煌びやかな極彩色に彩られた後宮。
朱の灯籠が回廊の漆を濡らし、絹の裾がすれ合うたび甘い香がほどける。
その華やかさの奥では、『皇帝の寵愛』という名の、目に見えない椅子取りゲームが息を潜めて牙を研いでいた。
だが、そのきらめきから最も遠い場所――北西の端にある『開かずの物置』の裏に、一人の侍女がいる。
「おーい、みんな。飯だぞー。今日は奮発して、御膳所の余り物の干し魚だ」
侍女の名前は小鈴。
彼女は後宮で『猫憑き』あるいは『歩くマタタビ』と囁かれている変な女だった。
彼女が歩けば、屋根の上から猫が降りてくる。
彼女が掃除をすれば、バケツの中に猫が入っている。
「にゃーん」
「なー」
小鈴が声をかけると、茂みがさわり、床下で板が小さく鳴った。
次の瞬間、物置の隙間から尻尾の影がぬるりと現れ、猫たちがすり足で滲み出てくる。
濡れた鼻先の息、爪が土をひっかく音、魚の匂いに吸い寄せられる喉の小さな鳴り。
――十数の命が、一斉に集まった。
彼らはすべて、かつて高位の妃たちが『可愛い』と愛玩し、飽きたり、成長して可愛げがなくなったりした途端に、ゴミのように捨てられた『元・愛玩猫』たちだ。
「よしよし。麗妃様に捨てられたシロ、お前また太ったな?隠居生活が板についてるじゃないか」
小鈴は、真っ白で毛並みの良い――しかし少し目つきの悪い猫の頭を撫でた。
ふわりと柔らかな毛が指先に絡む。撫で返すように、猫の額が押しつけられた。
後宮の侍女にとって、捨て猫の世話は本来『余計な仕事』だ。
見つかれば『不潔だ』と罰せられる可能性すらある。
だが、小鈴には放っておけない理由があった。
「……ま、私もお前らと同じ『お払い箱』予備軍だしね」
小鈴は自嘲気味に笑う。
彼女は元々、名家のお嬢様……ではなく、地方の貧乏役人の娘だ。
特技は『動物に好かれること』と、『どんな嫌味を言われても右から左へ受け流す鋼のメンタル』。
美貌を競い合う妃たちの陰で、猫の毛だらけの服を着て、猫の爪痕を勲章のように腕に刻みながら、彼女は今日も平和に生きていた。
――だが、この日の夜。
その平和は、音を立てて崩れ去る。
深夜。雲が月を噛み、回廊の灯りが届かない。後宮はしんと静まり返っていた。
小鈴は、昼間にこっそり隠しておいた『特製・魚の煮付けの残り』を抱え、いつもの廃屋へ向かう。
今日は新入りの子猫が来てるはず。
ちゃんとお母さん猫のミルクを飲めてればいいんだけど……
廃屋の扉に手をかける。
湿った木と古い藁の匂いが、息といっしょに喉へひっかかった。
建付けの悪い扉を押すと、錆びた蝶番が骨みたいに鳴く。
「ギギィ……」
小鈴は慣れた手つきで隙間から滑り込んだ。
――だが、そこには先客がいた。
「…………え?」
真っ暗なはずの廃屋に、一本の蝋燭が灯っている。
揺れる火が梁の影を伸ばし、土壁に人の背を切り取った。
豪奢な漆黒の長袍。長身の男。背中だけで、近づくなと言っている。
えっ、不審者!?泥棒!?それとも、夜這いに失敗して迷い込んだ可哀想な役人!?
小鈴が悲鳴を上げようとした、その時。
男の口から、およそこの世のものとは思えない声が漏れた。
「……あーら、よちよち。パパでちゅよー。お腹空いたでちゅか?待っててね、今、最高級の鰹節を削ってあげまちゅからねぇ……」
小鈴の思考が止まった。
いつもなら玉座の下まで冷える低音が、今夜は妙に甘く、息の混じった丸い声になっている。
声の主は、さらに続ける。
「んん〜っ!おててが、おててが包子みたいでちゅね!誰がこんなに可愛く産んだんでちゅか?朕かな?朕がパパだからかな!?ほーら、ちゅーしてあげまちゅ!んーーっ、……ちゅ!」
男が振り向いた。
そこにあったのは、冷徹非道、氷の如き美貌と謳われ、数ヶ月もの間どの妃の元にも通わず『女性嫌い』とまで噂されている、この国の最高権力者――皇帝・李白その人であった。
皇帝の腕の中には、生後一ヶ月ほどのトラ猫が収まっている。
頬はだらしなく緩み、瞳は慈愛で満ち、鼻先には猫の毛が一本、誇らしげに刺さっていた。
そして――。
バッチリと、小鈴と目が合った。
「………………あ」
「………………え」
沈黙。
梁が、ミシリと鳴った。
皇帝・李白の顔が、みるみるうちに『冷徹な皇帝』へと戻っていく。戻そうとしている。
だが、猫の毛は取れていない。耳たぶだけが熟した果実みたいに赤い。
「……貴様。何を見た」
低く、地を這うような冷酷な声。
だが、その耳たぶは熟したザクロのように真っ赤だ。
「ええと……。皇帝陛下が、猫ちゃんに『ちゅー』をして、『パパでちゅよ』と仰っていたところまでは……あ、あと、語尾に『まちゅ』がついていたのも、しっかり記憶に……」
「死ね。今すぐ忘れて死ね。でなければ、貴様を猫の餌にしてやる」
「それは困ります。私がいなくなると、この子たちのブラッシングをする者がいなくなりますので」
小鈴が真顔で答えると、皇帝は一瞬、言葉を失った。
膝の上の子猫が「みぃ」と鳴き、皇帝の指が反射で優しく撫でた。
これが、呪われた侍女と、猫中毒の皇帝による、最悪で最高な夜の始まりだった。
「……今の言葉を、もう一度言ってみろ」
小鈴が真顔で答えると、皇帝は一瞬、言葉を失った。
膝の上の子猫が「みぃ」と鳴き、皇帝の指が反射で優しく撫でた。
これが、呪われた侍女と、猫中毒の皇帝による、最悪で最高な夜の始まりだった。
朱の灯籠が回廊の漆を濡らし、絹の裾がすれ合うたび甘い香がほどける。
その華やかさの奥では、『皇帝の寵愛』という名の、目に見えない椅子取りゲームが息を潜めて牙を研いでいた。
だが、そのきらめきから最も遠い場所――北西の端にある『開かずの物置』の裏に、一人の侍女がいる。
「おーい、みんな。飯だぞー。今日は奮発して、御膳所の余り物の干し魚だ」
侍女の名前は小鈴。
彼女は後宮で『猫憑き』あるいは『歩くマタタビ』と囁かれている変な女だった。
彼女が歩けば、屋根の上から猫が降りてくる。
彼女が掃除をすれば、バケツの中に猫が入っている。
「にゃーん」
「なー」
小鈴が声をかけると、茂みがさわり、床下で板が小さく鳴った。
次の瞬間、物置の隙間から尻尾の影がぬるりと現れ、猫たちがすり足で滲み出てくる。
濡れた鼻先の息、爪が土をひっかく音、魚の匂いに吸い寄せられる喉の小さな鳴り。
――十数の命が、一斉に集まった。
彼らはすべて、かつて高位の妃たちが『可愛い』と愛玩し、飽きたり、成長して可愛げがなくなったりした途端に、ゴミのように捨てられた『元・愛玩猫』たちだ。
「よしよし。麗妃様に捨てられたシロ、お前また太ったな?隠居生活が板についてるじゃないか」
小鈴は、真っ白で毛並みの良い――しかし少し目つきの悪い猫の頭を撫でた。
ふわりと柔らかな毛が指先に絡む。撫で返すように、猫の額が押しつけられた。
後宮の侍女にとって、捨て猫の世話は本来『余計な仕事』だ。
見つかれば『不潔だ』と罰せられる可能性すらある。
だが、小鈴には放っておけない理由があった。
「……ま、私もお前らと同じ『お払い箱』予備軍だしね」
小鈴は自嘲気味に笑う。
彼女は元々、名家のお嬢様……ではなく、地方の貧乏役人の娘だ。
特技は『動物に好かれること』と、『どんな嫌味を言われても右から左へ受け流す鋼のメンタル』。
美貌を競い合う妃たちの陰で、猫の毛だらけの服を着て、猫の爪痕を勲章のように腕に刻みながら、彼女は今日も平和に生きていた。
――だが、この日の夜。
その平和は、音を立てて崩れ去る。
深夜。雲が月を噛み、回廊の灯りが届かない。後宮はしんと静まり返っていた。
小鈴は、昼間にこっそり隠しておいた『特製・魚の煮付けの残り』を抱え、いつもの廃屋へ向かう。
今日は新入りの子猫が来てるはず。
ちゃんとお母さん猫のミルクを飲めてればいいんだけど……
廃屋の扉に手をかける。
湿った木と古い藁の匂いが、息といっしょに喉へひっかかった。
建付けの悪い扉を押すと、錆びた蝶番が骨みたいに鳴く。
「ギギィ……」
小鈴は慣れた手つきで隙間から滑り込んだ。
――だが、そこには先客がいた。
「…………え?」
真っ暗なはずの廃屋に、一本の蝋燭が灯っている。
揺れる火が梁の影を伸ばし、土壁に人の背を切り取った。
豪奢な漆黒の長袍。長身の男。背中だけで、近づくなと言っている。
えっ、不審者!?泥棒!?それとも、夜這いに失敗して迷い込んだ可哀想な役人!?
小鈴が悲鳴を上げようとした、その時。
男の口から、およそこの世のものとは思えない声が漏れた。
「……あーら、よちよち。パパでちゅよー。お腹空いたでちゅか?待っててね、今、最高級の鰹節を削ってあげまちゅからねぇ……」
小鈴の思考が止まった。
いつもなら玉座の下まで冷える低音が、今夜は妙に甘く、息の混じった丸い声になっている。
声の主は、さらに続ける。
「んん〜っ!おててが、おててが包子みたいでちゅね!誰がこんなに可愛く産んだんでちゅか?朕かな?朕がパパだからかな!?ほーら、ちゅーしてあげまちゅ!んーーっ、……ちゅ!」
男が振り向いた。
そこにあったのは、冷徹非道、氷の如き美貌と謳われ、数ヶ月もの間どの妃の元にも通わず『女性嫌い』とまで噂されている、この国の最高権力者――皇帝・李白その人であった。
皇帝の腕の中には、生後一ヶ月ほどのトラ猫が収まっている。
頬はだらしなく緩み、瞳は慈愛で満ち、鼻先には猫の毛が一本、誇らしげに刺さっていた。
そして――。
バッチリと、小鈴と目が合った。
「………………あ」
「………………え」
沈黙。
梁が、ミシリと鳴った。
皇帝・李白の顔が、みるみるうちに『冷徹な皇帝』へと戻っていく。戻そうとしている。
だが、猫の毛は取れていない。耳たぶだけが熟した果実みたいに赤い。
「……貴様。何を見た」
低く、地を這うような冷酷な声。
だが、その耳たぶは熟したザクロのように真っ赤だ。
「ええと……。皇帝陛下が、猫ちゃんに『ちゅー』をして、『パパでちゅよ』と仰っていたところまでは……あ、あと、語尾に『まちゅ』がついていたのも、しっかり記憶に……」
「死ね。今すぐ忘れて死ね。でなければ、貴様を猫の餌にしてやる」
「それは困ります。私がいなくなると、この子たちのブラッシングをする者がいなくなりますので」
小鈴が真顔で答えると、皇帝は一瞬、言葉を失った。
膝の上の子猫が「みぃ」と鳴き、皇帝の指が反射で優しく撫でた。
これが、呪われた侍女と、猫中毒の皇帝による、最悪で最高な夜の始まりだった。
「……今の言葉を、もう一度言ってみろ」
小鈴が真顔で答えると、皇帝は一瞬、言葉を失った。
膝の上の子猫が「みぃ」と鳴き、皇帝の指が反射で優しく撫でた。
これが、呪われた侍女と、猫中毒の皇帝による、最悪で最高な夜の始まりだった。

