不眠の氷狼皇帝は、身代わり妃を手放せない

後宮の庭園、美しい薔薇が咲き誇る東屋で、事件は起きた。
李信が公務で席を外したわずかな隙を突き、貴妃・琳が茉莉花を取り囲む。

「……身代わりのネズミが、よくも正妃の座を夢見たものね」

琳の合図で、侍女たちが茉莉花の持つ茶器を叩き落とした。
李信が茉莉花のために特注した、世界に一つしかない白磁の器が粉々に砕け散る。
さらに、茉莉花の亡き母の唯一の形見である刺繍のハンカチが、泥の中に放り捨てられた。

「あら、手が滑ってしまいましたわ。……陛下はお疲れなのよ。あなたのような卑しい香りに毒されているだけ。目を覚まさせてあげなくては」

琳が冷笑しながら、泥に汚れたハンカチを靴で踏みにじろうとした、その時。

「——その足を動かしてみろ。二度と歩けぬよう、根元から凍らせてやる」

背筋が凍りつくような、絶対零度の声。
振り返ると、そこには漆黒の独占欲を立ち昇らせた李信が立っていた。
彼の周囲だけ、空気がピキピキと音を立てて凍りついている。

「へ、陛下……!?これは、その、教育を……」
「黙れ。私の宝に触れたその薄汚い指、そして茉莉花を侮辱したその口……。万死に値する」

李信の瞳には、もはや人間に対する温度は微塵もない。
彼は指先を軽く振るった。
途端、琳の周囲に鋭い氷の刃が顕現し、彼女の喉元を寸分違わず囲い込む。
一歩でも動けば、その首が飛ぶのは明白だった。

「ひっ、あああ……!」
「……殺しはしない。だが、お前が犯した罪の重さを、その身に刻んでから地獄へ送ってやろう」

李信の本気の殺意。
彼にとって、茉莉花以外の人間はすべて『背景』か『敵』でしかない。
震え上がる琳に、李信が最後の一撃を放とうとした瞬間——。

「陛下!おやめください!」

茉莉花が、泥だらけのハンカチを拾い上げ、李信の腕に縋り付いた。

「茉莉花……?どけ。こいつは、お前の大切なものを汚したのだぞ」
「わかっています。でも、陛下の手を汚してほしくないんです。……殺すなんて、そんな悲しいこと、私のためというなら、お止めください!」

茉莉花の瞳には、恐怖ではなく、李信を案じる真摯な光があった。
李信の荒れ狂う独占欲が、茉莉花の温もりに触れて、ふっと霧散していく。

「……お前は、自分を殺そうとした女さえ庇うのか。どこまで尊く、脆いのだ」

李信は茉莉花を抱き寄せ、彼女の頭を壊れ物を扱うように撫でた。
その瞳には、茉莉花に対する『歪んだ執着』が宿る。

「……茉莉花、お前の願いだ。命だけは助けてやろう。だが、この女は今すぐ地位を剥奪し、国外へ追放する。二度と、私の視界に入ることは許さん」
「あ、ありがとうございます……」

琳は腰を抜かし、兵士たちに引きずられていった。
だが、茉莉花を抱きしめる李信の腕の力は、解かれるどころかさらに強くなる。

「……茉莉花、約束しろ。お前は私がいなければ、明日には誰かに食い殺されるほど優しい。だから、一生私の腕の中から出るな。……いいな?」

耳元で囁かれる独占欲の塊のような言葉。
茉莉花は、彼が自分を愛している以上に『執着』していることを悟り、背筋に甘い震えを感じるのだった。