそいつの理想のままを演技できる訳じゃない。限りがある。だからこそ、忠誠心の熱いやつを探していたんだ」
天王寺 珀磨が左の口角を少しだけ上げた。まるで獲物を見つけた狩人のように。
その笑みを見て、私の心はざわつき始める。先ほどの胡散臭い微笑みより、よほど信頼出来ると思ってしまったからだ。
「しかし、私は銀榔国のものです。日が昇り、白榔国になれば貴方を守ることは出来ない」
「それは関係ない。俺の血を飲めば、両国で生きられるようになる。だだし一回につき、効力は一日。つまり毎日飲み続けなければいけない」
やっと天王寺 珀磨が強い理由が分かった。やっと天王寺 珀磨に数多なる刺客が送られている理由が分かった。彼の血には価値があり、そして彼は自身を守るために強くなったのだ。指令が彼の命を奪うものではなかった理由も今なら頷ける。
彼の事情は分かった。私の残された道は、彼の協力者になるか、ここで死ぬかだ。もう鏡心花の元に戻ることは二度と出来ない。それだけはしっかりと分かっていた。この後に及んでも死にたくない、と本能は足掻くもので、人間の生存本能はそんな風に出来ている。しかし、そんな私でも譲れないものが一つだけある。
「貴方の元についても、私の雇い主を傷つける手伝いだけは出来ません。貴方をその方の次、二番目に大切にするという約束なら協力します。それが不服であれば、この場で私を殺して下さい」
「……それで良い。それくらい忠誠心が固い人間を探していた」
天王寺 珀磨は私を拘束していた手から力を抜いた。起き上がった私に合わせるように屈んで、問いかける。
「お前、名は?」
「志野です」
「志野、か。良い名だ」
その日、初めて鏡心花から頂いた名前を褒められた。胸がギュッと締まり、どこか呼吸が苦しくなるような感覚だった。
「俺のことは珀磨と呼べ。これから頼んだ、志野」
「珀磨、さま……」
「ははっ、それで良い」
異能上、表向きは相手に笑顔を見せるしかないその方は、私に真剣な顔でそう述べた。しかし、笑顔じゃないからこそ信頼出来た。組織では、フルネームで呼ぶことにより敬意を示す。これから珀磨さまは私の第二の主になる。突然下の名前を呼ぶことを許可されても、私には「珀磨さま」と呼ぶことが限度だった。
後ろを振り返った珀磨さまの瞳にようやく月光が反射する。私はやっとその姿を綺麗だと思うことが出来た。



