後宮の最奥、豪奢を極めた『紫晶宮』の寝室。
そこは、この世で最も美しく、そして最も冷酷な男の支配領域だった。
「……お前が、今夜の生贄か」
低い、地響きのような声が茉莉花の鼓膜を震わせる。
目の前に立つのは、華国の若き皇帝、李信。
銀の髪は月光を反射して鋭く光り、切れ長の瞳は、彼が持つ異能である『氷河』そのものの冷徹さを湛えている。
……噂以上の威圧感。まさに『氷狼』ね。
茉莉花は、服の裾を握りしめ、深々と頭を下げた。
彼女は本来、ここにいるはずの人間ではない。
高慢な異母姉が「あんな冷酷な男の寝所に通されるなんて死んでも嫌だ」と泣き喚いたため、身代わりとして差し出された『落ちこぼれ』の令嬢だ。
「茉莉花と申します。……陛下、お初にお目見えいたします」
「唐家の娘か。どいつもこいつも、私を怯えた目で見おって。虫唾が走る」
李信は忌々しげに舌を打ち、茉莉花の顎を乱暴にクイと持ち上げた。
至近距離で見つめ合う。
彼の瞳の奥には、どろりと濁った深い隈と、狂気にも似た『苛立ち』が渦巻いていた。
この人、ひどい顔……。あぁ、噂の『不眠症』は本当だったんだわ。
李信は建国以来最強の独占欲を持つと言われているが、その代償として、自身の独占欲が昂ぶりすぎて脳が休まらず、ここ数ヶ月まともに眠れていないという。
「……何を見ている。貴様も、私の首を狙いに来た刺客か?それとも、媚薬でも仕込んで寵愛を強請るつもりか?」
「いえ、特には。ただ、あまりにお顔が疲れていらっしゃるので、お可哀想だなと」
「……は?」
李信の動きが止まる。
今まで彼に近づいた女たちは、恐怖に震えるか、あるいは野心に瞳を輝かせるかのどちらかだった。
こんな風に、近所の野良猫でも見るような同情の眼差しを向けられたのは初めてだ。
「無礼な女だ。……処刑されたいのか」
「どうせ身代わりで来た身です。殺されるのも、不敬で追い出されるのも、大差ありませんわ」
茉莉花はふう、と小さく溜息をついた。
彼女には、生まれつき微かな『浄化の残り香』という、独占欲を鎮める体質があった。
実家では『役立たずの香料』と馬鹿にされていたが、今の李信にとっては、これ以上ない劇薬となる。
「陛下。……少しだけ、静かにしてください。私、実家で小さい弟妹の寝かしつけだけは得意だったんです」
「何を——」
茉莉花は、李信の大きな手を、自身の両手で包み込んだ。
途端、李信の身体に衝撃が走る。
……なんだ、これは。
煮え繰り返るような脳内の熱が、彼女の手を通じ、急速に冷却されていく。
茉莉花から漂う、淹れたての紅茶と陽だまりを混ぜたような、柔らかな香り。
それが彼の荒れ狂う独占欲を、優しく、そして強引に押さえつけていく。
「お前……何をした……」
李信の声から険が消える。
膝の力が抜け、彼は崩れ落ちるように茉莉花の肩に頭を預けた。
鉄の鎧を纏っていたような緊張が、音を立てて崩れていく。
「……あたたかい……」
「よしよし。お疲れ様でした、陛下」
茉莉花がそっと彼の銀髪を撫でると、李信は抗うこともできず、そのまま茉莉花を抱きしめるような形で寝台へと倒れ込んだ。
数分後。
そこには、あれほど恐れられていた『氷狼皇帝』が、茉莉花の腹部に顔を埋め、幼子のように深い寝息を立てている姿があった。
「……本当に寝ちゃった。寝顔だけ見ると、『氷狼皇帝』とはとても思えないわね」
茉莉花は苦笑しながら、彼の柔らかな髪をもう一度撫でた。
これが、のちに『華国一の過保護』とまで言われる独占欲の始まりだとは、この時の茉莉花はまだ知る由もなかった。
そこは、この世で最も美しく、そして最も冷酷な男の支配領域だった。
「……お前が、今夜の生贄か」
低い、地響きのような声が茉莉花の鼓膜を震わせる。
目の前に立つのは、華国の若き皇帝、李信。
銀の髪は月光を反射して鋭く光り、切れ長の瞳は、彼が持つ異能である『氷河』そのものの冷徹さを湛えている。
……噂以上の威圧感。まさに『氷狼』ね。
茉莉花は、服の裾を握りしめ、深々と頭を下げた。
彼女は本来、ここにいるはずの人間ではない。
高慢な異母姉が「あんな冷酷な男の寝所に通されるなんて死んでも嫌だ」と泣き喚いたため、身代わりとして差し出された『落ちこぼれ』の令嬢だ。
「茉莉花と申します。……陛下、お初にお目見えいたします」
「唐家の娘か。どいつもこいつも、私を怯えた目で見おって。虫唾が走る」
李信は忌々しげに舌を打ち、茉莉花の顎を乱暴にクイと持ち上げた。
至近距離で見つめ合う。
彼の瞳の奥には、どろりと濁った深い隈と、狂気にも似た『苛立ち』が渦巻いていた。
この人、ひどい顔……。あぁ、噂の『不眠症』は本当だったんだわ。
李信は建国以来最強の独占欲を持つと言われているが、その代償として、自身の独占欲が昂ぶりすぎて脳が休まらず、ここ数ヶ月まともに眠れていないという。
「……何を見ている。貴様も、私の首を狙いに来た刺客か?それとも、媚薬でも仕込んで寵愛を強請るつもりか?」
「いえ、特には。ただ、あまりにお顔が疲れていらっしゃるので、お可哀想だなと」
「……は?」
李信の動きが止まる。
今まで彼に近づいた女たちは、恐怖に震えるか、あるいは野心に瞳を輝かせるかのどちらかだった。
こんな風に、近所の野良猫でも見るような同情の眼差しを向けられたのは初めてだ。
「無礼な女だ。……処刑されたいのか」
「どうせ身代わりで来た身です。殺されるのも、不敬で追い出されるのも、大差ありませんわ」
茉莉花はふう、と小さく溜息をついた。
彼女には、生まれつき微かな『浄化の残り香』という、独占欲を鎮める体質があった。
実家では『役立たずの香料』と馬鹿にされていたが、今の李信にとっては、これ以上ない劇薬となる。
「陛下。……少しだけ、静かにしてください。私、実家で小さい弟妹の寝かしつけだけは得意だったんです」
「何を——」
茉莉花は、李信の大きな手を、自身の両手で包み込んだ。
途端、李信の身体に衝撃が走る。
……なんだ、これは。
煮え繰り返るような脳内の熱が、彼女の手を通じ、急速に冷却されていく。
茉莉花から漂う、淹れたての紅茶と陽だまりを混ぜたような、柔らかな香り。
それが彼の荒れ狂う独占欲を、優しく、そして強引に押さえつけていく。
「お前……何をした……」
李信の声から険が消える。
膝の力が抜け、彼は崩れ落ちるように茉莉花の肩に頭を預けた。
鉄の鎧を纏っていたような緊張が、音を立てて崩れていく。
「……あたたかい……」
「よしよし。お疲れ様でした、陛下」
茉莉花がそっと彼の銀髪を撫でると、李信は抗うこともできず、そのまま茉莉花を抱きしめるような形で寝台へと倒れ込んだ。
数分後。
そこには、あれほど恐れられていた『氷狼皇帝』が、茉莉花の腹部に顔を埋め、幼子のように深い寝息を立てている姿があった。
「……本当に寝ちゃった。寝顔だけ見ると、『氷狼皇帝』とはとても思えないわね」
茉莉花は苦笑しながら、彼の柔らかな髪をもう一度撫でた。
これが、のちに『華国一の過保護』とまで言われる独占欲の始まりだとは、この時の茉莉花はまだ知る由もなかった。


